ポゴレリチに関する雑感

 先週のポゴレリチの演奏の衝撃が抜けない。どうしても気になって色々と調べてみた。そうして感じたことをとりとめもなく書くことにした。

 ポゴレリチといえば、まず何と言っても有名なのは1980年のショパンコンクールでの「ポゴレリチ事件」だろう。彼が一次予選を通過したことに抗議して、審査員の一人だったルイス・ケントナーが審査員を辞任。次いで、彼が本選に進めなかったことにアルゲリッチが猛抗議して、「彼は天才」と言い放って審査員を辞任した。このアルゲリッチの発言はコンサート主催者やレコード会社の格好の宣伝文句となってしまって、今も安易に使われ続けているのには呆れてしまうけれど、とにもかくにもこれで彼が有名になったことは間違いない。
 ただ、これよりは知られていない事実で(といってもかなり有名だけど)、かつ彼にとって遥かに重要な、というよりは、彼の人生で唯一と言っていいほどの決定的な影響力をもった出来事なのだろうと推測されるのは、彼が自分より21歳年上で、自分のピアノの師でもあったアリサ・ケゼラーゼと結婚し、その最愛の妻が結婚から16年後(1996年)に癌で亡くなったという事実だ。ケゼラーゼの死の後も演奏活動を続けたポゴレリチだったけれど、更に4年後に今度は父が亡くなったことをきっかけとして重い神経症を発症してドクターストップ。療養のため演奏活動をしばらく休止したという。この後、彼は別の女性と再婚したが、3年後に離婚した。
(このあたりの事情はこちらのサイトに非常に詳しく記載されていて、大変参考になった。)

 僕は普段、他人のゴシップ記事には全く興味を示さない人間なのだけれど、このポゴレリチの経歴(というか私生活面)にはどうしても踏み込まない訳にはいかない。というのは、彼が神経症を病んだ前後で、決定的に彼の演奏が変わったと思うから。
 彼はケゼラーゼの死後、一切CDを録音していない。今回彼の演奏に衝撃を受けて、いくつも彼の録音を購入して聴いてみたけれど、それらは全てケゼラーゼの存命中の録音。どの演奏ももちろん独特だし、たとえばブラームスの独奏曲なんかを聴いていると、極端におそいテンポをとったり、あるいは他人には理解できない独白や、唐突な怒りの爆発のような音楽を彼は演奏している。そういう意味で、もともと彼に極めて内向的な性向があったのは間違いない。それでも、これらの録音からは、たとえ陰鬱な音楽を演奏するときでも、彼が究極的には希望の存在を肯定していることが明瞭に読み取れる。その点で、先日の絶望に塗りつぶされた彼の演奏とは決定的な差があるのは明らかだ。
 また、これはあまりあてにならないのだけれど、僕は彼の実演を1999年に日本で聴いている。随分前のことなので彼の演奏についてはテンポの遅さ以外に何も覚えていないのだけれど、先日の演奏のような絶望感を感じることはなかったように思う(ただしこれは本当に自信がない)。
 こういうことから考えて、彼が最愛の妻の死と、その後の父の死によって極めて深刻で危機的な心の傷を負ったことはまず間違いない。そして今の彼の演奏は、その心の傷をそのまま掴んで突き出してきたような暗さと辛さと絶望に満ちているのだ。前回の演奏会のレビューで、彼の演奏が我と我が身を傷つけているような音楽で、演奏すること自体が自身を傷付ける行為のようだという印象を書いた。彼の経歴を知ると、改めて演奏という行為が彼にとっては危機的な行為なのではないかと思わずにいられない。もしかしすると彼は、亡き妻との何かの約束を果たすために、自分が傷つくことを承知で演奏を続けているのではないかとも思った。もしそうだとすると、凄絶としか言いようがない。

 彼の演奏が芸術としての意義を持つか、ということについても改めて考えた。少なくとも、一般的な意味でのクラシック音楽の演奏の枠組みからは完全に逸脱しているし、そこに表現されているものは狂気と絶望で塗りつぶされた世界であって、そこには何の慰めも救いもなかった。彼はチャイコフスキーの協奏曲を弾いたけれど、チャイコフスキーの作品はあくまでも彼が狂気と絶望を吐露するための契機に過ぎず、チャイコフスキーが作品に込めた感情や表現は完全に無視されている。これは演奏者として許されることなのか。
 ここで逆のケースを考えてみる。あるピアニストがチャイコフスキーの協奏曲を、創造の歓喜に満ちた音楽として演奏したとする。どこをとっても純粋な喜びに溢れている演奏。そういう演奏だと、おそらく多くの人に好意的に受け入れられるだろう。もちろん、チャイコフスキーの協奏曲はそういう音楽だから当然だろうと言われるかもしれない。でも、なぜそれが当然なのか。逆に絶望に満ちた音楽だったらだめなのか。
 それが作曲者の意図だから、というのは回答にはならない。現代においては、作曲家の意図に忠実な演奏であることが一つの規範であるかのように語られているけれど、全ての演奏家がそれぞれに趣向を凝らして演奏している現実、そして聴衆もそれぞれに好みの演奏家を支持している現実を考えると、それが単なるお題目に過ぎないことは明らかだ。そもそも僕は、唯一絶対の音楽、唯一絶対の演奏などという考え方は芸術に対する死刑宣告でしかないと思っている。芸術は、過去に創造された傑作を乗り越えることで発展しているからだ。

 クナッパーツブッシュと言う名指揮者がいた。彼がウィーンフィルを指揮してレオノーレの序曲の3番を演奏した映像が残されている。この演奏のテンポがびっくりするほど遅い。でもみんな、「クナッパーツブッシュだから」と許容している。一方で、現代の指揮者の中には、この曲をクナッパーツブッシュの倍も速いテンポで演奏する人がいるはずだ。つまり、テンポについては倍半分の振幅は許されるケースがあるということになる。
 テンポは表現の手段であって、その手段の違いと演奏の表現そのものの違いは別ものだ、と言う人もいるだろう。でも、テンポが違うことによって聴こえてくる音楽が違うことになること自体は間違いない。ここから言えるのは、程度の差はともかく同じ音楽から違う表現が聴こえてきても許されるということだ。では、どの程度の差までが許されるのか。
 ここから先は、価値観や信念の話になるだろう。僕は、許容範囲は無限だと思っている。最も過激なスタンスだけれど、僕はその演奏が何かを本気で表現している限りにおいて、それは芸術として許容されるべきだと考える。

 ただし一つだけ断っておくと、芸術として受容することと、その芸術作品に対する僕自身の(あるいは一人一人の鑑賞者の)好みとはまた別の話だ。これはちょっと紛らわしくて、誤解を招きやすい点かも知れない。
 芸術の善し悪しの判断と好き嫌いの判断は、ともに(ある程度以上は)主観的なものなので厳密な切り分けはできない。でも、芸術として受容するからそれが好き、あるいは嫌いだから芸術とは認めない、というのは話が単純に過ぎる。例えば今回のポゴレリチの演奏について、あれが好きかと訊かれると、僕の答えは恐らくNoと言う方がより正確だろうと思う。あまりにも絶望感が強すぎて、簡単に「あれが好き」などと言える代物ではない。でも、また聴きたいかと言われれば(頻繁にでなければ)聴きたいと思うし、芸術として認めるかと訊かれればYesだ。そしてまた同じ論理で、ポゴレリチの演奏を嫌う人がいることも当然あり得ることだと思う。

 こういう議論は現代アートの分野で盛んにやられていることではないかと思う(僕は「クラシック」音楽でももっと活発にやっていいと思うのだけれど)。今回のポゴレリチの演奏は、チャイコフスキーを題材にして現代アートの分野に踏み込んだものだったと思うし、それはまた、「クラシック」音楽が現代において生きた価値を持つ芸術形態であることを明確に主張した事件でもあったと思う。
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by voyager2art | 2010-11-30 07:56 | 雑感


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