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超期待!の若手/ブニアティシヴィリ&カラビッツ/BBC交響楽団

 しばらくご無沙汰でした。久し振りのBBCシンフォニー、プログラムが素晴らしくて、シベリウスの4番にプロコフィエフのピアノ協奏曲1番、そしてメインがペトルーシュカ。どれも大好きな曲ばかりで、しかも最初の二つは演奏頻度が極めて低い。シベリウスもプロコフィエフも、実演で聴くのは初めてだった。しかもピアノのソロを弾くのが話題の美人ピアニストとくれば聴きに行かないわけにはいかない!

Sibelius: Symphony No.4
(Interval)
Prokofiev: Piano Concerto No.1
Stravinsky: Petrushka (ver. 1947)

Khatia Buniatishvili (Piano)
Kirill Karabits (Conductor)
BBC Symphony Orchestra

24th February, 2012 (Fri), 19:30 -
Barbican Centre, London


 指揮者のカラビッツは演奏どころか名前も聞いたことがなかった。舞台に現れた彼は、ロンドンのハイストリートにある若者向けの靴屋の店員、といった風貌で、今ふうの小洒落た雰囲気。でも演奏は正真正銘の正統派で、すばらしいものだった。
 シベリウスのシンフォニーは録音では何度も何度も聴いた、僕にとっては指折りのお気に入りの音楽。しかしこの曲、もともと派手ではないシベリウスの音楽の中でも際立って地味なもので、今までコンサートに掛けられるのを一度も聞いたことがない。シベリウスの6番も極めて通好みな曲だけれど、それでも今までに実演で二度聴いた。4番はタピオラと並んで豊かで深い抒情を湛えているにもかかわらず、不遇と言っていいほど演奏機会が少ないと僕は思う。
 その4番、冒頭の低弦とファゴットの太く力強い序奏と、深く長い呼吸で歌うチェロの印象的なソロで始まった。何といっても実演で聴くのが初めてなので、この冒頭がこんなに底光りするほどの深い艶を持っていることに驚いた。そして響きが美しいだけではなく、美しい音と響きが描き出す情景の豊かなこと。これまで北欧の冬の果てしない薄闇の音楽だと思っていたこの曲が、北国の暗さを基調としつつも多彩な四季を描いた音楽として、鮮やかに多層的に広がっていく。曇りがちで寒くはあっても、その向こうに微かに光の気配が感じられる初春。爽涼な大気に清澄な光が瑞々しく踊り、生命が一斉に芽吹いて多様な色彩を満ち渡らせる夏。秋は収穫の豊穣の象徴ではなく、むしろ冬の暗黒の到来を告げる不吉な使者として描かれる。冬の雪は、そこに住む人間の期待や都合などお構いなしに、自分たち自身の秩序、自然を律する物理と気象の法則に従って無心に勝手気ままに大気中を舞い、大地を覆い尽くす。長い年月にわたって厳しい自然環境と折り合いをつけて生きてきた人々の知恵と達観が、人の世界の外の広大な情景を、感傷を交えずに、しかし愛情を込めて描く。そこに広がる豊かな世界を表現するオーケストラも素晴らしく、ともすれば冗漫になりがちなこの曲を、驚異的に粘り強く息の長い歌で途切れることなく紡ぎ続ける。指揮者への信頼と音楽への共感が深く感じられて、本当に素晴らしい演奏だった。


 休憩を挟んで今度はプロコフィエフ。ステージに現れたブニアティシヴィリは、写真で見るよりもずっと濃厚に妖艶な雰囲気の美人。ピアニストというよりもジャズのヴォーカルといった、ただならぬ色っぽさを漂わせていた。ただし演奏のほうは少しムラがあって、上出来とは言えなかったように思う。この曲は若い日のプロコフィエフの瑞々しい音楽に満ちたチャーミングな作品だけれど、ピアノの演奏にはその曲ほどの溌剌とした感興が乗っていなかったのではないか。これが彼女のイマジネーションの問題なのか、今日のコンディションがたまたま悪かったのか、彼女の演奏を初めて聴く僕にはよく分からない。音楽が歌うほどには演奏が歌い切っておらず、しかも頻繁なテンポ操作が、音楽の表情を多彩にするというよりも演奏の恣意性を強調する結果に終わってしまっていて、どうもちぐはぐな印象が拭えない。技術的にも乱れが多く、手の小さい(1オクターブがやっとという感じだった)彼女にはプロコフィエフはうってつけの作曲家とは言えないかもしれない。
 しかし、これらの欠点にもかかわらず、彼女の音楽には何とも言えない艶があった。要所での仕掛けや、ここ一番のクライマックスは満足のいく演奏ではなかったものの、何ということのない経過句で時折はっとするような輝きを見せる。ピアノの響かせ方が高音と低音を艶やかに際立たせていて、彼女自身のエキゾチックな美貌によく似た、深く魅力的な煌めきがあった。彼女の音楽には聴き手を惹き付ける何かがある。
 この演奏でもう一つ特筆すべきは、指揮者のカラビッツの細心のサポート。常にピアノを注意深く聴き続け、ほとんど即興的に聴こえるブニアティシヴィリのテンポの変化に即座に的確に反応する。彼の敏感で正確な棒があったからこそオーケストラも(崩れそうになりながらも)何とかついていけたのは明白で、ここでの彼の指揮は本当に立派なものだった。

 アンコールは同じプロコフィエフのピアノソナタ7番(戦争ソナタの一曲)の終楽章。彼女は猛烈な勢いでこれを弾いた。ポリーニの録音の、重戦車が驀進するような圧力ともまた違うけれど、何かに憑かれたかのような圧巻のピアノで、これは掛け値なしに素晴らしかった。変拍子をものともせずに凄まじいテンポで突き進み、しかもその合間で、絶え間なく多彩に音量と音響を変化させていく。その一つ一つが完璧に効果的に決まって、本当にさっきの協奏曲と同じ人が弾いているのかと思うほど、曲と演奏者自身が一体化していた。最後のフォルティシモの、ただ大きいだけでなくて空間の広さも感じさせる響きは殊に印象的で、プロコフィエフのピアノ書法と、ブニアティシヴィリの魅惑に満ちた音楽を一度に堪能できる名演だった。
 僕は、このアンコールの演奏に心から感嘆すると同時に、ピアニストとしての彼女に一抹の危うさのようなものも感じた。曲と上手く噛み合ったときの演奏と、噛み合なかったときの演奏のギャップに、彼女と音楽の関係がどこか自然でないような印象を、ほんの微かにではあるけれど感じたからだ。もちろん彼女の演奏を聴くのは初めてだし、気のせいかもしれない。


 最後はメインのペトルーシュカ。最初はとにかくオーケストラがよく鳴って、BBCシンフォニーはもちろんとても上手いオーケストラではあるのだけれど、それでもこんなに鳴る楽団だったかと驚くほど。しかも単に音が大きいだけではなく、ストラヴィンスキーらしく色彩の無限の鮮やかさがあり、さらに表情にも芯の通った太い豊かさがある。最初こそ作品を覆うお祭り騒ぎ的な陽気さがあったけれど、音楽が進むにつれて、その下からざらざらと不快で苦い、皮肉な残酷が姿を現し始める。この曲は今まで何度も実演で聴いたことがあるけれど、表現の幅の広さと表情付けの陰翳の際立ったコントラストの点で、今日の演奏は間違いなく一番だった。相調和することのない音楽要素を平気でぶつけ続け、そこからいたたまれないほどの居心地の悪さを作り出す作曲技法の革新。急に躁に転換したと思うと、その後に失望の谷底へ突き落とす転換の鮮やかさ。そういった要素を余すところなく音にした今日の演奏は見事の一言。そして情景と登場人物の心理が克明に描かれれば描かれるほど、この作品が音楽だけで上演されているのがもどかしくなってくる。僕はこの作品をバレエの舞台でまだ観たことがない。でも、今日の演奏を聴けばこれがバレエ音楽として極上と言ってもいいほどの水準を持っていることがよく分かる。
 オーケストラからこれだけの演奏を引き出すカラビッツの指揮も素晴らしいの一言に尽きる。棒の振り方自体は派手でもなんでもなく、クライマックスで大きく振りかぶる以外は丁寧に拍子を取っているだけのように見えるのに、これだけの音をオーケストラに出させるというのはただ者ではない。彼の頭の中に明瞭なイメージがあり、それをリハーサルで伝える能力に長けているということなのだろうか。まだ若い指揮者だけれど、演奏会全体を通してこれだけ高水準の演奏をするのだから、まぐれ当たりということは考えられない。しかも演奏スタイルは堂々たる正統派。舌を巻いた。


 これだけ聴けばお腹いっぱい。これほど充実した演奏会はなかなかあるものではない。カラビッツという指揮者を知ることができたのも大きな収穫。彼の情報は今後注意して追いかけることにしよう。
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by voyager2art | 2012-02-26 02:18 | オーケストラ

極上の劇場/マイケル・ティルソン・トーマス&ロンドン交響楽団

 最近ずっとバレエばかり観ている、と言うのはものすごく贅沢なことではあるのだけれど、そうなると今度はどうしても上手いオーケストラが聴きたくなってくるときがある。ロイヤルオペラハウスのオーケストラもポテンシャルは高いと思うけど、オペラはともかく、バレエのときはどうしても不満が溜まることが多い。特に悪名高いのがトランペットで(上手い人ももちろんいるけど)、僕はそれに加えて弦楽器の音程が不揃いなのが気持ち悪いことが多い。あと、チェロとベースがただ音を並べているだけのことが多くて、音楽が痩せる。伴奏が歌えば歌うほど、音楽も多層的で奥深い豊かさを獲得するのだと、元チューバ吹きの僕は声を大にして言いたい。

 ということで、ロンドン交響楽団。やっぱり上手かった。脱帽。指揮のマイケル・ティルソン・トーマスの演奏は初めて聴いたけど、名声に違わない実力派だった。

Debussy (trans. Colin Matthews): Selected Préludes
Debussy: Fantasy for Piano and Orchestra
(interval)
Berlioz: Symphonie fantastique

Michael Tilson Thomas (conductor)
Nelson Freire (Piano)

London Symphony Orchestra

24th Jan, 2012 (Tue), 19:30 -
Banbican centre, London


 最初のドビュッシーの前奏曲集、僕はこの曲集が好きなので楽しみにしていたけど、最初の音を聴いた瞬間に寝てしまった。大好きな沈める寺もあってちゃんと聴きたかったのに、起きたら終わっていた。仕方ない。こういうこともあります。

 気を取り直しての二曲目は、ネルソン・フレイレを独奏に迎えてのドビュッシー。ピアノと管弦楽のための幻想曲。フレイレは録音、実演を通して演奏を聴くのが初めてだったけれど、彼の名前は以前から知っていた。特に数年前に彼が出したブラームスの協奏曲の録音が、ライブ盤にもかかわらず技術的に極めて水準が高いと評判になったのを聞いていたので、今日の演奏会を楽しみにしていた。

 その演奏、評判に違わずピアノが実に鮮やか。どんなに音符の多い譜面でも、一切の淀みなしに見事に流れていく。色彩的な音楽に合わせてピアノの響きも自在に変化する。音量のバランスの問題でピアノの音がオーケストラにかき消されてしまうところが何箇所かあったのは気になったけど、ピアノの演奏技術的には完璧な出来だった。
 ただ、残念ながら見事なのはここまでで、どういう訳か彼の演奏からは感興や音楽の愉悦というものが伝わってこない。音楽の表面上の彫琢は信じられないくらいの完成度なのに、それを通して表現されるべき本質的な表現意欲が、僕には聴き取れなかった。
 僕は、フレイレというピアニストは極めて有能な職人というべき演奏家なのではないかという印象を持った。もちろん一回の演奏だけでその演奏家を判断するのは不可能だし、特にこのドビュッシーの曲は、音楽の極めて限られた一面だけを要求する作品なので、余計に判断は難しい。でも、僕は彼が音楽の深刻な側面を表現し切るさまをなかなか想像することができない。機会があればもう少し別の種類の音楽で、そしてできればソロで、彼の演奏を聴いてみたいと思う。


 休憩の後はベルリオーズ。僕はこの幻想交響曲という作品をあまり聴かない。嫌いという訳ではないけれど、好んで聴く曲のリストからは抜けている。そんなわけで、おかしな話だけれど、僕はこれを久しぶりに(しかも実演で)聴くのを楽しみにしていた。
 第一楽章の冒頭、マイケル・ティルソン・トーマスは木管楽器の旋律を仔細極まる指揮で実に丁寧に導き出す。ちょっとやり過ぎでわざとらしいな、とも思ったけれど、その後はもうロンドン交響楽団の横綱相撲。久しぶりに聴くと本当に上手い。各楽器の音の充実、表現の豊かさ、そして楽器間のアンサンブルの精密さ。マイケル・ティルソン・トーマスが何か指示を出すと、オーケストラが全体で一つの楽器のようにまとまって即座に反応する。
 そのマイケル・ティルソン・トーマスの指揮、冒頭こそわざとらしいと思ったけれど、その後は実にバランスの取れた演奏だった。ある枠の外には絶対にはみ出さないよう完全にコントロールされた演奏でありつつ、しかもあちこちで色々と仕掛けてきて、オーケストラをよく歌わせた生き生きとした演奏だった。劇場で、それこそロイヤルバレエのくるみ割り人形のような、よくできた上質の演出の作品に接しているような感じ。本来この曲は「幻想交響曲」というよりも「幻覚交響曲」とでも訳したほうがしっくりくる作品だし、演奏も作曲者のグロテスクな執念や常識からの逸脱に焦点を当てた、どろどろと人間臭いアプローチが大いに面白いと思う。それに比べると今日のマイケル・ティルソン・トーマスの演奏はもっと箱庭的で、でもその完成度は極めて高いので、これはこれでとても面白かった。

 このアプローチは3楽章まで続いたけれど、続く4楽章と最終楽章は一気に盛り上がった。金管楽器のフォルティシモを遠慮なく解放して、その響きの力強く華やかなこと! ここでもドロドロの狂気とは無縁の演奏だったけれど、それとは全く別の興奮が充満していて、聴いていて痛快なことこの上ない。断頭台への行進のはずが、なんだかお祭り騒ぎのような熱狂に取って代わられていたけれど、そんなことはお構いなしの楽しさがここにはある。
 続く最終楽章も、サバトの不気味さよりも、その響宴の狂騒自体の純粋な白熱に焦点を当てたような演奏で、華やかに楽しく力強く、そして最後は圧倒的に輝かしく曲を締めくくって演奏を終えた。

 この演奏が幻想交響曲のアプローチとして説得力があるのかどうかはよく分からないけれど、ライブで聴く演奏としては極めて高水準の出来で、心から楽しめた。個人的には、最後の二つの楽章でチューバが大活躍するのも面白く、大満足の演奏会だった。
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by voyager2art | 2012-01-26 08:14 | オーケストラ

夢と現/内田光子 & デイヴィス & LSO

 今日は久しぶりのバービカンでロンドン交響楽団。以前聴いたのと同じデイヴィスと内田光子の顔合わせで、前回と同じ作曲家によるプログラム。メインはニールセンの交響曲2番「4つの気質」。

Haydn: Symphony No. 98
Beethoven: Piano Concerto No.4
(Interval)
Nielsen: Symphony No.2 (The four temperaments)

Sir Colin Davis (Conductor)
Mitsuko Uchida (Piano)

London Symphony Orchestra

6th December, 2011 (Tue) 19:30 -
Barbican Centre, London



 最初のハイドン。このブログでも何度も書いている通り、僕はハイドンとモーツァルトの実演に極端に弱い。今日も一瞬で陥落。よく寝ました。

 続いて内田光子さんが登場してベートーヴェン。とても丁寧で気持ちがこもっていて、しかも繊細で柔らかい序奏。それを受けて転調して入ってくるオーケストラも、ピアノの序奏の雰囲気をそのままの表情ですっと掬い上げて、とても印象的な導入部だった。ただ、その後はしばらく「普通」な演奏が続いた。よく歌っているし、ピアノも前回とは比べ物にならないくらいよく鳴っているけれど、音楽が真面目に常識の枠の中にとどまっているという感じで、イマジネーションが広がっていかない。これがずっと続くとつまらないなと思っていたけれど、次第にピアノが熱を帯びてきた。今日の内田光子さんは前回のLSOとの共演時とは全く違って、アバドの指揮するルツェルン祝祭管との演奏のときのような、何かに憑かれたような演奏に一気に変わっていった。何かの幻が目の前をさっとよぎっていくような、現実離れした色合いの走句が現れ、かとおもうと何か巨大なものが、その影の一端からふとその本性を垣間見させるような、奥に何か不気味な空間の容積があるのを感じさせるソロが聴こえてくる。
 それに対するオーケストラは、しばらく現実の世界にとどまったまま、ピアノと明確な断絶(不調和という意味ではない)を見せていたけれど、内田光子さんのピアノは強烈な表現力でオーケストラをどんどんドライヴしていき、ソロピアノにぴたりと合わせるデイヴィスのサポートの見事さもあって、いつの間にかオーケストラを自分の側に引きずり込んでしまった。
 こうなるともう音楽は完全に内田モード。別の世界を垣間見るような弱音の遠い響きに加えて、今日は強奏が本当によく冴えている。それは音量が逞しいというのともまた違って、圧倒的な力に突き動かされるように行動する主体が発する強い圧力であって、それがまた、この世ならぬ存在が現実の世界と交錯するような弱音美と、実に鮮やかなコントラストを作り出す。
 彼女自身も相当強く自分の中のインスピレーションに支配されていたようで、音楽が進むにつれてミスタッチがかなり増えてきたけれど、音楽自体は圧倒的に高揚して充実しているので、そのミスタッチが演奏の瑕として感じられない。やっぱりこの人はすごいピアニストだったのだ、と完全に納得させられる、途轍もなく素晴らしい演奏だった。誤解を恐れず異論を承知で言えば、狂気は芸術の血だと僕は思っている。その文脈で言うと、今日の彼女の演奏は実に”血気盛んな”演奏だった。素晴らしい!

 ベートーヴェンの興奮が冷めないまま休憩が終わり、続いてメインのニールセン。初めて聴く曲だったけど、そこはやっぱりニールセン、いきなり熱い!
 最初の楽章は「短気な」気質の描写ということだけれど、怒りにつながる短気というよりも、感情としてはもっと中立的、あるいは前向きな「猛烈さ」という印象を持った。オーケストラの響きがどっしりと充実していて、低音から中音を経て高音がバランスよく積み重なっている上に、旋律の歌わせ方も非常に前向きで積極的なので余計にそう聴こえたのかもしれない。しかもニールセンらしいのが、ただ延々と猛烈な音楽を続けるのではなくて、間にうまく穏やかな楽想を挟むところで、情熱の噴出と、その合間に垣間見える、北欧の愁いを含んだ情景が音楽に濃厚な奥行きを与えている。先のベートーヴェンのような異世界の感覚はなかったけれど、感情の奔流のエクスタシーに巻き込まれ、合間に北国の風景の翳りを眺めるのは素直に気持ちがよかった。

 続く第2楽章は「くつろいだ」気質の音楽。でも再びここでもニールセン。どうも表現が前向きで、全然くつろいでいない。ゆっくりのんびりの週末の午後、なんていう雰囲気では全くなく、一見静かな深い森に入ると、中では多種多様な動物たちが活発に動き回っていて、実は森全体が巨大で一瞬たりとも停止することのないアクティブな生命の場だと感じるような印象だった。この表現のアクティブさは続く第3楽章の「メランコリック」でもそのままで、陰鬱に黙して物思いの遠い旅路に沈潜するというのとは全く違う。こんなことがあったんだよ、俺は辛いよ、本当はこうあってほしかったんだ、そうだろう、俺はこんなに一生懸命やってるんだ、物事は本来こうあるべきなんだ、とひたすらヒートアップし続けて喋り続けるような音楽。普通はこんなのを憂鬱とは呼ばない。ニールセンという人はよほど饒舌な情熱の持ち主だったに違いない。そしてその饒舌の間に挟まれる、長調と短調が頻繁に交替する印象的な和声。北欧らしい影の差した陽の光と、躊躇いがちな光に照らされた冬の名残の印象に支配されて、こちらの方がよほどメランコリックなデリカシーがあったのが何とも可笑しかった。
 最終楽章の「朗らかな」気質の音楽も、最初は楽しく始まったものの、あっという間に明朗が雄弁に転化する。オーケストラの機動力がますます冴えて、明晰なポリフォニーを奏でるのを楽しみながら、最後までニールセンらしい音楽に素直に身を任せた。オーケストラも相変わらずの上手さで、とても充実したいい演奏会だった。
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by voyager2art | 2011-12-07 09:08 | オーケストラ

芸術の悪魔/アバド & 内田光子 & ルツェルン祝祭管

 途轍もないものを聴いた。

Robert Schumann: Piano Concerto in A minor
(Interval)
Anton Bruckner: Symphony No.5

Lucerne Festival Orchestra
Claudio Abbado (conductor)
Mitsuko Uchida (piano)

10th October, 2011 (Mon) 19:30 -
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London


 最初のシューマンは今となってはよく覚えていない。先日のベートーヴェンと違って、シューマンの若き日の瑞々しいロマンが余す所なく表現された名演だったと思う。ピアノがオーケストラの内に外にと自在に行き来して、完璧なアンサンブルを作り上げつつ、心の奥底から迸り出るような途切れることのない豊かな歌を歌い続けていた。

 本当は、今日はこのブログを書かずにお休みにしようと思っていた。でも、この名演を聴いたら書かずにはいられないなと感じたくらいの、素敵な演奏だった。でも、次のブルックナーで、全てが、本当に全てが吹き飛んでしまった。


 シューマンのときはオーケストラもかなり小さな編成だったけれど、ブルックナーは相当な大編成。そしてそこから出てきた音楽は、もう空前絶後としか言いようがなかった。
 冒頭の、信じられないほどの弦楽器の弱音の響きがまず信じられない。オーケストラで本当に難しいのは、こういう極限のピアニシモなのであって、聴こえてきたのがまさにその究極のピアニシモと呼ぶにふさわしい、聴こえなくなる寸前の弱音と無限の広がりの極致だった。序奏の中で入るアクセントは古楽器奏法を入れていたように思う。渋い音で心に深く刺さってくる。続いて金管楽器のユニゾンが威厳に満ちた音楽を奏でて、いよいよ本章が始まる。
 ここまででも相当凄いと思ったけれど、ここからは想像を絶する巨大なものが目の前に現れるのを、なす術もなく眺め続けるような気分だった。フォルティッシモの途轍もなく巨大な音響と、全く底が見えないピアニシモのぞっとするような深遠、全てが完全なビジョンの元に完璧に構築され、一点の曖昧さもなく、明瞭に見通すことのできる音楽の組み上げ。そしてそれぞれの楽器がとんでもない勢いで燃え上がっているような、強烈に力強い音色。しかしきつい音というわけでは全くなくて、どんなフォルティッシモでも際限なく響きが大きくなるとともに、ピアニシモになると冒頭のように神秘の極みの音を奏でる。そして、その中間調はもう無限の色彩と広がりの世界を思いのままに遊ぶような感じ。
 これだけ強い音を作りながら、これだけの響きの明瞭を実現するというのは、他にはベルリンフィルくらいでしか聴いたことがない。そして、今日のルツェルン祝祭管は、そのベルリンフィルより更に一回り上手かった。オーケストラがここまで上手くなれるとは、考えたことがなかった。余りに上手すぎて、何もかもが自然にシンプルに演奏されているように聴こえる演奏ではあったけれど、実際にはこれは単に一人一人が上手いだけでなく、全員が全体を聴きあっているからこそできる演奏だったと思う。例えば、フルートがソロを吹くときに、伴奏の中のコントラバスが静かにゆっくりと動くところがあった(ちょっとだけ専門用語を使うと、ある和音の根音から全音下がって、第7音に移動した)。このとき、一瞬フルートとコントラバスがずれそうになったけれど、その一瞬の間に、フルートがベースに寄り添うように吹いて、音楽の表現を保ったまま完璧にアンサンブルを修正してしまった。舌を巻いた。

 続く第二楽章も忘れ難い。非常にゆったりしたテンポで三連符を奏でる弦楽器の上で、最初は木管楽器が旋律を奏でる。それがひとしきり続くと、今度はヴァイオリンに旋律が受け渡される。このとき、伴奏は三連符のまま、旋律は八分音符のリズムになり、3:4でリズムがぶつかることになる。ここでは何か突然目の前の世界が分裂し始めて、複数の異なる映像が重ねられたような多重性の感覚に目眩を覚えるほどだった。
 その幻惑もすぐに消えて、音楽が静かになったと思ったところに入ってくる弦楽器の分厚いコラールの美しさ! 圧倒的な存在感の美そのものが、そのまま目の前にいきなり現れたかのようだった。そして音楽はまたひたすら豊かに広がり続け、まるでブルックナーの8番か9番の3楽章でも聴いているかのような、深遠と豊穣を極めた音楽として壮麗かつ神秘的に演奏された。どの一瞬を取っても音楽に弛緩はなく、厳しくて温かく、そして崇高な美しさに満ち満ちていた。

 圧巻の2楽章が終わった後、僕はもう自分の音楽的キャパシティーを使い果たしたような気がした。これほど豊かで巨大な音楽を聴いたことがなくて、もう自分の全てがここまでの演奏で尽きてしまったかのような感覚だった。だからそのまま続けて速いテンポで第3楽章が始まったときには、僕は心の底から恐怖を感じた。この音楽は、まだまだ続く。

 飛び跳ねるようなリズムが飛び交う中を、何かをあざ笑うかのような旋律が走り回る。ヴァイオリン奏者が体を激しく動かしながら演奏しているのをみたとき、僕はぞっとするような思いで、それが悪魔が踊り狂っている場の風景のように感じずにはいられなかった。彼らは、僕などが及びもつかないようなスケールで、この音楽を心底楽しんでいる。僕はと言えば、恐怖のあまり息を殺し身を隠して、彼らに気付かれないように物陰からそれを眺めているような状態だった。このままでは取って食われると思った。今まで音楽のことを分かった気になっていた僕を内側からも外側からも固く覆っていた、根拠のないプライドと高慢が、パリパリと音を立てて崩れ去り、どこかに飛んでいった。

 僕はそのまま、取って食われた。彼らにとっては、ちっぽけな僕なんか、酒宴の肴の一かけらですらなかっただろう。僕は果てしなく踊り狂う音楽の中で翻弄され、蹂躙されるがままだった。


 終楽章が始まったとき、僕はもう燃えかすであり、抜け殻だった。もう何も残っていないと思った。ときに滔々と、ときに猛烈に、ときに軽やかに流れる音楽の中で、僕は必死で抵抗していたような気がするけど、それは多分、速い流れの中でやみくもに手足を動かしていただけだと思う。時折、ふっと力が抜けてしまって、ただ音楽に流されるままになった瞬間が幾度かあった。それは、音楽の流れに身を委ねる恍惚とは全く無縁の感覚で、真っ暗闇の中で突然地面がなくなり、いつ果てるとも知れない深い虚無の穴に落ち込んでいくような、絶望的な無力感でしかなかった。
 音楽がコーダに入ったと分かったとき、僕は一瞬希望の光が射したような気がした。もうすぐ終わる。ところが、そこからが本番だった。オーケストラは、いったいどこにそんな力が残っていたのかと思うようなスパートを掛け始め、音楽が更に激しさと巨大さを増す。僕は、僕自身の燃えかすや抜け殻すら一瞬で吹き飛ばされてしまって、もうどこにもなくなってしまった。そして演奏が終わった。


 僕の中で何かが決定的に変わった気がする。いや、そうではなくて、僕はなくなってしまったのではなかったか。もう僕にはよく分からない。舞台袖へ下がるアバドを呆然と眺めていたとき、彼がニヤリと笑うのが見えた。その瞬間、彼の中には悪魔がいるとぞっとしながら確信した。どんなに健康を損なっても、彼の中にその悪魔がいる限り、彼は演奏を続けるだろう。彼は芸術の悪魔に魂を売ってしまったのではないか。

 今日の舞台上で繰り広げられたような芸術的創造に携わることができるのであれば、できることなら僕もこの悪魔に魂を売ってしまいたい。僕はそう思った。


 実は明日も彼らの演奏会を聴きに行く。そのとき僕は、僕としてあるのだろうか。僕にはもう全く何も分からなくなってしまった。


(翌日の公演の写真追加します。)
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by voyager2art | 2011-10-11 08:13 | オーケストラ

集大成/マゼール & フィルハーモニア管/マーラー8番

 どうしようもなく時間がないので、情けないけどほとんど記録だけ。

Maazel: Mahler Cycle 2011

Mahler: Symphony No.8

Lorin Maazel (Conductor)

Sally Matthews (Soprano)
Ailish Tynan (Soprano)
Sarah Tynan (Soprano)
Sarah Connolly (Mezzo-soprano)
Anne-Marie Owens (Mezzo-soprano)
Stefan Vinke (Tenor)
Mark Stone (Baritone)
Stephen Gadd (Baritone)

Philharmonia Voices
BBC Symphony Chorus
Philharmonia Chorus
The Choirs of Eton College

Philharmonia Orchestra


9th October, 2011 (Sun) 19:30 -
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London


 マゼールがフィルハーモニア管と演奏してきたマーラー・サイクルの最終日。大曲の8番。このシリーズは色々と聴きにいきたかったけれど、他の音楽会と重なったり、出張が入ったりであまりたくさんは行けなかった。でも、老いたマゼールの独特の境地が、いままで聴いたことのないマーラーを開拓してたのも事実で、名演ぞろいとは言えないかも知れないけれど、非常に興味深い企画だったことは間違いない。
 最後を飾る8番は、もうステージとクワイア席にオーケストラと合唱団が溢れかえるような状態で始まった。

 パイプオルガンの圧倒的な導入に続いて入ってきた合唱は、その人数が多いだけでなくて声の圧力と輝きが素晴らしく、いきなり強烈で壮大な音楽で会場を満たし切る。その後もオーケストラと合唱の気合いがビンビン伝わってくるような熱い演奏が続いて、ようやくそれが静まると、今度は独唱陣の出番。ここでマゼールは先日の9番のようにぐっとテンポを落として、やっぱりきたかという感じ。これだけのテンポだと歌う方は本当に苦しいだろうと思うのだけれど、それを感じさせず、間延びもせずに歌い切る歌手たちが素晴らしい。その後もオーケストラ、ソリスト、合唱の全てが強い緊張感を保ったまま熱い演奏を繰り広げ、素晴らしい第一部を作り上げていた。

 続く第二部。ヴァイオリンの心に突き刺さってくるような素晴らしく印象的な音色のスフォルツァンドに始まり、深い内省と神秘の音楽がじっくりと歌い込まれる。途中の高揚もぐっと内省的で、まるで宇宙の遠くの星が燃え続けているのを眺めるような、浮世のしがらみとは全く無縁の、純粋で力強い気高さを感じさせるものだった。合唱が音節を区切りつつ、つぶやくように歌う部分でも、最小限で入ってくるオーケストラが見事な緊張感を保って、音楽の深くて長い流れを途切れさせることがない。そのまま延々1時間。個性豊かなソリスト陣も、女声・男声のそれぞれに中心となる歌手がいて、特にテノールのヴィンケのソロが素晴らしかった。そのまま最後まで全く飽きることなく、その神秘に深く取り込まれたまま、最後は圧倒的なクライマックスに飲み込まれた。本当に感動的な、素晴らしい演奏だった。

 ちなみに、第二部の後半でコントラバス奏者の一人が気を失って突然倒れ、周囲の奏者に舞台袖へ運ばれていった。マゼールは冷静に指揮を続けて、会場には動揺が走りつつも演奏はそのまま続いたけれど、あの奏者は無事だったのだろうか。不謹慎なことを言うようだけれど、このハプニングの後、舞台上の全員に「俺たちがしっかり演奏を続けなければ」という緊張感が加わった気がした。そして、演奏もこれで更に感動を増していたように思う。会場の誰もがそう感じていたのではないだろうか。

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by voyager2art | 2011-10-10 06:57 | オーケストラ

持ち味/内田光子 & デイヴィス/ロンドン交響楽団

 急にロンドン交響楽団が聴きたくなって、直前になってチケットを買った演奏会。内田光子さんのピアノも、学生時代に日本で聴いたきりで長く聴いていなかったので、最近はどんな演奏をするのかと前から気になっていた。ようやく実演を聴けると楽しみにしながら会場へ向かった。

Haydn: Symphony No. 92 "Oxford"
Nielsen: Symphony No. 1
(Interval)
Beethoven: Piano Concerto No.3

Sir Colin Davis (Conductor)
Mitsuko Uchida (Piano)

London Symphony Orchestra

4th Oct 2011 (Tue), 19:30 -
Barbican Centre, London


 最初のハイドン。冒頭の響きから極めて充実していて、穏やかな佇まいの中に微笑みと幸福がいっぱいに満ち満ちているような音楽が聴こえてきた。明るくて美しくて、もう理想的なハイドンの響き。
 ハイドンの音楽は演奏がとても難しくて、各パートが一分の隙もなく編み上げられているので、演奏する方は一瞬たりとも気が抜けない。例えばベートーヴェンの楽譜を眺めてからモーツァルトの楽譜を見ると、シンプルなのに豊かだなあと感心するのだけれど、その後にハイドンの楽譜を見ると、鳥肌が立つほどに更に厳しく切り詰められていて、しかも音楽は豊かさを一切犠牲にしていない。その分、楽譜に書かれた音符はときに主旋律、ときに対旋律と目まぐるしく役割が入れ替わり、しかも旋律を弾きつつ同時にハーモニーを構成したりもするので油断ならない。一方で、単純なハーモニーの伴奏のように見えるパートが、実はリズムを打ちながら対旋律のように動いていたりもするので、全ての奏者が瞬間瞬間における、全体の中での自分の役割を理解していないと、各要素が噛み合わずに音楽が成り立たなくなる。これほど演奏が難しい音楽もなかなかないかわりに、上手く噛み合うとこれほど豊かな音楽もない。今日の演奏は、その上手くいった方の素晴らしい実例だった。豊かで美しく、極めつけに心地良い。

 こういう音楽に僕は弱い。何が弱いかというと、これだけ心地いい演奏が続くと、絶対に睡魔に勝てない。美しく響くモーツァルトやハイドンの実演を聴いて、今まで寝ずにいたことは数えるほどしかない。今日も、もちろんよく寝ましたとも。(ごめんなさい!)


 続くニールセンの交響曲第1番。ニールセンは好きだけれど、録音も含めて聴いたことがあるのは3番と4番だけ。プログラムの解説によると、作曲者の20代のときの作品らしい。
 実際に演奏が始まると、ドヴォルザークのような響きも時折聴こえはするものの、やはりはっきりとニールセンの特徴が出ていて面白かった。独特の音階や翳りのある和声はニールセンそのものだし、何よりも心の内から溢れてきて何ものをも押し流さずにはおかないような、表現意欲の奔流はこの頃から既に確立されていたのがよく分かる。そして、その奔流に身を委ねて一瞬のうちに心を遠くへ運び去られる恍惚は、この作曲家を聴く何よりの醍醐味。そういう部分がこの音楽には随所にあり、充分にその楽しみを味わった。
 デイヴィスの指揮するオーケストラもさすがのうまさで、明快な発音と熱くて集中力の途切れない濃密な表現が素晴らしく、期待通りの「上手いオーケストラの演奏」を堪能した。


 休憩を挟んでメインのベートーヴェン。会場の温かい拍手に迎えられて、深々とお辞儀をして席に着いた内田光子さん。でも、大らかでゆっくりの序奏に次いで入ってきたピアノのソロは、実をいうと始めのうちなかなかその良さが分からなかった。音はしっかりと中身の詰まった音でよく鳴っているし、そつなく演奏してはいるけれど、どうも本質的に彼女の音楽性と、この曲の大仰な力強さが合っていない気がした。ピアノソロの歌い回しが、妙に落ち着いていて、ここ一番のフォルテは無理やり力づくで鳴らしているような感じ。彼女のフォルテは厚いというよりも固い響きになってしまって、どこかちぐはぐで逆効果な印象があった。

 どこか釈然としないまま音楽は進んでいき、ようやく1楽章のカデンツァで、彼女の良さが分かってきた。彼女は力で押すような音楽よりも、前に素直に流れる音楽を演奏する方が自然な音楽を作るし、強音よりも弱音の音楽で格段に素晴らしい演奏をする。特に弱音の旋律一本で勝負するときの緊張感と表現の深みは抜群に良くて、一気に聴き手を音楽に引き込んでしまう。

 そうなると本当に素晴らしいのが緩徐楽章の第2楽章で、冒頭のソロの、深い静けさの中の歌の豊かさはこの上なく美しい。この楽章ではそのまま、彼女の持つ弱音の神秘が余すところなく繰り広げられる。仄かな響きの中の素晴らしい色彩の変化や、中音域の中弱音の深い色合いの移り変わりは圧巻で、この曲でこれだけの演奏をする人は世界に何人もいるとは思えない。おかしなことを言うようだけれど、彼女はベートーヴェン向きではないとは思うけど、ヴェートーヴェンのある種の曲を弾くには彼女はすばらしい適性を発揮する。

 3楽章は再び力が必要なタイプの音楽になるので、1楽章と同じような印象に戻ってしまうのが残念だった。恐らく普通に聴けば決して悪い演奏ではないのだけれど、2楽章が余りにも素晴らしいのでその差がどうしても気になってしまう。でも、ときどき現れる弱音のアルペジオなどはハッとするほど美しくて、聴き終わった後の感想は、やはりいい演奏を聴いたと満足できるものだった。

 僕は彼女の演奏を聴くなら、ドビュッシーの、それも前奏曲集第2巻や練習曲集といった、後期の洗練を極めた音楽や、定評のあるモーツァルトが面白いだろうと思う。あとは、シェーンベルクやウェーベルンなども面白いに違いない。来年4月に彼女がリサイタルで弾くシューベルトも定評があるけれど、僕は録音も聴いたことがないので、どういう演奏になるのか今ひとつ予想がつかない。でも、だからこそ聴いてみたいと思わせる魅力を持ったピアニストだと思う。
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by voyager2art | 2011-10-05 08:22 | オーケストラ

昔語り/マゼール & フィルハーモニア/マーラーサイクル

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 マゼールとフィルハーモニア管によるマーラーサイクル。今夜は9番。実は二日前にも同じシリーズの演奏会があり、マーラーの10番アダージョと大地の歌という、マーラーの作品の中でも僕が最も好む2曲の演奏だった。ところが、先日引いた風邪が治ったと思ったらまた別の風邪をもらってしまったらしく、体調が再び悪化していて10番を聴いたところでギブアップ。非常に遅いテンポの演奏で、このままの調子で大地の歌を演奏されたら体力が持たないと悟って音を上げてしまった。
 ただしこの10番、そのテンポの遅さゆえにオーケストラのアンサンブルが崩壊する手前まで行ってしまった異色の演奏で、恐らく録音で聴くとその合奏の乱れが許容できないところまで崩れていると思うけど、それが実演では異様な緊張感を帯びてこちらに迫ってきた。
 この調子だと今日の9番も相当遅いのだろうけど、上手くいけば狂気を帯びた面白い演奏になるに違いない。久々に体調も戻ってきて、気合いたっぷりで会場に向かった。


G. Mahler: Symphony No.9

Lorin Maazel (Conductor)
Philharmonia Orchestra

1st October, 2011 (Sat) 19:30 -
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London


 その演奏、始まってみると予想通り遅い。本当に遅い。ひたすら最初から最後まで、ずっと遅かった。途中で一瞬、ああ速くなったかなと思っても、演奏が続くうちにまた遅くなる。一楽章だけで40分。先日聴いたノリントンだったら、40分もあれば2楽章の終わりか、もしかすると3楽章の真ん中あたりまで演奏していたかもしれない。遅くても緩急がついていればまた印象は違ったと思うけれど、どこを取っても慌てず騒がず、静かなところも音量が大きく盛り上がるところも、楽譜に書いてある以上の表現は何も加えず、同じスケールでずっと続く。潔癖なまでにデフォルメを避け、執拗なまでに同じ語り口で語り続ける。こちらも我慢に我慢を重ねて聴いているけれど、有り体に言えば、これは老人の気の遠くなるほど長い昔語りを、いつ果てるともなく聞き続けるような感じだった。

 それでも何とか我慢して聴き続けられたのは、一つにはオーケストラの熱演によるところが大きい。奏者の側にも相当なストレスが溜まっていたのではないかと思うし、実際トランペットやホルンのソロでは思わず駆け出してしまったり、募るイライラのせいではないかと思うようなミスも見られた。それでも、全体としてはこの非常に遅いテンポの中でも決して集中力を切らせず、驚異的な粘りで技術・表現ともに極めて高い水準を保ち、最後まで演奏し切っていたと思う。
 それからもう一つ、とにもかくにも僕に今日の演奏を最後まで聴き通させた一番大事な点は、マゼールが一切の虚飾を排して、徹頭徹尾誠実に演奏していたこと。何か前代未聞の効果を狙ってやろうとか言うようなわざとらしさは一切なく、年齢を重ねたマゼールが、今の心境に忠実に音を積み重ねていったら今日の演奏になったということは間違いない。そこには、長い間クラシック音楽会の最前線を走ってきた彼だからこその説得力があった。

 今日の演奏を聴いていて、延々と積み重ねられた淡々とした語りの持つ誠実と真実の重みは何より印象的だった。これが今までのマーラー演奏にはなかったスタイルであることは間違いないけれど、ではこれが普遍的な価値、あるいはこれまでの価値観を突き崩すような新しさを持つかというと、僕はそうではないと思う。今日の演奏から僕が感じたのは、心を揺さぶる深い感動とは何か別のものだった。それは恐らく、カラヤンやバーンスタインといった大家たちとも一部重なる年代に活躍した一人の指揮者が、老いという誰も逃れることのできない宿命の中で、その芸術を変容させていくのを目の当たりにしているということへの感慨なのだろう。

 最初の予想とは異なる後味の演奏だったけれど、疲労だけではない何かが心の中に残る演奏ではあった。
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by voyager2art | 2011-10-02 07:56 | オーケストラ

美女の音楽/バティアシュヴィリ & サロネン & フィルハーモニア管/Prom 44

 ストラヴィンスキーのペトルーシュカが聴きたくて出向いた演奏会。僕はストラヴィンスキーのバレエ三部作のうち、火の鳥と春の祭典は実際のバレエの舞台で観たことがあるけれど、このペトルーシュカだけは未だに機会がない。それでもこの音楽が大好きで、久しぶりのフィルハーモニア管でどんな演奏が聴けるかと楽しみに会場へ向かった。
 でも、実際に強い感銘を受けたのは、ペトルーシュカよりもその前のショスタコーヴィチの方だった。


PROM 44

Shostakovich: The age of gold - suit
Shostakovich: Violin Concerto No.1 in A minor
(interval)
Stravinsky: Petrushka (1947 version)
Tchaikovsky: Francesca da Rimini

Lisa Batiashvili (violin)
Philharmonia Orchestra
Esa-Pekka Salonen (conductor)

17/Aug/2011 (Wed), 19:30 -
Royal Albert Hall, London



 最初の曲はショスタコーヴィチのバレエ音楽「黄金時代」。初めて聴く曲で、これがバレエ音楽ということも知らずに聴き始めた。最初の鮮烈な出だしは、フィルハーモニア管らしい柔らかい弦の音だなと思ったけれど、何となく音に厚みがなくて、まだオケが鳴っていない。技術的にはもちろん上手いし整っているんだけれど、管と弦のバランスがいまいちで、少し空回り気味。でも途中からだんだん安定してきて、さすがだなと思ったのは続く(組曲の中の)2曲目。べたつかない感傷が切々と歌い上げられて、音も明るく澄んできて一気に音楽に惹き込まれる。
 心の奥の深いところまで連れて行かれて、ああと声を出したくなるほどの深い余韻に浸る間もなく、第3曲の異常にコミカルな音楽がほとんど切れ目なしに始まった。エレジーのような第2曲のあとでは、このスケルツォ(実際にはポルカと指定されているそうだけれど)は悪ふざけの過ぎる、あからさまに意図的な道化として聴こえてくる。心のうちを吐露してしまった後の照れ隠しなのか、あるいは実はまだ自分の中に生々しく残っている心の傷の痛みをごまかすための、見せかけの照れ隠しなのか。
 続く終曲も一見コミカルな表情を纏ってはいるものの、そこで語られている内容は真剣。ずっと道化としての人生を送ってきた主人公が、自身の思考回路の奥の奥まで染み込んでしまったコミカルなボキャブラリーを唯一の手段として使いつつ、とにもかくにも自分が言わなければならない切実な何かを必死に言い切ってしまったような、苦さと甘さの混じった音楽だった。技術的にも高度に安定していて、素晴らしい演奏だった。


 今まで何となく抱いていたショスタコーヴィチへの苦手意識が克服できるきっかけになるような演奏だったけれど、続くヴァイオリン協奏曲はこの作曲家の良さを一度に目の前に繰り広げてくれるような、更に素晴らしい演奏だった。

 ヴァイオリンのバティアシュヴィリは、グルジア出身と言われて100%納得できる、彫りの深い顔立ちの舞台映えする美人。オーケストラの序奏に続いて静かに入ってきたヴァイオリンの音は、重心が低くて、かつよく通る美しい音。巨大なロイヤルアルバートホールで聴いてこれだけ響くのだから、小ホールで聴いたらものすごく豊かで力強い音を持っているのではないか。
 しかし彼女は、音そのもので聴かせるだけではなく、音楽の表現自体が本当に見事だった。この1楽章では、非常に素直な音の出し方を徹底していて、細部の歌い回しを巧みに聴かせるというよりは、延々とたゆたい続ける音楽を、全く切れ目なしにひたすら歌い続ける。一つ一つの音が素直に発音され、素直に伸ばされて素直に次の音に移る。そして限りなく息の長い旋律がきちんと旋律としてつながっていく。細部にこだわらない分表情にあざとさがなくて音楽が自然に流れていた。
 とりわけ印象的だったのは、彼女が音や表情をひたすら聴き手の方に発し続けるだけではなくて、ときどき音をふっと抜いたように弾くことで音楽のベクトルを彼女の内側に向けるところ。聴いているこちらは、それまでずっと自分の方に向かって発せられていた音楽が突然反転して向こうに引いてしまうので、それにつられて更に深く音楽に引き込まれることになる。これはこの楽章だけではなくて、今日の演奏全体の随所に見られて、非常に効果的だった。とはいっても、彼女がこれを計算ずくで狙ったという印象も受けなかった。もとより何も考えずにそういうことをできるはずもないし、恐らくこの音楽の特質として彼女が本能的かつ直感的にこういう表現をつかみ取ったのだろうと思う。
 ゆっくりと静かな音楽が延々と続くうちに、次第にその長大な積み重ねから驚異的な意志の粘りも浮かび上がってきて、ずっと演奏に引き込まれたまま気が付くとこの楽章が終わっていた。

 続く第2楽章は一転して音が跳ね回る音楽。バティアシュヴィリは正確なテクニックと冴えたリズム感でこれを弾くのだけれど、音が跳ねている割には音楽は跳ねていない。そこに派手さや華やかさは一切なく、むしろその跳ねている音を通して、彼女の鋭い視線が身じろぎもせずにじっとある一点を見据えているような、絶対的で一切の揺るぎのない視点と、恐怖感すら覚えるほど沈着冷静で強靭な意志の凄みを感じずにはいられなかった。
 音楽が抽象的なので、ある人の独白を、そこに出てくる固有名詞が分からないままに傍で聞いているような印象もあって、非常に面白い。

 第3楽章は再び緩徐楽章。最初は1楽章のときと同じように素直な歌い口で演奏し始めたけれど、音楽が進むにつれて表現がどんどん柔軟になっていく。ここでは音楽は禁欲的な抒情ではなく、もっと心の内側に落ち込んでいって、痛切な甘美さに支配されていく。バティアシュヴィリのヴァイオリンには大げさなルバートがなく、テンポやリズムの変化は非常に抑制されているにもかかわらず、その表現はこの上なく繊細で表現力が豊か。まるで自分の心の中の一番デリケートな部分を直接外界にさらけ出して、そこが傷ついて血が滴るのも構わずに、愛するものへの執着、あるいは愛したものへの追憶を直に抱きかかえるような、繊細でしかも官能的な演奏。
 楽章の最後のカデンツァでは更に音楽が大きく盛り上がり、ヴァイオリン一本だけの音楽とは思えない切実さと深さと広さを表現する。気が付くと彼女のヴァイオリンを中心に大きな渦が回り始め、その渦はもはや止めようがないほどに大きくて強い確固とした流れになっているような錯覚を覚えた。その渦の流れで世界は大きく転回し、途切れることなく終楽章に入る。

 この終楽章の入りは、それまでの濃密で痛切なヴァイオリンソロを受けたスミス氏(言わずと知れたフィルハーモニアの重鎮ティンパニ奏者)の圧巻のティンパニで導入された。この導入部の演奏では、胸のすくような鮮やかさで一気に快速楽章になだれこむというのが多いのではないかと思うけれど、スミス氏のティンパニは全く違う。ずっしりと地面に腰を据えて、広大でそれまでとは全く違った豊かな世界が開かれるのを確固たる口調で厳かに告げるという感じ。世界が一気に広がるとともに、素晴らしい厚みを備えて風景を豊かに引き締める。
 その新たな世界で、バティアシュヴィリのヴァイオリンは何かに憑かれたかのような圧巻の演奏。前楽章までの強靭な意志や揺るがない視点の凄みはそのままに、さらに猛烈な激しさと推進力を加える。固唾をのんで聴き入るとはまさにこのことで、聴いている僕は身を乗り出して金縛りにあったように身動きできない。演奏はそのまま一気呵成に最後まで突き進んだ。


 僕はバティアシュヴィリというヴァイオリニストの名前も知らなかったし、今日の演奏会もペトルーシュカを目当てに聴きに行ったくらいなので、この演奏は全く予想外で、そのあまりに素晴らしさに当分興奮が冷めなかった。ヴァイオリンは詳しくない僕だけれど、ロンドンに来てそれなりにいろいろなヴァイオリニストの演奏を聴いてきて、その中でも非常に水準の高い演奏だった。32歳の若さでこの曲をこれだけ素晴らしく弾きこなす音楽性にも驚嘆。彼女の演奏はこれから機会があれば極力聴くようにしよう。
 ちなみに夫君はかの天才オーボエ奏者のフランソワ・ルルーだとか。この二人の共演も聴いてみたい。

 このあと、アンコールを一曲。誰の何という曲かは知らないけれど、素朴なワルツ。気品のある艶やかな歌い口がとても魅力的で、ときどき少女のようにはしゃぐところもあって、彼女の別の魅力を堪能。色々な曲で聴いてみたいヴァイオリニストだなあ。
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 興奮冷めやらぬまま、休憩を終えてお目当てのペトルーシュカ。さっきまでは協奏曲の伴奏ということでかなり音量を落として演奏していたオーケストラだけど、ここではアクセル全開。そしてスミス氏のティンパニもエンジン全開。高周波成分が多く、バンとよく響く音の中に音程がしっかりと鳴っている、たまらない音。ストラヴィンスキーの音楽となると、もう水を得た魚のようにバシバシと決め所をことごとく決めていく。痛快。
 でも上手いのはスミス氏だけではない。実力派のフィルハーモニア、サロネンの明快な指揮の下で、どのパートも見事にソロとアンサンブルを決めて外すことがない。音色も普段の柔らかさに、更に強い輝きを加えて冴え渡り、リズムも安定していてアンサンブルも決して崩れない。このオーケストラで聴くことの多い、上手いけれども落ち着きすぎてしまった演奏では全くなく、今日はオーケストラが非常に充実した自主性を発揮していた。

 ただ、今日の演奏にはちょっと独特の印象もあった。サロネンは各楽器の間の関係を、今まで聴いたことのないようなバランスで構築していた。だから、今まで主旋律だと思っていた音が裏に回ったり、こんな音があったのかという思うようなのが表に出てきたりと、最初から最後まで常に発見があった(ただしこれは、版の問題なのかもしれない)。
 そして、何よりも独特だったのがその音楽の方向性。明快な指揮棒さばきで楽譜の隅々まで明確かつ正確に音にして、一点のごまかしもないのは指揮者とオーケストラ奏法の水準の高さの証明だろうと思う。その上で、今日の演奏には、都会的に洗練されてしまった先の居心地の悪さのようなものを感じさせるところがあった。これはネガティブな意味で言っているのではなくて、そういう表現をこの音楽に与え得ることが僕には新しかったという点で、非常に興味深かった。子供向けの素朴な歌の断片でさえ、コンピューターで正確に制御された演奏のように聴こえて、曖昧さはないかわりに僕のような古いタイプの人間が慣れ親しんだ人の素朴な暖かみもない。現代的に洗練され、必要な全ての機能が洒落たデザインで実装されたオフィスビルにいるような、そこはかとない不快感や不安と一体になった快適さ。
 かつてサロネンの指揮するフィルハーモニアで春の祭典を聴いたときは、まさにこの特徴ゆえにその演奏に全く共感できなかった。しかし曲目がペトルーシュカとなれば、その特徴が音楽に不思議な洞察を与えるのが面白い。現代の都会に舞台を移し替えた演出でこの演目を「観て」いるような、そんな印象的な演奏だった。
 

 最後はチャイコフスキーのフランチェスカ・ダ・リミニ。(いつものことながら)不勉強なことに、この曲の元となったダンテの「神曲」は読んだことがないし、実はこの曲自体いままで録音ですら聴いたことがなかった。どんな曲かと楽しみに聴き始めたけれど、どこかに旋律を置き忘れてきたかのような音楽で、普段聴くチャイコフスキーの音楽に濃厚に漂う、旋律の魅惑が全くない。オペラで歌手が不在のままオーケストラだけで演奏しているような物足りなさが作品のほとんどを覆っていて、演奏レベル自体は高かったものの、音楽を楽しんだとは言えない。この曲が滅多に演奏されない理由は明白だし、今日の演奏会でわざわざこの曲を最後に置く必要性は僕には理解できなかった。レベルの高い演奏会だっただけに、この一曲は蛇足だったという印象を拭えない。

 
 最後だけちょっとがっかりしたとはいえ、とにかく盛りだくさんで極めて充実した内容の演奏会だった。最近ぱっとしない演奏会が続いていただけに、地元のオーケストラで素晴らしい演奏を聴けたのは嬉しい。同時に、フィルハーモニア管のレベルの高さを再確認した演奏会でもあった。聴きに行って本当に良かった。
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by voyager2art | 2011-08-18 10:20 | オーケストラ

イギリス気質/マッティンペルト & ラニクルズ & BBCスコティッシュ/PROM 27

 またプロムス。実際にはプロムスだけでなくマリインスキー劇場のバレエのロンドン公演も観に行ったりしているけれど、記事を書くのはまた来週(の予定)。今日は何といってもシュトラウスの4つの最後の歌が楽しみで選んだ演奏会。この曲は僕の一番好きな歌曲で、このブログにも既にいくつかのレビューを載せている。プログラムにこの曲が含まれている演奏会は、なるべく優先して行くようにしているくらいのお気に入り。

Prom 27

Robin Holloway: Fifth Concerto for Orchestra (world premiere)
R. Strauss: Four Last Songs
(interval)
Brahms: Symphony No. 2

Hillevi Martinpelto (Soporano)
BBC Scottish Symphony Orchestra
Donald Runnicles (Conductor)


 最初のホロウェイ。管弦楽のための協奏曲第5番。ホロウェイという人は名前も曲も初めて聞くし、この曲自体も世界初演。どんな音楽かと楽しみに聴き始めたけれど、これがとても艶やかで色彩的な響きで始まった。明確な旋律感や和声感はなく、まるで天地創造の直後、まだ天と地が分離する前の、何ものかがエネルギーの塊として宙を漂っているような感じ。そこには明確な動きがあって、あっちへ向いたりこっちへ行ったりと半ば無秩序に変容しているけれど、方向感はない。時おり、淡い色彩の泡があたり一面に涌き上がってくるような響きもあったりして、無秩序と秩序の狭間のような音楽だった。
 これに続く二曲目は、天と地が分離し、大地が陸と海に別れた直後の若い世界のようなイメージ。動物や人間がまだ現れる前の静かで明るい世界を、できたばかりのせせらぎが瑞々しい音をたてて飛沫を輝かせながら流れていくような、清冽な印象の音楽だった。先の楽章に比べるとぐっと旋律感は増すけれど、それは確立されて成熟した音楽理論に基づく旋律感ではなくて、もっと原始的で直截的な歌心の発露という感じ。爽やかで心地良い。
 これが三曲目になると、ぐっと世界の秩序ができあがってくる。まだまだ背景は混沌としているけれど、その中に明確に5度音程や倍音列が提示されて、はっきりと秩序への指向が見える音楽。音楽の中に現れる様々な要素が、それぞれの間でローカルな秩序を構築し、それが集積して世界全体に大きな枠組みが育ってくる。世界が、子供から青年へと成長していくような印象。
 最後の4曲目はかなり激しい音楽で、その激しさは嵐のような自然現象としての激しさではなく、明確な意志の存在に裏打ちされた、精神の主体性に支配された音楽。作品としてもうまくクライマックスを形成して、盛り上がって終わった。
 何か創世記を音楽によって紐解いているような、面白い曲だった。



 続いてシュトラウス。最初の「春」は相当速いテンポで始まった。短い序奏に続いて入ってきたマッティンペルトのソプラノは、やはりホールの大きさもあって、非常に聴こえにくい。そして、その聴こえにくさの合間から聴き取れた歌は、音程が相当甘かった。僕は別に歌に音程を厳しく求める方ではないと思うけれど、それでもやはりある程度の精度は欲しいと思うし、その点では今日の歌はあまり感心しなかった。ただ、上手くはまると声自体はとても艶があって輝かしく、しかも心地良い引っ掛かりのある手触りがあって、とてもきれいだった。
 ただ、何よりも残念だったのは演奏のテンポが余りにも速すぎたこと。なんだか歌の美しさが端折られてしまったような、欲求不満のたまる演奏だった。一つ一つの旋律の歌わせ方や、オーケストラ全体での音色や響きの雰囲気の作り方はとても巧みなんだけれど、それが音楽全体の表情にうまくつながらない。僕は別にテンポ設定が極端でも、そこに新たな発見があるなら支持するのだけれども、今日の演奏では損なわれるものの方が多かったように思う。この印象は続く「九月」でも同じで、弦楽器の落葉を現す音型などは美しく強調されていて良かったけれど、そして演奏の水準はとても高かったけれど、印象に残りにくい結果となってしまった。たとえ他と比べて代わり映えのしない演奏になったとしても、ここはたっぷりと音楽自体を歌わせて演奏した方が、曲の魅力がより引き出されていただろうと思う。
 次の「眠りにつくとき」もやはり速めのテンポだったけれど、途中のヴァイオリンソロが実に素晴らしかった。この音楽の持つ明るく深い感傷とノスタルジー、そして艶のあるしっとりした響きの美しさが、速いテンポながらゆったりした音楽として切々と歌われる。これを受けるソプラノも素晴らしい歌唱で、この歌曲の今日の演奏の中では一番良かった。

 最後の「夕映えの中で」は、打って変わって遅い始まり。遅いだけでなく、響きもぐっと弱く、くぐもっている。僕はこの曲に、アルプスの山々が鮮やかな橙色の夕日を浴びて、精妙な紫色の夕空を背景に佇む風景の印象を抱いていた。ところが今日の演奏は、目の前に見るアルプスの風景の描写ではなく、過去に見たアルプスの風景の追憶のような、記憶の中の遠い風景。そこには、雄大な自然の中の吹っ切れた明るさではなく、払っても払っても拭いきれない重苦しさ、陰鬱さの気配が漂う。
 この演奏の暗さは僕には驚きで、こういう演奏を想像したことがなかったので、久しぶりに訪れたお気に入りの街がいつの間にか荒廃してしまっているのを見るような、何ともいえない苦さを感じた。曲の終わりも、黄昏の光の中に思念が溶けていくという印象ではなく、深い淵の中に沈んで闇に消えていくような感じ。
 ソプラノが高音を出すときに、物理的な発声に集中するあまり声や音程が荒れたところがあったのは惜しかったけれど、僕が今日の演奏に入り込めなかった原因はそれではない。オーケストラはもとより実力派なので、指揮者の要求に十全に応えていた。僕にとって問題だったのは、その指揮者の指揮の方だった。悪い演奏だったというのではない。僕がこの曲から聴きたいと思っていたものが聴けず、まさか聴くとは思っていなかった(そしてできれば聴きたくなかった)ものが聴こえてきたのが少々ショックだったということだ。



 休憩を挟んでブラームスの2番。これも速いテンポでの演奏だった。ちょっと特徴的だったのは、特に木管楽器の旋律で、スラーの切れ目に明確な区切りを入れたこと。楽譜通りといえばそれまでだけれど、いかにもわざとらしくて音楽の流れを阻害してしまう。それを除けばよく歌う演奏だっただけに、余計にその不自然さが強調されてしまった。
 しかしそれを除けば演奏の質はかなり高く、アンサンブルの乱れはそれなりに見られたものの、美しい響きと積極的な表現意欲からオーケストラの上手さがよく伝わってくる。ただ、ここでもやはり吹っ切れた何かがない。非常に前向きに突っ込んだ表情付けをしていてすら、そこに重さ、暗さの気配を感じずにはいられなかった。ここでもまた、特に何かが悪いという訳ではない。むしろこれは、ドイツ系とイギリス系の人々の性向や気質の違いなのではないかという気がした。ドイツ人は真面目というけれど、同時に森の奥深い暗闇に根を下ろした、肉太で深いロマンティシズムも持ち合わせているように思う。それが典型的に現れるのがシューマンであり、ブルックナー(ブルックナーはオーストリア人だけど)なのではないか。一方のイギリス人には、(異論を承知で書けば)独特の禁欲的な生真面目さがあって、その抒情はメランコリーよりもノスタルジーに傾斜する。同時に、音楽が盛り上がるところでも、ドイツの楽団なら音楽を力強く高らかに(多少の悲愴味を込めて)歌い上げるところが、今日の演奏は真面目に思考を掘り下げて行くような、正反対のベクトルを感じた。

 繰り返すけれど、演奏の質は技術的にも表現意欲の面でもかなり高かった。とくに3楽章全体の表現の広がりや、4楽章の力強いクライマックスは見事だった。その上で、ステレオタイプな偏見かも知れないけれど、これほど何度も演奏された曲でもこういうお国柄が演奏に現れるということが興味深かった。
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by voyager2art | 2011-08-05 08:43 | オーケストラ

まっすぐ/五嶋みどり & ネルソンズ & バーミンガム市響/Prom21

 久々にブログを再開したら、週に二度レビューを書いただけでバテ気味。以前は2週間で10公演以上のレビューを書いたこともあったというのに。おかげで日中はぼやぼやだらだらと過ごし、夕方になって家を出た。まずはお気に入りのモロッコ料理屋へ行って腹ごしらえ。
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 そのあとはロイヤルアルバートホールへ移動して今日もプロムス。今日は以前から楽しみにしていた五嶋みどりが出る回。

Prom 21

R. Strauss: Don Juan
Walton: Violin Concerto
(Interval)
Prokofiev: Alexander-Nevsky - Cantata
R. Strauss: Salome - Dance of the Seven Veiles

Midori (Violin)
Nadezhda Serdiuk (mezzo-soprano)
CBSO Chorus
City of Birmingham Symphony Orchestra
Andris Nelsons

30th July, 2011 (Sat) 19:30 -
The Royal Albert Hall, London


 最初のドン・ファンの冒頭部分でびっくり。音の瞬発力と響きの厚みとが非常に高い次元で両立していて、とても鮮烈。このオーケストラがラトル時代に一気に評価を高めたことはもちろん知っていたけど、これほど上手いとは全く知らなかったので本当に驚いた。単に地方都市のオケとしては上手いとかいうのではなくて、完全に一流オケとしての上手さ。だからもちろん上手いのは冒頭だけではなくて、その後も自信満々の色男ドン・ファンを実に雄弁に描き出す。指揮のネルソンズも、大胆で巧みなテンポの伸び縮みを駆使して、音楽の勢いと表情の艶やかさを際立たせる。当然ながら続いて出てくる美女の描写も素晴らしく、グラマラスな金髪美女が、上品な振る舞いの中にふといたずらっぽい表情を見せたりして、どっちがどっちを誘惑しているんだか。オーケストラの音色も上質なイギリススタイルで、しっかりと厚くて芯の通った弦楽器と、素直に明るくまっすぐ伸びてくる管楽器、リズムの冴えた打楽器が絶妙に響き合う。あまりにも美女の描写が巧みで、何だかドン・ファンが美女のペースにはまっているようにさえ感じられたほどだった。
 遍歴を重ねて最後にドン・ファンのテーマが再び高らかに奏されるところでは音楽が本当に大きく盛り上がり、シュトラウスの意図やストーリーを越えて、ちょっと感動的な音楽になっていた。シュトラウスは上手いオーケストラで聴かないと面白味が半減すると思うけれど、今日の演奏は技術も内容も、なかなか滅多には聴けないような非常に立派なものだった。


 続いていよいよ五嶋みどりが登場。ちなみにウォルトンのヴァイオリン協奏曲というのは今まで一度も聴いたことがなく、直前にYoutubeで一度だけ通して聴いてみたくらい。いかにもイギリス音楽らしい、あか抜けない音楽という印象で、でも五嶋みどりが弾くならいい演奏が聴けるに違いない、という期待も大きかった。
 演奏が始まると、やはり彼女らしい素晴らしい集中力の音楽。力強さとしなやかさが冴え渡り、そこにイギリス音楽らしいくすんだメランコリーが濃厚に漂う。技術的な水準もいつもどおり驚異的に高く安定していて、音程やフレージングに乱れは一切なく、ピシッと完璧に筋の通った強い音楽。
 ただ正直な印象を言うと、やはり曲の魅力の乏しさが演奏の素晴らしさを損なっている部分が大きかったと思う。1楽章の速い中間部のほとばしるような集中力や、2楽章のシニカルな偽態とデリケートな沈鬱の交替などは見事だったけれど、かつて聴いたブルッフの協奏曲や、フランクのソナタのときのように、直接こちらの心を直撃して、そのままどこか遠くまで連れ去られてしまうような、そういう演奏ではなかった(そしてこれには、ホールが大きすぎたということも影響していると思う)。
 それでも、第3楽章の長いピアニッシモの音楽は本当に素晴らしかった。イギリスのロンドン以外を旅したことのある人なら分かると思うけれど、大都会ロンドンから電車で少し移動するだけで、その郊外には急に田園風景が広がる。むくむくとしたこぶ状の野原に羊や牛や馬が点在して、平和でのどかな風景がどこまでも広がる。でも晴れているときは美しいその風景も、雲が出て雨が降ったり霧が出たりしてくると、急に暗くて孤独と不安を感じさせるような風景に見えてくる。その後者のような音楽。
 それを弾く五嶋みどりの演奏はとても厳しいんだけれど、その厳しさは彼女自身に向けられたものであって、彼女がこちらの心の本当に奥深いところまで誠実に寄り添うための、自らを律する厳しさだった。だからその演奏には、ほの暗い憂愁の中にもとても暖かい共感と力強い励ましが込められていて、全く押し付けがましくないのに聴いているこちらには直接的にその優しさや前向きな気持ちが伝わってくる。僕はこの曲の良き理解者ではないけれど、この曲の演奏としては出色の出来であったことは間違いないと思う。彼女にはまた何度でもロンドンに来て、いろいろな曲を聴かせてほしい。
 彼女を支えるオーケストラもとても良くて、厳しく繊細なソロヴァイオリンを優しく支えるさまは、ソリストへの敬意と共感に満ちたすばらしいものだった。
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 休憩を挟んでプロコフィエフのアレクサンドル・ネフスキー。僕はこの曲を実演でも録音でも聴いたことがなく、この曲が合唱とメゾソプラノを伴ったカンタータだということも、今日会場に行って初めて知った。
 僕は元々プロコフィエフの音楽があまり得意ではなく、チューバの出番が極めて多い作曲家であるにもかかわらず好きになれなかった。それが変わったのは実は今年に入ってからで、ロイヤルバレエでシンデレラを何度も観てから、やっとその音楽の面白さを自然に理解できるようになった。今ではロメオとジュリエットの音楽も大好き。
 だからかなり期待して聴き始めたのだけれど、これが予想と全く違ってとても厳粛な音楽。もちろんカンタータだからふざけた音楽にはなりようもないんだけれど、プロコフィエフらしい飛び跳ねる旋律や大胆な和声はほとんどなく、実に深刻な表情で音楽が進んでいく。演奏も真摯かつ真っすぐで、この曲の良さを非常に真面目に誠実に描き出していっているように思えた。途中で音楽が非常に激しくなる部分もあったけれど、決して乱雑になることなく、絶対に崩れないアンサンブルと力強い音色が印象的だった。
 この日の合唱は残念ながら少し乱れが見られるところもあったけれど、メゾソプラノのナデージダ・セルデューク(と読むのかな?)の歌唱は素晴らしかった。終わりの方の一曲だけしか出番がなかったけれど、深い声と正確な音程、そして豊かな情感の三拍子揃った見事なものだった。
 初めて聴く音楽ではあったけれど、とても誠実な音楽作りにとても好感が持てた。


 ここまでで充分に一回の演奏会として成り立つボリュームだったけれど、このあと更にサロメの7枚のヴェールの踊り。今までの演奏から、この曲の演奏も素晴らしいものになることは疑わなかったけれど、予想通り伸縮自在で、力強さと豊かな歌心に満ちた演奏。ネルソンズの指揮はとても情熱的で、きれいな棒を振るというよりも、彼が自分の中にいっぱいに持っている音楽を、少しでも人に伝えようとあらん限りの手段を使って必死に表現しようとしているような振り方をする。見ていると漫画のように大げさに体を動かしながら、譜面台を乗り越えて奏者に触れんばかりに身を乗り出したり、ぐっと腰を屈めて溜めを作ったりと、客席から見ていても、そこから止めどなく表現が溢れ出てくる。
 こんな指揮をされたらオーケストラも頑張らないわけにはいかなくて、優れた技術を駆使してネルソンズの指揮を素晴らしい音に変えていく。芸術観が変わるような衝撃を持った演奏ではなかったけれど、さっきのプロコフィエフのときのように素直に楽譜に反応した素直な演奏で、これも好感が持てた。最後は一気にテンポを上げて、一気呵成に締めくくった。


 とにかく長くてボリュームたっぷりだった今日の演奏会、内容も素晴らしい演奏をたっぷりと聴かせてもらって、大満足だった。
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by voyager2art | 2011-07-31 09:53 | オーケストラ


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