食わず嫌い/エフゲニー・キーシン ピアノリサイタル

 バービカンセンターでキーシンのリサイタルを聴いてきた。キーシンは今まで実演はおろか、録音でも聴いたことがなかった。しかもプログラムは僕の嫌いなリストの曲ばかり。じゃあ何故聴きに行ったの?と訊かれるかも知れないけど、理由は二つあって、一つはキーシンというピアニストに興味があったから。何故か僕はキーシンに変な先入観があって、多分それは「神童」とか何とかいう派手な売り口上が原因なんだと思うけど、今までずっと食わず嫌いで聴かずにいた。でも聴いて嫌いならともかく、聴かずに避けているのも愚かな話なので、最近は機会があれば聴きたいと思っていた。
 もう一つの理由は、リストの音楽に対して、キーシンなら何か突破口になるような新たな魅力を提示してくれるのではないかという期待があった。リストの音楽の中では唯一興味深いと思えるピアノソナタがプログラムに入っていたことも僕の背中を押した。


Evgeny Kissin Piano Recital

Franz Liszt:
Étude d'exécution transcendante No. 9 "Ricordanza"
Piano Sonata in B minor
(Interval)
Funérailles
Vallée d'Obermann
Venezia e Napoli

13/Feb/2011(Sun) 19:30 -
Barbican Centre, London



 最初の曲は超絶技巧練習曲の9番「回想」。冒頭の旋律から非常によく歌う。それもただサラサラと流れるのではなくて、濃厚に雄弁に、そして非常にロマンティックな歌い口。音はもちろんきれいだけれど、僕が予想していたよりもずっと深みのある音。もっと派手な音で弾くピアニストかと思っていた。一つ一つの音が、低音から高音までこれ以上はないというくらいによく響いていて上滑りしない。
 もう一つ気がついたのが、旋律の中でアクセントを付けるときに、キーシンは非常に強い音を使う。恐らく楽譜の指示からすると強すぎ、大きすぎるくらいの音だけれど、前後ときれいにバランスが取れていてアクセントが突出することがない。音楽の遠近感と縮尺を自在にコントロールしていて、旋律の印象を実に巧みに強めることに成功している。

 僕がリストのピアノ曲を嫌う大きな理由が、派手なだけで無意味な装飾句なんだけれど、キーシンはこれらの装飾句をうまく旋律の流れに取り込み、全く嫌らしくなく聴かせてしまう。この処理の上手さは本当に見事で、もともとの音楽の表現がしっかりしている上に力強く深みのある音色で弾くので、装飾のための装飾ではなく、音楽あるいは旋律の一部として聴こえてくる。
 こんなリストがあるとは考えたこともなかった。この演奏なら僕でも聴ける。キーシン恐るべし。


 続くピアノソナタは、リストの作品の中では例外的に僕も聴く曲。この曲は楽しみにしていた。
 この曲には独特の複雑さと深刻さがあるので、冒頭からキーシンも気合い充分。この冒頭部分、序奏の後にこのソナタ全曲を貫く二つの主要主題が立て続けに奏されるんだけれど、二つ目の主題の提示で、キーシンは通常なら分散和音のように奏する部分を、渾身の力を込めて一つ一つの音を際立たせて弾いた。このときの音の響きは驚異的で、ピアノの鍵盤一つからこんな大きな音が鳴るとは信じられないほどだった。出せる力を完全に出して弾いていて、しかも乱暴に叩き付けるのでもなく、ピアノから今まで聴いたことのない魔法のような豊かな音色を抽き出す。

 その後も極めて集中力の高い演奏を続けるキーシンだけど、彼が弾くとこのソナタでも音楽がどんどんロマンティックな表現に向かっていくのが面白かった。例えばポリーニの録音だと、このピアノソナタはロマンティックな香りを残しつつも、構造的で先鋭的な、根本的に理知的な音楽として構築されている。この曲は装飾句が少ないため、楽譜だけ見るとブラームスのピアノ譜とそっくりで、ポリーニはこの音楽からブラームスと同じような構成的な厳しさを引き出してくる。
 しかしキーシンが弾くと、主題の展開やソナタ形式の拡張といった側面を持ちつつも、本質的には甘美で情緒的なロマン派の音楽として聴こえてくる。一方でこれだけの長大な音楽を弾いても部分部分がバラバラになることは決してなくて、旋律の歌わせ方は起伏に富んでかつ自然。表情が豊かな上に前後のつながりが極めて自然で、装飾的なフレーズもその旋律の中にうまく取り込まれるため、音楽の流れを途切れさせることがない。

 それにしてもキーシンの技術のすごさは本当に圧倒的。もちろんミスタッチが皆無というわけではないけれど、技術的に非常に難しい部分でも、ある音を際立たせることが音楽として必要ならばそれを余裕を持ってやってのけてしまう。華麗な装飾句、分厚い和音、甘美な弱音、どんな譜面も多彩に響かせ、リストの音楽をキーシンの音楽に再構築していく。本当にすごい!



 休憩を挟んで最初は「葬列」。これは今まで聴いたことがなかった曲。ハンガリーの独立のために蜂起し、それに失敗して命を落とした人々へ捧げられた音楽。キーシンの演奏は前半と変わらず素晴らしい。音楽の流れは豊かで、途中の見せ場である左手の高速オクターヴ(ショパンの英雄ポロネーズの比ではない)も、神掛かったような音色と音量のコントロールが冴え渡り、音楽をこの上なく盛り上げていく。

 ただ、正直なことを言うと、この辺りから僕は退屈し始め、集中力が切れ始めた。キーシンのピアノは本当に本当にすごいんだけれど、彼がどんなに上手く弾いても、所詮リストはリストでしかない。葬列の音楽は哀悼の表現がどうしても表面的に感じたし、続くオーベルマンの谷も本質的には冗漫な音楽であって、本音を言うとつまらない。
 繰り返すけれど、キーシンのピアノは素晴らしい。でも、音楽というのはそれだけで済むほど単純なものでもない。

 最後のヴェネツィアとナポリもよく歌う演奏。この3曲の曲集は音楽が多彩で以前から比較的好きだったので、ようやく僕の集中力も持ち直す。
 最初の「ゴンドラを漕ぐ女」の素朴な旋律ときらきら輝く装飾の対照もとても印象的だったけど、本当に良かったのが終曲のタランテラ。キーシンはくるくる変わる曲想を速いテンポでどんどん弾き進めて素晴らしい高揚感を作り上げていて、最後は本当に圧巻のフィナーレという感じ。これは素晴らしかった。


 この演奏会を聴いて、キーシンというピアニストのすごさには文句なく脱帽した。本当にすごい。今までつまらない先入観で聴かずにいたことが悔やまれてならない。
 一方でリストの音楽はどうかというと、ピアノソナタ以外の曲は、やはり音楽としての魅力と深みに欠けることは否めないと再確認するに終わった。そのピアノソナタにしても、少し音が多過ぎる。同じ分野でショパンは遥かに引き締まって同時に豊かな音楽を生み出した。
 次にキーシンを聴くときは、もっと別の音楽で聴いてみたい。ストラヴィンスキーのペトルーシュカなんかを弾いてくれないかなあ。

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by voyager2art | 2011-02-14 09:38 | ピアノ


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