拒まれた一歩/ブレハッチ ピアノリサイタル

 先日のユリアンナ・アヴディエヴァに続いて、前回のショパンコンクール優勝者のラファウ・ブレハッチのリサイタルを聴きにいった。ブレハッチの演奏は、録音を含めて一度も聴いたことがなかった。彼については2005年のショパンコンクールで優勝したという以外のことは何も知らないまま、ほぼ完全な白紙の状態で聴いたけれど、並大抵ではない才能を持ったピアニストだった。

 最初はバッハ。なにせ一度も聴いたことのないピアニストだけに、バッハの演奏がはじまる瞬間はかなりドキドキ。そして聴こえてきたのは、とても豊かな音色だった。一つ一つの音がとても充実していてよく鳴っている。音色の幅が広く、それを自由にコントロールできているので複数の旋律の弾き分けも完璧。最初の指慣らしという感じではなく、いきなり本気。
 ただ、彼の演奏にはわずかに粘るリズムがあって、音楽が素直に流れていかない。横方向の旋律の流れよりも一つ一つの音をしっかり鳴らす方に意識が向いているようなところがあって、この曲特有の流麗さが失われてしまっていた。また、バッハ特有の、複数の旋律が重なるところで、彼は常に主従の段階付けを行い、表に出る旋律と裏に回る旋律を、全く異なる音色と音量で演奏する。三声以上を同時に演奏するときでも、彼はそれぞれの声部を全て異なる重みで演奏するので、その多層性の表現は見事なのだけれど、二つの旋律が対等の重みで競い合う緊張感はない。更に、彼は完全に現代ピアノの立場でバッハを弾いていて、ときにベートーヴェンでも弾くような力強い響きを作る。これが、バッハを演奏する上ではネガティブな方向に働いていたように思う。

 続くシマノフスキは一転して非常に面白かった。和声が多彩で複雑になるので、彼の色彩豊かな響きがとても生きる。和声と楽想の変化に合わせて自在にコントロールされるピアノの響きの多彩さが素晴らしい。その上、彼には短調系の旋律を深い表情で歌わせる独特のセンスがあって、ピアノの多彩な響きが上滑りせずに音楽の表現にうまくつながっていたと思う。
 シマノフスキを弾き終わると、立ち上がってお辞儀をすることなくすぐにドビュッシーを弾き始める。このあたりから、彼の音楽の特徴がはっきりと分かってきた。
 一曲目の前奏曲は、派手なグリッサンドなど非常に華々しい装飾がある曲だけれど、彼の演奏は絶対に華美にならない。むしろ重く真面目な演奏で、芯の通った強い音で弾くので、パリのサロンの華やかな雰囲気とは無縁。対照的に、続くサラバンドは繊細だけれど大胆な和声に乗ったノスタルジックな音楽の表現が密度が印象的だった。これも非常に内省的な演奏で、派手なクライマックスを聴かせる音楽ではないので、彼の骨太で深い色合いの音楽が非常に合う。ただしこれも、いわゆるドビュッシーらしい、浮遊感のある演奏ではない。大地に深く根を張った老木を見るような音楽。
 この曲集の最後のトッカータは圧巻だった。細かく連なる音の一つ一つが深く充実した豊かな音で響くので、全体としての響きの厚みは並大抵ではない。しかもその色合いが刻一刻と変化し、それもカラフルというよりは、深緑や群青や焦げ茶色といった、重厚な色合いなので、強い圧力と凄みを感じさせる。また、彼の技術は恐るべき水準にあって、この難曲をやすやすと弾きこなしながら、いま言ったような重厚な色彩と、太く流れる強い音楽を生み出し続ける。
 ちなみに、シマノフスキが前奏曲とフーガ、ドビュッシーが前奏曲・サラバンド・トッカータという曲で構成された組曲ということを考えれば、彼がバッハを軸として前半のプログラムを構成したことは明らかだ。このあたりに、プログラム作りの独特なセンスを感じる。ただし演奏は、肝心のバッハよりもシマノフスキとドビュッシーの方がはるかに面白かった。

 ここまでで強く思ったのは、彼の演奏がどこか聴き手を拒んだような音楽だということ。例えばこの前強烈な印象を受けたポゴレリチは、音楽を絶望で塗りつぶすような演奏をしていたけれど、彼自身は周囲の人のあらゆる行為を無条件で受け入れる、開かれた態度を持っていた。アヴディエヴァも、華やかさに背を向けて深い音楽を演奏する人だったけど、彼女が聴き手を強く自分の音楽に引きずり込むのに比べると、ブレハッチの演奏は、その見事さで聴き手を惹き付けておきながら、ある距離から先には聴き手が入ってくるのを許さない厳しさがある。こちらとしては、彼にあと一歩というところまで近づいておきながら、その一歩が踏み出せず、「こんにちは」の一声を掛けることが許されていないような、そういう拒絶を感じる。


 休憩を挟んでショパン。この選曲を最初に見たときに、少し首を傾げた。中心になるべき曲がなく、印象の薄い曲ばかり選んだなというのが正直な印象だった。しかし実際に聴いてみると、また違った印象を受けた。
 まずはバラードの2番。最初の舟歌のような旋律は、速めのテンポで飛ばす。もちろんよく歌ってはいるけれど、心に染み入るような歌わせ方ではない。次いで、いきなり激しい音楽が爆発するように始まると、彼は右手と左手のリズムをかなりずらしながら、猛烈な圧力の音楽を作り出す。音そのものの激しさよりも、その一段階メタレベルでの激しさの表現になっているので、より巨大な音楽になる。ここでも彼はやはり、外に向けて開かれた爆発ではなく、深く厳しく自分の内側に向かって音楽を掘り下げていく。ときどき思い出したように現れる舟歌の旋律も、あくまでも経過句でしかなく、全体としては極めて激しい基調の音楽だった。
 こういう演奏をする彼がワルツを弾いても、当然のように社交的な音楽にはならない。全く色気や華やかさのない、厳しい演奏。なぜ彼がワルツを今日のプログラムに入れたのか、僕にはよく分からない。ただ、3曲のうちの2曲目、イ短調のワルツは彼らしさがよく出た秀演。特に中間部の、左手が旋律を弾いているところに右手の旋律がかぶさってくるところの演奏は素晴らしかった。太く豊かな音色で歌っていた左手の旋律が、右手の旋律が入ってくるとすっと後ろに下がり、その右手の旋律が明るく太い音色で豊かに歌う。この鮮やかな交替が何度か繰り返されたのが非常に強く印象に残っている。

 続いて初期のポロネーズを二曲。ここでも彼らしい豊かな響きを駆使した、厳しい演奏。激しさとノスタルジーが、絶妙に交錯する。このノスタルジーの部分で、彼がようやく心を開きかけたかのようにも思えたけれど、やはりすぐに心の扉が閉じられる。演奏に心がこもっていないというのではない。そういう心の表現を伴った演奏をしているのだ。ピアノの響きの見事なコントロールに感心する一方で、その表現の孤独な厳しさに何とも言えない苦しさを感じる。
 最後のスケルツォ1番も彼の特徴がよく現れた演奏になった。巨竜が暴れているかのような、深く激しく巨大な音楽。かなり難解なこの曲を、彼は完全に自分のものとして演奏していた。

 彼の音楽には、独特の厳しさと深さと、そして恐らく若さ故の純潔に支えられた潔癖があるように思う。彼の人となりを僕は全く知らないけれど、今の彼は自分の周囲に明確な境界を設定し、その中で自分の音楽を深め、充実させようとしているように見える。
 全く根拠のない想像だけれど、彼は将来、実生活で何か大きな出来事を経験して、それをきっかけに境界を打ち破る日が来るのではないかという気がする。今でも相当な演奏をする彼ではあるけれど、そうなってからが本当に面白いピアニストなのではないか。これが、僕の今日の率直な感想だ。


Rafal Blechacz (Piano)

J. S. Bach: Partita No.1 in B flat for keyboard, BWV825
Szymanowski: Prelude & fugue in C sharp minor
Debussy: Pour le piano
Chopin: Ballade No.2
Chopin: 3 waltzes, Op34
Chopin: 2 polonaises, Op.26
Chopin: Scherzo No.1 Op.20

Queen Elizabeth Hall, Southbank Centre, London
7th December, 2010 (Tue) 19:30 - 
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by voyager2art | 2010-12-08 09:27 | ピアノ


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