楽譜を眺めてみる(その3)~ ひとりでできるもん

 前回に更に引き続いて対位法の話。ただし今日はオーケストラではなくピアノ。第1回でリズムの極端なマーラーの9番の例を採り上げたけど、ピアノだと一人の人間が10本の指で弾くという制約があるので(現代音楽だったら腕全体でたくさんの音を弾いたりもするけど)、さすがにああいう極端な対位法はピアノでは物理的に不可能になる。
 とはいえ、ピアノの世界でも数多の作曲家が多くの曲を書き、それらの作品にピアニストたちが挑んできた歴史がある。彼らの天才と努力と霊感が築き上げてきたピアノ音楽には、ときに信じられないほど高度な対位法を実現したものがある。


 最初の例はバッハ。対位法の音楽について話すときにバッハを外すことはできないだろう。もちろんバッハの時代には現代のピアノはなかったけれど、彼は少なくとも鍵盤楽器のためには作曲をしたのだし、その作品の多くは、多彩な音色のコントロールが可能な現代ピアノで演奏されたときに、その深い魅力をより明確に表す。

 対位法といえばバッハというのと同じように、バッハ演奏から切り離せないピアニストがグレン・グールド。彼が世を去ってもう30年近くになるけれど、いまだに彼の演奏は素晴らしい輝きを放ち続けている。その彼の代表作、ゴールトベルク変奏曲(1981年録音版)を採り上げてみる。今回選ぶのは、その中から第18変奏。
 楽譜はこれ(クリックで拡大)。全曲の楽譜はこちら
a0169844_6504590.jpg

 右手の二本の旋律は、一方の旋律を音程を変えて、2拍ずらしただけで形はまったく同じ。こういう形式をカノンと呼ぶ。これは6度(ドの音とその上のラの音の間隔)ずらしているので、6度のカノン。

 この、最初に出て来る旋律だけ取り出すとこうなる。これだけ聴くと平凡な旋律。


 これを6度ずらす。平凡なのは当然変わらない。


 この二つを合わせると、途端に面白くなってくる。


 伴奏を付けてできあがり!




 この曲のグールドの演奏はこちら。第18変奏は動画の0:58から。



 グールドはこの曲の前半部を繰り返したときに、パート間のバランスを変える。最初に弾いたときは左手の旋律を強調しているのに対し、繰り返したときには右手の最初に出てくる旋律を浮き立たせ、他のパートを後ろにまわす。この切り替わりの鮮やかなこと! 繰り返したときに左手の旋律の音色を変えて音量をぐっと落とすので、聴き手はちょっと意表を突かれるようなかたちになって、その美しさにぐっと引き込まれる。
 これに対して、後半部分をグールドは繰り返さない。繰り返さないけれど、この後半部をさらに前後半に分けて、その中で音色の差をつけている。この美的バランス感覚の絶妙な洗練が素晴らしい。

 また、右手のカノンは完璧なレガートで弾き、左手は鮮やかなノンレガートで弾く。ノンレガート奏法はグールドの代名詞のようになっていて、例えば上の動画の最初に出てくる第17変奏なんかは彼のノンレガートのすごさがよく分かる。ノンレガートなのによく歌い、しかもリズムは精緻を極めていて、気品のある生気と表現力にあふれている。第18変奏でいえば、カノン部と伴奏部の対比を作ることで音楽が立体的になり、表情の深みが増す。このレガートとノンレガートの対比は、上の動画の第19変奏などでもよくわかる。



 バッハの例をもう一つ。平均律クラヴィーア曲集第1巻から、一番最初の前奏曲。グノーが旋律をつけてアヴェ・マリアの歌にした、有名な曲だ。ここではリヒテルの演奏を採り上げる。


 楽譜はこちら
a0169844_6525592.jpg

 この曲は、ぱっと聴いただけだと、分散和音が繰り返されるだけの非常に単純な音楽のように聴こえる。でも楽譜をよく見てみると、実は3つのパートからできていることが分かる。

 バス声部。



 そこに内声部が乗る。退屈かも知れないけど、ちょっとだけ我慢我慢。



 更に上声の分散和音が乗る。




 これを踏まえて、もう一度リヒテルの演奏を聴くと、何か気付きませんか?


 リヒテルは、バス声部をわずかに強調気味に弾き、一方で内声部はくぐもった音色でかなり控え目に弾く。そしてその上に、静謐な上声部を重ねる。何よりこの演奏の素晴らしいのは、バス声部が全曲を通して、静かだけど非常に息の長い旋律として、極めて美しく歌っているところだと思う。まるでこんこんと涌き出し続ける泉の澄んだ水のように、純粋で透き通った音楽がひたすらに流れ続ける。ピアノによる対位法演奏の極致がここにある。



 対位法音楽が書かれたのは何もバロック時代だけではない。時代は飛んで19世紀後半のフランスから、ドビュッシーの作品を見てみる。「映像」第2集の1曲目、「葉ずえを渡る鐘(Cloches à travers les feuilles)」は、僕の大のお気に入りの曲。この曲の楽譜の最初のページを載せる(全曲の楽譜はこちら)。音楽が非常に複雑なので、ドビュッシーはここでは伝統的なピアノ用の二段譜ではなく三段譜を用いている。
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 最初の2小節間は単純ながら既に2声部で、続く3小節目から一気に4声部に増える。その後も複雑に入り組んだ楽譜が続く。
 ドビュッシーのピアノ曲を聴くとなると、やはりベネデッティ=ミケランジェリは外せない。繊細かつ鮮やかな音色と音響のコントロールは余人の追随を許さなかった。


 この曲の楽譜の4ページ目はこうなっている。
a0169844_6553847.jpg


 このページの3小節目からの、最上段のパート。3度で動く最上声部と、その下で細かく動く声部を右手で同時に弾かないといけない。こういうところは二つのパートをはっきりと分離させるのがとても難しい。でもミケランジェリはそれを見事にやってのける(動画は1:38から)。ここはYoutubeではなくて、CDを買ってちゃんとした再生装置で聴いたほうが分かりやすい。


 画質は悪いけど、ミケランジェリが同じ曲を弾いた動画もある。冒頭部分の二つのパートを弾き分けるために、彼がどうやって音色に差をつけているかがはっきりとわかる。これも正規のDVDが出ているので、興味のある人にはおすすめ。



 この多声部の弾き分けということについては、バッハで例に出したリヒテルも本当にすごい。同じ曲の彼の演奏。



 次回は少し別の話題にするつもりです。
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by voyager2art | 2011-01-19 07:12 | 楽譜


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