芸術の悪魔/アバド & 内田光子 & ルツェルン祝祭管

 途轍もないものを聴いた。

Robert Schumann: Piano Concerto in A minor
(Interval)
Anton Bruckner: Symphony No.5

Lucerne Festival Orchestra
Claudio Abbado (conductor)
Mitsuko Uchida (piano)

10th October, 2011 (Mon) 19:30 -
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London


 最初のシューマンは今となってはよく覚えていない。先日のベートーヴェンと違って、シューマンの若き日の瑞々しいロマンが余す所なく表現された名演だったと思う。ピアノがオーケストラの内に外にと自在に行き来して、完璧なアンサンブルを作り上げつつ、心の奥底から迸り出るような途切れることのない豊かな歌を歌い続けていた。

 本当は、今日はこのブログを書かずにお休みにしようと思っていた。でも、この名演を聴いたら書かずにはいられないなと感じたくらいの、素敵な演奏だった。でも、次のブルックナーで、全てが、本当に全てが吹き飛んでしまった。


 シューマンのときはオーケストラもかなり小さな編成だったけれど、ブルックナーは相当な大編成。そしてそこから出てきた音楽は、もう空前絶後としか言いようがなかった。
 冒頭の、信じられないほどの弦楽器の弱音の響きがまず信じられない。オーケストラで本当に難しいのは、こういう極限のピアニシモなのであって、聴こえてきたのがまさにその究極のピアニシモと呼ぶにふさわしい、聴こえなくなる寸前の弱音と無限の広がりの極致だった。序奏の中で入るアクセントは古楽器奏法を入れていたように思う。渋い音で心に深く刺さってくる。続いて金管楽器のユニゾンが威厳に満ちた音楽を奏でて、いよいよ本章が始まる。
 ここまででも相当凄いと思ったけれど、ここからは想像を絶する巨大なものが目の前に現れるのを、なす術もなく眺め続けるような気分だった。フォルティッシモの途轍もなく巨大な音響と、全く底が見えないピアニシモのぞっとするような深遠、全てが完全なビジョンの元に完璧に構築され、一点の曖昧さもなく、明瞭に見通すことのできる音楽の組み上げ。そしてそれぞれの楽器がとんでもない勢いで燃え上がっているような、強烈に力強い音色。しかしきつい音というわけでは全くなくて、どんなフォルティッシモでも際限なく響きが大きくなるとともに、ピアニシモになると冒頭のように神秘の極みの音を奏でる。そして、その中間調はもう無限の色彩と広がりの世界を思いのままに遊ぶような感じ。
 これだけ強い音を作りながら、これだけの響きの明瞭を実現するというのは、他にはベルリンフィルくらいでしか聴いたことがない。そして、今日のルツェルン祝祭管は、そのベルリンフィルより更に一回り上手かった。オーケストラがここまで上手くなれるとは、考えたことがなかった。余りに上手すぎて、何もかもが自然にシンプルに演奏されているように聴こえる演奏ではあったけれど、実際にはこれは単に一人一人が上手いだけでなく、全員が全体を聴きあっているからこそできる演奏だったと思う。例えば、フルートがソロを吹くときに、伴奏の中のコントラバスが静かにゆっくりと動くところがあった(ちょっとだけ専門用語を使うと、ある和音の根音から全音下がって、第7音に移動した)。このとき、一瞬フルートとコントラバスがずれそうになったけれど、その一瞬の間に、フルートがベースに寄り添うように吹いて、音楽の表現を保ったまま完璧にアンサンブルを修正してしまった。舌を巻いた。

 続く第二楽章も忘れ難い。非常にゆったりしたテンポで三連符を奏でる弦楽器の上で、最初は木管楽器が旋律を奏でる。それがひとしきり続くと、今度はヴァイオリンに旋律が受け渡される。このとき、伴奏は三連符のまま、旋律は八分音符のリズムになり、3:4でリズムがぶつかることになる。ここでは何か突然目の前の世界が分裂し始めて、複数の異なる映像が重ねられたような多重性の感覚に目眩を覚えるほどだった。
 その幻惑もすぐに消えて、音楽が静かになったと思ったところに入ってくる弦楽器の分厚いコラールの美しさ! 圧倒的な存在感の美そのものが、そのまま目の前にいきなり現れたかのようだった。そして音楽はまたひたすら豊かに広がり続け、まるでブルックナーの8番か9番の3楽章でも聴いているかのような、深遠と豊穣を極めた音楽として壮麗かつ神秘的に演奏された。どの一瞬を取っても音楽に弛緩はなく、厳しくて温かく、そして崇高な美しさに満ち満ちていた。

 圧巻の2楽章が終わった後、僕はもう自分の音楽的キャパシティーを使い果たしたような気がした。これほど豊かで巨大な音楽を聴いたことがなくて、もう自分の全てがここまでの演奏で尽きてしまったかのような感覚だった。だからそのまま続けて速いテンポで第3楽章が始まったときには、僕は心の底から恐怖を感じた。この音楽は、まだまだ続く。

 飛び跳ねるようなリズムが飛び交う中を、何かをあざ笑うかのような旋律が走り回る。ヴァイオリン奏者が体を激しく動かしながら演奏しているのをみたとき、僕はぞっとするような思いで、それが悪魔が踊り狂っている場の風景のように感じずにはいられなかった。彼らは、僕などが及びもつかないようなスケールで、この音楽を心底楽しんでいる。僕はと言えば、恐怖のあまり息を殺し身を隠して、彼らに気付かれないように物陰からそれを眺めているような状態だった。このままでは取って食われると思った。今まで音楽のことを分かった気になっていた僕を内側からも外側からも固く覆っていた、根拠のないプライドと高慢が、パリパリと音を立てて崩れ去り、どこかに飛んでいった。

 僕はそのまま、取って食われた。彼らにとっては、ちっぽけな僕なんか、酒宴の肴の一かけらですらなかっただろう。僕は果てしなく踊り狂う音楽の中で翻弄され、蹂躙されるがままだった。


 終楽章が始まったとき、僕はもう燃えかすであり、抜け殻だった。もう何も残っていないと思った。ときに滔々と、ときに猛烈に、ときに軽やかに流れる音楽の中で、僕は必死で抵抗していたような気がするけど、それは多分、速い流れの中でやみくもに手足を動かしていただけだと思う。時折、ふっと力が抜けてしまって、ただ音楽に流されるままになった瞬間が幾度かあった。それは、音楽の流れに身を委ねる恍惚とは全く無縁の感覚で、真っ暗闇の中で突然地面がなくなり、いつ果てるとも知れない深い虚無の穴に落ち込んでいくような、絶望的な無力感でしかなかった。
 音楽がコーダに入ったと分かったとき、僕は一瞬希望の光が射したような気がした。もうすぐ終わる。ところが、そこからが本番だった。オーケストラは、いったいどこにそんな力が残っていたのかと思うようなスパートを掛け始め、音楽が更に激しさと巨大さを増す。僕は、僕自身の燃えかすや抜け殻すら一瞬で吹き飛ばされてしまって、もうどこにもなくなってしまった。そして演奏が終わった。


 僕の中で何かが決定的に変わった気がする。いや、そうではなくて、僕はなくなってしまったのではなかったか。もう僕にはよく分からない。舞台袖へ下がるアバドを呆然と眺めていたとき、彼がニヤリと笑うのが見えた。その瞬間、彼の中には悪魔がいるとぞっとしながら確信した。どんなに健康を損なっても、彼の中にその悪魔がいる限り、彼は演奏を続けるだろう。彼は芸術の悪魔に魂を売ってしまったのではないか。

 今日の舞台上で繰り広げられたような芸術的創造に携わることができるのであれば、できることなら僕もこの悪魔に魂を売ってしまいたい。僕はそう思った。


 実は明日も彼らの演奏会を聴きに行く。そのとき僕は、僕としてあるのだろうか。僕にはもう全く何も分からなくなってしまった。


(翌日の公演の写真追加します。)
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by voyager2art | 2011-10-11 08:13 | オーケストラ


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