カテゴリ:バッハ平均律1巻( 4 )

バッハ/平均律クラヴィーア曲集第1巻 - 第3曲(嬰ハ長調)

 前奏曲の前半は右手と左手の旋律が交互に入れ替わり、後半は右手と左手のリズムが半拍ずれて交互に音を出す。ショパンの練習曲Op.10-4はこの前奏曲の前半部から発想を得たのだろうか。フーガはやや長めの3声のもの。楽譜はこちら
 ちなみに嬰ハ長調は#が7つ、即ちハ長調の音階の全ての音が半音上がる調性。同音異名の変ニ長調(♭が5つ)が使われることが多く、嬰ハ長調はほとんど使われることがない。慣れないからか、何となく譜面も読みにくい。

● エドウィン・フィッシャー
 明るく演奏されることの多いこの前奏曲を、フィッシャーは実に静かに、そして控え目に弾く。そしてそれがこの上なく美しい。前半部に現れる四分音符+八分音符で構成された旋律を弾くとき、彼は四分音符を充分に伸ばして、あたかも四分音符の音列が旋律であり、八分音符は装飾か何かであるかのように弾く。この四分音符の旋律の抑制された歌に湛えらた、えも言われぬ詩情の素晴らしさと、八分音符の絶妙な音色の美しさは他に例えようがない。この八分音符の音色は、右手に現れるときと左手に現れるときで全く異なるけれど、どちらもため息が出るほどきれい。また、そこに添えられる16分音符の細かい音型も、澄んだ湖の表面に現れる細かなさざ波のように、極めて繊細な美しさで弾かれる。
 後半部の息の長いデュナーミク(音量のコントロール)も気品と教養に裏打ちされており、一分のわざとらしさもない。前奏曲最後の、終結の和音を三つ弾くところで、「ああ終わった!」という感じで急に陽気になるところに、フィッシャーの無邪気な朗らかさが伺えて微笑ましい。
 フーガの主題も控え目な音量で始まるものの、ここでフィッシャーは16分音符をわずかに詰めて速めに弾き、八分音符はやや溜めて遅めに弾く。この微妙なリズムの息遣いが表現に生命の彩りを添え、穏やかながらも豊かな歌に満ちた演奏を実現する。この演奏でも彼は盛んに弾き間違いをやっている。ときには、右手が音を抜かしたのを左手が気付かずに入ってきて、無理矢理つじつまを合わせているような場所もある。でも、それはこの演奏の愛嬌を増しこそすれ、瑕疵になることはない。人間の営みの面白さの典型の一つだろう。

● ダニエル・バレンボイム
 師のフィッシャーほぼ同じスタイルの演奏。前奏曲ではフィッシャーが四分音符+八分音符の旋律を表に出すのに対し、バレンボイムは16分音符の細かい旋律の方を表に出す。全体として音量は静かに、しかし表現は豊かに弾く点はフィッシャーと共通だけれど、表現の頂点の構成の仕方はより現代的に洗練されている。また、弱音でも輝きを失わない音色の美しさも素晴らしい。
 フーガの主題のリズムの動かし方もフィッシャーと同じ。この歌い回しの表現の徹底はフィッシャーの上を行っており、曲中でフーガの主題が現れるたびに、このリズムの息遣いが聴こえてくる。

● フリードリヒ・グルダ
 極めて明瞭な音と精緻なリズムの演奏。音量の変化は付けられていないため、フィッシャーやバレンボイムのような「歌」の魅力ではなく、運動性の面白さが際立つ。
 フーガもノン・レガート(音と音をつなげない)、マルカート(一つひとつの音を明確に弾く)の音楽。中庸のテンポを正確に保ち、全ての声部を過不足なく完全に同等に弾き続ける。控え目でありながらも効果的な音量・音色の変化をつけることで、演奏に格調の高い表情が与えられている。

● グレン・グールド
 前奏曲は驚くような高速の演奏。それでも決して音とリズムは崩れない。グルダと同様の、精密な運動性の面白さがここにもある。最後の一節でふっと崩した表情を見せ、終結の和音を軽く弾くところの、遊び心のセンスの良さも印象的。
 フーガもグルダと近いスタイルだけれど、グルダがどちらかというと力強さを感じさせるのに対し、グールドは軽々と空を駆けるようなところがある。グールドの非常に軽い音でのノン・レガートの効果である。

● マウリツィオ・ポリーニ
 前奏曲は正確なリズムを維持しつつも、「歌」の表現の方に意欲的に踏み込んでいる。ただし響きの豊かさとは裏腹に、柔和な歌ではなくポリーニらしい硬派な歌い口。録音の残響が長い上に、右手の旋律と左手の旋律を完全に等価に扱うため、音型が入れ替わるたびに音響の変化が明瞭に現れて飽きさせない。
 フーガも前奏曲と同様に歌を聴かせるが、音量の変化による表情の幅の広さが感じられて少しほっとする。

● スヴィャトスラフ・リヒテル
 前奏曲はポリーニと極めて良く似た演奏。途中で急にくぐもった音色に切り替えるところがあり、その変化が非常に美しい。一度始まると音楽の流れが一切途切れることなく最後まで続く。
 フーガも速めのテンポで一気に弾き通すけれど、主題が現れるたびに強い音色で弾くので単調にはならず、曲の構造がわかりやすい。テンポが速く音色も明るいので一見輝かしい演奏だけれど、歌い口自体は非常に真面目。
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by voyager2art | 2010-06-19 18:29 | バッハ平均律1巻

バッハ/平均律クラヴィーア曲集第1巻 - 第2曲(ハ短調)

 細かい16分音符が連続する前奏曲と、3声のフーガ。前奏曲とフーガの主題には共通する音型が含まれる。楽譜はこちら

● エドウィン・フィッシャー
 前奏曲は第1曲同様に速めのテンポ。音量はかなり抑え気味に始まり、途中でプレストになるまで、レッジェーロ(軽い音)で弾き通す。抑えた音量の中でのデュナーミク(音量の制御)のつけ方が上手い。プレストの最初のバスのG音(ソの音)はオクターヴを重ねて重厚に弾き、アダージョの走句はややルバート(リズムの揺れ)を効かせるあたりに時代が感じられるけれど、全体としてはさっぱりした印象を残す。
 フーガは中庸のテンポで始まる。主題はレガートで奏されるが、途中から内声およびバス声部の16分音符の音階的なフレーズはノンレガートで弾くため、全体としてはべったりせず、フィッシャーらしい爽やかさが保たれる。テンポが安定せず、少しずつ速くなっていくのは演奏者の気持ちが乗ってきたからか。

● ダニエル・バレンボイム
 やや速めのテンポ設定。レッジェーロなのはフィッシャーと同じ。音の粒が少し乱れ気味なのが残念。バレンボイムのことだからプレストやアダージョの部分は派手に演奏するのかと思いきや、かなり抑制された表現。その雰囲気のままで、フーガの主題がレガートで奏される。全体に音量を抑えたままで、しかし彼らしく音色は多彩にコントロールしながら、神秘的な雰囲気の演奏。

● フリードリヒ・グルダ
 非常に遅いテンポ設定。この前奏曲は、各小節の1拍目と3拍目の最初の16分音符が旋律を構成していると見ることもできる。前述のフィッシャーやバレンボイムは全ての16分音符を均等かつ等価に扱うけれど、グルダはこの「旋律」を強調して弾く。最初の4小節間は、この「旋律」の音が4分音符の長さ(16分音符4つ分)で弾かれる。5小節目からはこれが短縮されて、8分音符(16分音符2つ分)になり、11小節目からは楽譜通り16分音符になる。そのまましばらく続いて、22小節目からはまた8分音符になる。
 グルダのテンポ設定だと、どういう弾き方をするにせよ、同じ弾き方でずっと引き続けては退屈するし、このような変化のつけ方は曲の構造に深さを与えることになる。恣意的ではあるが、成功している。
 フーガも遅いテンポで、ノンレガートで弾く。主題の特定の音符に装飾音がつくのは第1曲と同じ。この装飾音の効果は素晴らしく、音楽の立体感と生命感が一気に増す。

● グレン・グールド
 遅いテンポ設定。1拍目と3拍目の最初の音の長さを色々変えるのはグルダと同じだけれど、変え方は全く異なる。グールドはこの「旋律」の音をスタッカートで弾いたり伸ばしてみたり、右手につけてみたり左手につけてみたりと、グルダよりもはるかに自由に弾く。この発想の柔軟性は驚く他ない。ただし音型の変化に比べると、テンポの変化は極めて少ない。
 フーガは一転して速めのテンポ。レガートとノンレガートの差がくっきりと際立ち、グールドらしい切れ味のいいアーティキュレーションが心地よい。どの声部もいきいきと歌い、格段の音色・音量の変化なしで各声部の弾き分けをやってのけるのは、やはり何度聴いてもすごいとしか言いようがない。

● マウリツィオ・ポリーニ
 前奏曲は中庸のテンポ。フィッシャーやバレンボイムのように、全ての16分音符を均等に弾くスタイル。ペダルは踏んでいないと思うけれど、残響の極めて多い録音なので響きの豊かさが印象的で、また全体としてもレガート(音と音を滑らかにつなげる)で弾くので、グールドやグルダとは全く違う曲を弾いているように聴こえる。
 フーガも中庸のテンポで、レガート中心の弾き方。余分な感傷は一切省き、音楽の核心部分だけを追求するという彼のスタイルはここにも極めて明瞭に出ている。

● スヴィャトスラフ・リヒテル
 速めのテンポで、全ての16分音符を均等に弾くスタイル。プレスト→アダージョ→アレグロと変化するテンポに忠実なのはいかにも真面目なリヒテルらしい。
 フーガは速めのテンポでノンレガート。小手先の変化や余分な感傷がないのはポリーニと同じだけれど、ポリーニが一切の無駄を省いて客観的な真理に到達しようとするのとは対照的に、リヒテルは全ての無駄を省いて自分の良心を直截に表現しようとしている。
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by voyager2art | 2010-06-14 07:26 | バッハ平均律1巻

バッハ/平均律クラヴィーア曲集第1巻 - 第1曲(ハ長調)

 バッハの平均律の中では例外的に良く知られた前奏曲と、それに続く4声のフーガ。前奏曲はひたすら両手でアルベジオ(分散和音)を弾き続ける。ちなみに前奏曲はハ長調の和音をドの音から順番に5つ積み重ねた形から始まり、フーガの方はハ長調の音階をドの音から順番に5つ並べた形から始まる。フーガは小規模ながらかなり複雑。

● エドウィン・フィッシャー
 前奏曲、フーガともにかなり速めの演奏。
 前奏曲では右手の16分音符にスタッカートをつけている。左手の2音はほぼ音価通りに伸ばしているので、そのアーティキュレーション(音のつなげ方)の対比によって音楽に立体感が出る。後半は息の長いクレッシェンドとディミヌエンドを使って積極的に盛り上がりを作るが、全体としてイン・テンポを守り通しているので、明快で爽やかな演奏になっている。
 フーガも前奏曲と同様に速めのテンポ。最初に提示される主題の半ばの八分音符のひとつに、かなり強めのアクセントを付けているけれど、このアクセントは曲中の各声部で主題が現れるたびに繰り返される。もともとフィッシャーは多声部の弾き分けが上手く、各声部に音量の差をつけて立体感を出す(新しく提示される主題を浮かび上がらせることが多い)のが得意だけれど、このアクセントによってさらにポリフォニーにメリハリが出る。
 また彼は、このフーガをmf(メゾフォルテ)くらいで弾きはじめ、10小節目の途中でぐっと音量をp(ピアノ)に落とす。ここでは静かで上品な音色を、多彩にコントロールして多声部を弾き分ける。このフーガの演奏で最も印象的な部分だろう。
 ちなみに声部間に音量や音色の差をつけるというのは、演奏する側にとっては音楽の構造をしっかりと把握していないといけない上に、それを物理的な音量・音質の違いとして表現しないといけないので、厳密にやろうとすると非常に難しい。フィッシャーは音符の弾き間違いが多いことでも有名なピアニストで、このフーガの録音でもすでにいくつかの音が抜けているのが分かるけれど、そういうこととは異なる次元で極めて高い表現技術を持ったピアニストだったことが、この演奏ひとつでよく分かる。

● ダニエル・バレンボイム
 前項のフィッシャーの弟子でもあるバレンボイム。前奏曲はフィッシャーと全く同じテンポで弾いているのは師匠への敬意の表れだろうか。ただし右手の16分音符はスタッカートではなくマルカート程度の穏やかなアーティキュレーション(音のつなげ方)になっていて、全体としてとても優しい印象を受ける。デュナーミクによる表情付けをしている点もフィッシャーと同様だけれど、フィッシャーが盛り上がりの頂点を29小節目に置き、その前後に息の長いクレッシェンドとディミヌエンドを行っているのに対し、バレンボイムは23、28小節目に山を置き、その次の小節でふっと力を抜いたように音量を落とす。これによりフィッシャーより繊細で洗練された表現になり、聴いていて極めて上品な印象を受ける。
 フーガは一転してフィッシャーよりずっと遅いテンポ設定。フィッシャーが音量の変化で各声部を弾き分けるのに対して、バレンボイムは持ち前の多彩な音色を駆使して、内声部を非常に美しく歌い上げる。このため、フィッシャーの演奏よりもはるかに穏やかに弾きつつ、明確に各声部を弾き分けることに成功している。音色の美しさと音楽の表現の美しさを同時に実現した、素晴らしい演奏。

● フリードリヒ・グルダ
 前奏曲は中庸のテンポ。テンポとリズムの正確さはグルダの特徴の一つで、ここでも持ち前の硬質のタッチとあわせてアルペジオが極めて正確に弾かれる。ごく控えめの、しかし明瞭な、デュナーミクによる高雅な表情付けがなされている。一見これといった特徴がないようでいて、聴き込むほど良さが心に沁み通ってくるような演奏。
 フーガも遅めの演奏。主題の付点のリズムが、グルダの演奏では複付点音符になっている。グルダによる改変か使用する楽譜の版の問題かはよくわからない。どの声部を弾くのにも音色は変化させず、音量に少し差をつけて声部ごとの特徴付けをしている。ただし音色が単調というのではなくて、どの音もしっかりと響かせているので、クリアで硬質な音色にも関わらず厚みのある響きになっている。
 面白いのは、上記の複付点音符などにときどき装飾音(モルデント)が入ること。このモルデントは、最初の主題提示には付けられておらず、最初に出てくるのは7小節目。次の8小節目までさかんに装飾を入れたかと思うと、また装飾音が急になくなる。その後、14小節目でまた装飾が入りはじめ、しばらくするとまた消える。恣意的と言えば恣意的ではあるが、これにより曲にメリハリがつくのは否定できない。また、主題が短い間隔で各声部に頻出する14小節目以降は、切れ味とリズムの鋭いモルデントが入ることで驚くような立体感が達成されている。
 この一曲目から、名盤の名に恥じない素晴らしい演奏。

● グレン・グールド
 バッハの鍵盤音楽の演奏を語るときにグールドの名を避けて通ることはできない。一方で、彼の平均律の演奏については「奇矯に過ぎる」という評も消えることがない。恐らく、その印象を最も強く与えるのがこの最初の前奏曲の演奏ではなかろうか。
 デュナーミクによる表情付けなど、他のピアニストと同じようなこともしてはいるものの、誰が聴いても最初に気付くのは、右手の16分音符に付された奇妙なアーティキュレーションだろう。そのうえテンポがかなり遅いので、普通に聴くと大抵の人は困惑し、本音では退屈するに違いない。少なくとも、この曲の精妙な和音の変化はこの演奏からは聴こえてこない(グールドはモーツァルトのピアノソナタでも同じようなことをしていて、それを批判する人もいる)。
 恐らく、この前奏曲の演奏に込めたグールドの意図はこの前奏曲だけを聴いていても理解できず、次のフーガの演奏と関連づけることで初めて見えてくる。

 フーガの主題において、グールドは16分音符に明確なアーティキュレーション(最初の2音をスラーでつなぎ、その後はスタッカート)を付ける。
 音楽の進行につれて各声部からこの主題が現れるたびに、グールドは正確にこのアーティキュレーションを再現する。また、彼の演奏を特徴づけるノンレガート奏法(チェンバロの響きを模したものらしい)も随所に使うことで、他の誰とも違って、アーティキュレーションの違いによる各声部の弾き分けに成功している。音楽は軽やかで自由、天衣無縫という言葉がぴったりくるように思う。

 このアーティキュレーションによる声部の弾き分けはこのフーガだけでなく、彼のバッハ演奏を特徴づけるものだ。そしてこの曲集の演奏を始めるにあたり、その演奏法を先取りしたのが、はじめの前奏曲の「奇矯な」演奏ではないかと僕は考える。グールドという人は、瞬間瞬間の声部の構成に強くこだわる一方で、音楽全体(一つの楽章だけでなく、楽章間の相関なども含めて)の構造についても余人の追随を許さないほどの洞察力を持っていたピアニストなので、この前奏曲の演奏を単独で評価すると重要なものを見逃すことになるに違いない。これは間違いなく、平均律という曲集全体への前奏になっていると僕は信じる。

● マウリツィオ・ポリーニ
 この前奏曲の演奏ほど、ポリーニの音楽の特徴をよく表した演奏もないのではないか。やや速めのテンポで弾きはじめ、徹頭徹尾レガートで、テンポ・音量・音色にも一切の変化をつけない。それでいて音楽が無機的になることはなく、彼の音色の豊かさも手伝って、むしろ滔々とした豊かで肉太な音楽が河のように流れ続ける。最短距離で音楽の本質に到達する、ポリーニの演奏の最高の例の一つがここにある。
 フーガの演奏は、一度聴いた印象では他のピアニスト達に比べて声部の弾き分けが不十分に感じられる。一つには、残響の多い録音のせいだろう。また、彼の演奏の特徴として上声部とバス声部をやや強めに弾き、内声部はやや弱めに弾くというのも原因の一つだ。ただ、楽譜を見ながらよく聴くと内声部もしっかりと歌っているのもわかるので、かれが意図的にこういうバランスを選んだのは間違いないと思う。
 実演のポリーニは、複数の声部を、たとえ不協和音でぶつかっていようとも、平気で同じ音量で並行して弾いてしまうことがよくある。現代音楽も得意とする彼ならではなのだろうが、このバッハの演奏でも彼は同じことをしているのではないかと想像する。この曲集を(残響の多い録音ではなく)実演で聴くのが楽しみだ。

● スヴィャトスラフ・リヒテル
 長く名盤の名をほしいままにしているリヒテルの平均律の中で、この前奏曲はリヒテルのすごさを理解するいい題材になる。リヒテルは、左手のハ音で始まるバス声部(第1声部と呼ぶ)、その次のホ音で始まる内声部(第2声部と呼ぶ)および右手の16分音符の塊(第3声部と呼ぶ)の中で、まず第1声部を強めに弾くとともに、通常はアルペジオの第1音としての役割しか与えられないこの声部に、旋律としての横のつながりを明確に与えている。これにより、バス声部が非常に息の長い歌を途切れずに歌い続け、音楽に一本の長い筋が通る。
 更にすごいのは、曲を通して第2声部を弱く、かつくぐもった音色で弾くことで、この曲の演奏で対位法的な表現を実現した点。強めの第1声部と弱くて暗い第2声部の上に第3声部が軽やかに乗り、他の演奏からは聴くことのできない立体感がうまれる。
 また表情付けは総じて控えめで、デュナーミクの変化もかなり抑えられているけれど、リヒテルは24小節目および32小節目に入るところでほんの一瞬だけ、間を入れる。これが、演奏にいいようのない魅力を添えていて、たまらなく美しい。
 フーガの演奏でも、彼は控えめな表現に終始する。しかしよく聴けば、彼が各声部に明確に音量と音色の差をつけているのがはっきりと聴き取れる。これにより、彼は大げさな演奏をすることなく、楽々とポリフォニーの実現に成功している。控えめでありながら極めて充実した演奏となっていて、バッハの音楽の高貴さが余すところなく表されている名演であると思う。
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by voyager2art | 2010-05-25 07:46 | バッハ平均律1巻

J. S. バッハ/平均律クラヴィーア曲集(第1巻)の聴き比べ

 鬼も笑う来年の話ではあるけれど、ポリーニが2011年の前半にロンドンで「ポリーニ・プロジェクト」と銘打って5回の演奏会を開く。ベートーヴェンやシューベルトの後期のソナタからドビュッシーの練習曲、ブーレーズの第2ソナタなどが予定されていて非常に楽しみなシリーズなのだけれど、その中にバッハの平均律クラヴィーア曲集第1巻を全曲(全24曲、同じ規模の第2巻も存在する)弾く演奏会もある。

 バッハの平均律といえば、「ピアノ音楽の旧約聖書」と言われる作品集(ちなみに「新約聖書」はベートーヴェンのピアノソナタ全曲)であり、古今さまざまな名ピアニストが名演を残している。僕も最近になって、かなり集中してこの曲集を聴くようになり、恥ずかしながら今になって、その音楽の豊かさと深さにようやく気付きはじめた。

 クラシック音楽のレパートリーとしては、この曲集はそれほど人気のあるものではない。みんな存在は知っているというくらいで、せいぜい曲集の中のいくつかの曲は聴いたことがあっても、全曲を何度もしっかりと聴き通すという人は稀だろう。演奏の媒体としてたまたまピアノ(またはチェンバロ等)が選ばれるというだけで、ピアノという楽器の特徴を発揮させるような種類の音楽ではない(そもそもバッハの時代にピアノはなかった)ということもその一因かもしれない。
 外面的効果ではなく構築力と音楽的内容が問われる種類の音楽なので、演奏する方にも聴く方にも確かな知性と感性が要求される。

 ポリーニの実演でこの曲集を聴くことができるのだから、演奏会前にある程度深くまでこの曲集を理解できるようになっておきたい。とくにバッハは、音楽の構造を事前にどれだけ把握しておくかで、演奏を聴いたときの理解度が全く異なる作曲家である。演奏中に楽譜を見ることのできない実演ではなおさらだ。そう思って、複数の録音の聴き比べを自分でやってみることにした。

 現在僕の手元には、6人のピアニストによる平均律第1巻の録音がある。そのピアニストとは以下の通り。

● グレン・グールド
● スヴィャトスラフ・リヒテル
● エドヴィン・フィッシャー
● フリードリヒ・グルダ
● ダニエル・バレンボイム
● マウリツィオ・ポリーニ

 6種類の演奏の聴き比べはかなり大変で、時間もかかる。とはいえ、どの演奏もいずれ劣らぬ名演ぞろいなので、評価対象から外すわけにも行かない。腹を括って、一曲ずつ、全員の演奏を聴いていくことにする。

 バッハの音楽の理解に楽譜は欠かせない。幸いにして今ではインターネット上で無料でこの曲集の楽譜を手に入れることができる。

平均律クラヴィーア曲集 第1巻
第1番 - 第12番
第13番 - 第24番

 ポリーニがバッハを弾くのは来年の1月。それまでに全24曲の聴き比べを終わらせたい、というくらいのペースで進めていく。記事は曲順に載せて行くけれど、掲載は不定期とする。時間が掛かってもいいので、着実にしっかりと進めようと思っている。
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by voyager2art | 2010-05-21 05:39 | バッハ平均律1巻


ロンドンを起点に、音楽、写真、旅などについて書いていきます。メールは voyager2artアットマークgmail.comまでお気軽にどうぞ。


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