楽譜を眺めてみる(その1)

 クラシック音楽の予習をするときに、絶対に見てみると面白いのが楽譜。僕も今でこそ怠け者になって楽譜を開く機会が減ったけど、昔は電車の中で一心に楽譜を読み耽ったりしていた。朝から通勤電車の中で「トリスタンとイゾルデ」の愛の死の楽譜を開き、一人でひどく感動したりして、まったく変人もいいところだった。
 でも本当に読む価値はあると思うので、楽譜を開いて何が見えるのか、ちょっと書いてみることにした。もちろんこれはあくまでも単なる音楽好きが趣味でこうやって楽譜を眺めているということの紹介であって、プロはもっと真剣に楽譜と向き合っていることを忘れちゃいけない。


 まず思いつきで、誰でも知っているベートーヴェンの運命の冒頭を見てみることにする。楽譜なんか持っていない、という人もご安心を。今はインターネット上で、著作権の切れた作品の楽譜がほとんど何でも手に入る。IMSLPというサイトから、ベートーヴェンのページを検索して、運命(Symphony No.5)のページに飛んでみる。

 ここでFull Scores(日本語では総譜と言って、オーケストラの全パートを並べた楽譜のこと)のところに、いくつもファイルがある。一番上にあるのは何とベートーヴェンの自筆譜。こんなものまでネットで手に入る。ただし手書き譜は読みにくいし、ベートーヴェンは悪筆で有名なので、ここは清書したものを見てみる。上から二つ目のファイルをダウンロード。

 ファイルを開くと、最初は表紙があったりなんかして、あの有名な冒頭の楽譜はファイルの7ページ目から(画像をクリックで拡大)。
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 よく「ジャジャジャジャーン」と言ったりするけど、楽譜をよく見ると最初は休符で、正確には「ンジャジャジャジャーン」(「ン」は発音しない)なのだと分かる、というのはこのブログを読む皆さんならもうご存知だろう。
 でもこうやって改めて眺めてみると、例えばこの冒頭が弦楽器だけでなく、実はクラリネットも参加しているという奇妙な事実にも気がつく。現代のオーケストラではクラリネットの音は弦楽器に埋もれてしまうけど、作曲当時の楽器だと、弦楽器だけの演奏よりも音色が豊かになったのかもしれないし、じゃあピリオド楽器による演奏だとどう聴こえるのだろうか、という興味が涌いてきたりもする。

 こうやって楽譜を見ていると、音の動きが形として目に入ってくるので、音を聴いているだけだとなかなか気付かない細かい点に気付くことになる。さっきの運命の冒頭のクラリネットなんかがそうで、近現代の複雑な音楽だけでなく、古典的で一見単純なような音楽でも、楽譜を見ていて気付くことが多い。


 楽譜を眺めていると、旋律以外の音に敏感になる。音符の動きが目に入ってくると、不思議なことに耳もその動きを追うようになる。例えば、マーラーの4番の冒頭を見てみると、鈴の音とそれに合わせた1、2番フルートに乗って、3、4番フルートが旋律を奏でる。



 普通に聴いているとこの鈴とフルートばかり印象に残るけど、楽譜を見るとこれに沿って動くクラリネットの伴奏が嫌でも目に入る。
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 この伴奏は一度気がつくと次からはずっと聴こえてくるけど、楽譜を見ないとなかなか最初からは意識しにくい。でもこの伴奏の動きが見えてくると、音楽が立体的に聴こえてくるようになる。
 時間のある人はそのまま楽譜を見ながらこの曲を聴いてみると、この音楽がいかにたくさんのメロディーを同時に鳴らしているかよく分かると思う。


 楽譜を見ていると、鳴っている音に比べて随分簡素な楽譜だなと思う場合と、逆に聴こえる以上に複雑な楽譜だなと思う場合がある。前者の例はリムスキー・コルサコフやチャイコフスキー(ただし悲愴は結構込み入った楽譜だ)、それからサン・サーンス。後者の筆頭はラフマニノフで、ワーグナーもそう。ラヴェルなんかは聴こえる通りに複雑、という感じ。


 コンサートの予習として楽譜を見る場合、僕は(旋律以外の)各パートがどう動いているのかを見るのと同時に、それぞれのパートがどう絡んでいるのかという点にも興味を持って見ている。それが音楽の表現に密接に関わっているからだ。
 例えば、先にも挙げたワーグナー。彼は管弦楽の大家で、人間の精神の襞の、本当に微細なところまで描き尽くした。その一つの例として、ニュルンベルクのマイスタージンガーから、第一幕への前奏曲を取りあげてみる。



 このオペラの楽譜も、IMSLPで手に入る

 壮麗に始まるこの曲、中ほどで愛の動機の音楽が流れる。上の動画だと4:04くらいからのところ。該当部の楽譜を以下に添付。

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 はじめのうちは1st Violinが旋律を奏でる一方で、クラリネットやヴィオラなどが裏でひっそりと、でも多彩な旋律を奏で、ヴァイオリンを支える。そのうち、上の楽譜でページが変わったあたり(動画だと4:20くらい)から、様々な楽器が入れ替わり立ち替わり旋律を奏でるようになる。
 この部分の楽譜を見ると、それぞれの旋律で八分音符と三連符が交替するだけでなく、楽器間で八分音符と三連符がぶつかっていることもわかる。こうすると、同じ時間に二つの音と三つの音を並べることになるので、どうしても双方でリズムが食い違ってぶつかることになる。それによって、数字では割り切ることのできない人の心のたゆたいが見事に表現されることになる。
 こうやってリズムがすっきり割り切れない例は、ロマン派以前にももちろんあった(モーツァルトにも出てくる)けど、こうやって積極的かつ執拗に使うようになったのは、やはりロマン派以降、ワーグナーのように心理をより深く表現するようになってからだ。


 こうやって、2:3のリズムをぶつけることで心理がより深く表現できるようになるのであれば、もっと複雑なリズムをぶつけたらもっと微細な心理が表現できるようになるのではないか、という考えは決して突飛なものではないだろう。そして実際に音楽史はその通りに進んだ。3:4でリズムをぶつけたり、更には5連符をぶつけてみたり、という例が出てくる。それも、奇抜な現代音楽ではなく、人気のある交響曲にすらそういう例がある。
 ここでクイズ。その曲とはいったい何でしょう?


 ヒントはこれ。その曲の一部を取り出したもので、主旋律にあたるヴァイオリンは外している。


 別の楽章からもう一つ。ここでも主旋律のパートを外している。こっちの方がだいぶ分かりやすいかな。





 主旋律が入ると、最初の例はこうなる。


 主旋律入りの二番目の例。





 そう、正解はマーラーの9番。最初の部分は1楽章からで、二番目の例は4楽章から。こうやって主旋律抜きのを聴いてから普通のを聴いたら、主旋律以外の音の動きも聴けるようになって、音楽を深く理解できると思いませんか?

 これも一応楽譜を添付。

【一番目の例(上の音声ファイルは3小節目から)】
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【二番目の例(上の音声ファイルは3小節目から)】
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 ちなみに一番目の例は、リズムこそ3:4まででそれほど複雑ではないものの、主旋律を外すとシェーンベルクか誰かの書いた、いわゆる現代音楽のように響く。マーラーは調性を限界まで拡げたとよく言われるけれど、これを聴くとマーラーは既に限界を超えていたとしか言いようがない。

 二番目の例はリズムのひずみがすさまじい。ほとんど支離滅裂というレベルで、お互いに全く調和しないリズムと旋律がいくつものたうち回っている感じ。もうマーラーの心は張り裂けんばかりになっていて、それを何とかして音にしようとすると、もうこうするほかなかったのだろうと思えてくる。
 マーラーは音による心理描写の点で、ワーグナーの手法を拡大して更に一歩深いところへ到達したと思う。それが、この楽譜からわかってくる。

 ここから更に一歩を踏み出して、じゃあこういう音楽をどう演奏したらいいか、というところまで考えられたら予習としては完璧だろう。上のマーラーだったら、各パートの奏者が髪を振り乱して弾くような激情型がいいのか、あるいは敢えて冷静さを保って知的で精度の高い演奏をした方が、曲自体の異常さと音楽の持つ強烈な叫びが強調されるんじゃないか、等々。
 そんなことを考えている時間はとても楽しい。そして演奏会に行ってみて、指揮者とオーケストラがどういうアプローチをするのか確認すれば、自分自身も音楽の創造のプロセスに加わることができるのだ。
 なんて偉そうなことを言いながら、僕は最近こういうことを全くやっていないのだけれど。



 楽譜については色々と書きたいことがたくさんあるので、時間をかけて何回かに分けて書いていくことにします。



 
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by voyager2art | 2011-01-16 09:45 | 楽譜


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