ロラン・バルト著「明るい部屋 - 写真についての覚え書き」

 このブログをお休みしている間、色々な本を読んだり、博物館に出かけたりということを繰り返しています。その中の一つの覚え書きとして、写真論の古典である(らしい)ロラン・バルトの「明るい部屋 ー 写真についての覚え書き」(みすず書房)のまとめをここに記録しておくことにします。これ以外にも本は読んでいるし、様々なインプットはあるのだけれど、僕にとって重要度が高いのと、内容が結構難しいので、自分自身のための要約として書きました。
 あくまでも個人の記録としての記事なので、真面目に読んで下さいというような記事ではありません。また、僕が本書を正しく理解している保証はないということについてもあらかじめおことわりしておきます。

 ちなみに、このブログの本格的な再開はたぶん8月上旬くらいになると思います。

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 バルトは写真の心理を探求するにあたって、最初は普遍的な立場からスタートせず、自分自身の個人的な体験に基づいて写真を論ずることを宣言する。
「私は若干の個人的反応から出発して、それなしでは『写真』が存在しえないような、『写真』の基本的特徴や普遍性を定式化しようとつとめるであろう。」

 次いで、バルトは自身が写真に撮られるときの心理や、写真を見るときの感情などを一通り論じつつ、自分が個々の写真に対して抱く感心・興味には以下の二つの異なる種類のものがあると気付く。


1. 自身の教養や既知の文化などを仲立ちとして、写真に写されている情景・対象に抱く関心

2. 写真から発し、写真を見る自分を刺し貫いて、心を締め付けるような衝撃


 彼はこの二つのものを、それぞれ「ストゥディウム」、「プンクトゥム」と名付けた。

 「ストゥディウム」はあくまでも一般的な関心であって、見る側の心を突き刺しはしない。それは「礼儀正しい」関心であり、従って「無責任な」関心である。
 一方の「プンクトゥム」は写真のある細部、すなわち対象の一部分であって、その細部があることによって見る側の読み取りが一変するようなものである。
 一枚の写真の中に両者が共存することもあるし、当然ながらどちらにも当てはまらず、一度見ただけですぐに忘れ去られていく写真も存在する。

 ストゥディウムとプンクトゥムを分ける一つの例として、彼は「単一な写真」というものを論じる。単一な写真とは、その写真の主題から無駄な付属物を取り除いてシンプルに主題だけを示すものである。単一な写真は、その主題が明確に一つに絞り込まれているために、既知の文脈からの興味、すなわちストゥディウムしか引き起こさない。その具体例はポルノ写真であり、「ポルノ写真とはセックスだけを見せるように構成されている」。
 これだけではピンと来ないかも知れないけれど、次の例は彼が「単一性」という言葉で何を意味しているのかを明瞭に解き明かしてくれる。
 「メイプルソープは、パンティの網目を接写することによって、セックスのクローズアップを、ポルノ的なものからエロティックなものへと変えた。その写真は、もはや単一ではない。それは私が布地の肌目(きめ)に関心を持ったからである。」
 この論点は僕にはごく自然に受け入れられるものだ。個人的な例になるけど、先日ロイヤルオペラハウスで、マスネの「サンドリヨン(シンデレラ)」のオペラを観た。このオペラの曲の中にはマクミランのバレエ「マノン」に使われているものがあり(バレエのマノンの音楽は、マスネのオペラ「マノン」以外の音楽を組み合わせたもの)、その音楽が流れてくると、僕の意識の中では舞台上のシンデレラと記憶の中のマノンが同時に流れることとなった。一つのものが複数の独立したものを意識にもたらす感覚というのは極めて刺激的だ。


 プンクトゥムとは当然ながら個人的・主観的なものであり、ある人がプンクトゥムを見出した写真が、別の人にはストゥディウムしかもたらさないこともあり得る。興味深いのは、ある写真のプンクトゥムが一体何であるか、当人にもすぐには分からないことがあるとバルトが述べている点。最初はこれがプンクトゥムだと思っていたのが、後になってみると別のものがプンクトゥムであることに気付くこともあると彼は主張する。プンクトゥムというのが極めて主観的な観念であることを考えれば、そういうこともあり得るだろうと納得できる。

 もう一つ、バルトがプンクトゥムではないとした例が僕には興味深い。彼は、不意打ち・驚きによってもたらされる衝撃はプンクトゥムではないと述べた。具体的に言えば、「珍しさ」を前面に出した写真と、技術の卓越による驚きであり、前者の例として奇形の人の写真や、火事の際にビルから飛び降りる人の写真、後者の例としては、牛乳の滴が落ちたときに王冠のような形になるのを高速シャッターで捉えた写真を、バルトは挙げている。
 前者の例などは一見すると強くプンクトゥムを感じさせそうなものだけれど、恐らくバルトの言いたかったことは、そういう珍しさを暴露することを目的として撮った写真には、ストゥディウムは感じてもそれ自体にプンクトゥムは感じないということなのだろう。音楽で言えば、例えばオーケストラの編成がかつてないほど大きいからと言って感動するわけではないとか、超絶技巧が目的化した演奏に心動かされることはないということなのだと思う。

 こうしてストゥディウムとプンクトゥムについて縦横に語った後、バルトは唐突にそれまでの論を否定する。「前言取り消し」と題した段落で、彼はそれまでの論が自身の欲望(写真の楽しみ方)の働きについては説明しているものの、そういった主観を起点とした議論が、写真そのものの本質(「写真を他のあらゆる映像から区別するもの」)を説明するものではなかったと認め、さらに論を深めていく。


 本書の後半は、彼が亡くなった母の写真を眺める話から始まる。何枚もある母の写真のどれを見ていても、彼には母の印象の断片しか浮かんでこず、まるで夢 ー その夢の中では、「それが母だと知っていても、母の顔立ちを見ることはできない」ー のように不完全な認識しかもたらさない。
 そんな折、彼は一枚の写真を発見する。それは温室で撮影されたもので、そこには子供の頃の母とその兄(それぞれ5歳と7歳)が写っていた。バルトはその写真に写った少女の頃の母の映像に「ついに母を見出した」。「この写真には、母の実体を構成するありとあらゆる属性が盛り込まれて」いて、彼はようやく母の完全な印象をその写真から認識することとなった。この体験を契機に、バルトは論を進めることとした。

 ここでバルトは、写真の本質的な特徴として、「(被写体となった)事物はかつてそこにあった」という点を挙げ、この「それは=かつて=あった」という性質を写真のノエマとして置いた。
 ちなみにこの「ノエマ」という語の意味は僕には極めて分かりにくい。「写真のノエマ」とは、写真というものについての人の認識、ということを意味しているようだけれど、哲学用語としての正確な意味が僕には分からない。また、「それは=かつて=あった」と単語の間に"="を入れるのは、西洋語としては普通でも日本語としては気持ち悪いので、ここでは素直に「それはかつてあった」と書くことにする。いずれにしても、写真とは本質的に、被写体となったものが、絵や言語とは違って実際に事実として存在したことを示すものだ、という論点は自然である。
 もちろんこの論点は、デジタル技術による画像合成が可能となった今日では成り立たなくなってはいる。バルトなら、そういう技術は写真を再び絵の世界に引き戻すだけだと言うだろう。僕自身は今のところそういうデジタル合成技術には全く興味がないので、いまはバルトの論理を素直に受け入れて先へ進む。

 バルトがこの「それはかつてあった」という写真のノエマを、温室の写真での体験から抽き出した。彼はその写真に見る母の映像に母の「真実」を発見し、その「映像の真実性から、その映像の起源にあるものの現実性を引き出した」。「私は独特な感動のうちに真実と現実を融合させたのであって、いまや私は、そこにこそ『写真』の本性ー精髄があるとしたのである。なぜなら絵に描かれた肖像は、いかに《真実》に見えようとも、どれ一つとして、その指向対象が現実に存在したという事実を私に強制しえないからである。」
 それではこの「真実」の認識をもたらすものは何か。バルトは、それは「雰囲気」であると言う。「雰囲気というもの(私は真実の表現をやむをえずこのように呼ぶ)は、自己同一性の、いわば手に負えない代理・補完物である。」つまり、写真に写ったものが真にそれそのものである(すなわち自己同一性を保っている)と感じさせる何かを、彼は「雰囲気」と呼んだ。


 これに続いて、バルトは写真の狂気にも言及する。写真を見るとき、見ているのは単なる被写体のイメージであって、実際にはその場所に存在していない。一方で、写真は被写体がかつてそこに確実に存在していたことを証明する。この二つの事実の間の断裂は、写真が「分裂した幻覚」であり、「『写真』は現実を擦り写しにした狂気の映像」であることを示す。
 そしてまた、彼は彼の心を捉えた何枚かの写真について再び思いを巡らす。それらの写真に対して抱いた感情と、この狂気とは何かがつながっていると彼は考えた。そしてその感情とは、「憐れみ」であると指摘する。「私は、そこに写っているものの非現実性を飛び越え、狂ったようにその情景、その映像の中へ入っていって、すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているものを腕に抱きしめたのだ。」
 ちなみに僕にはこの「憐れみ」という訳語が適切なのかどうか分からない。原著を読めないのでもどかしいのだけれど、「共感」とでも言う方がしっくりくるような気がする。

 最後にバルトは、写真の「狂気」とどう向き合うかについて述べる。社会では、写真の狂気をしずめ、飼い馴らすために二つの方法を採用する。一つは、写真を(古典的な意味での)「芸術」に仕立て上げること。もう一つは、写真を一般化・大衆化し、「普通」なものとしてしまうことである。現実の社会では、この後者が現に行われている。
 そうではなくて、写真を見る者に本質的に時間を遡るような感覚を与えるような場合(バルトはこれを「写真のエクスタシー」と呼ぶ)には、写真が本来持つ狂気が現れることになる。このどちらを選ぶかは自分次第であると述べて、バルトは本書を終える。



 このバルトの「明るい部屋」は、印象に深く残る写真がどういうものかということについては一定の答を提供してくれるけれど、どうすればそういう写真が撮れるかという問いについては、依然として写真を撮る側に全てが残されている。ここから先は僕が自分で考えないといけないことだけれど、少なくとも目指すべき目標の大まかな方向性を得ることができたという点で、得るものの大きかった本だった。
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by voyager2art | 2011-07-19 08:54 | 写真


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