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たっぷりシューベルト/ニコライ・デミデンコ ピアノリサイタル

 久しぶりのウィグモアホールで、ニコライ・デミデンコのピアノリサイタル。オールシューベルトのプログラムで、シューベルト好きの僕は安いチケットが残っているのを今日になって見つけてすぐ買った。

Nikolai Demidenko (Piano)

Franz Schubert

Four Impromptus, D899
Tree Piano Pieces, D946
(interval)
Sonata in C minor, D958

23rd Jan, 2012 (Mon) 19:30 -
Wigmore hall, London



 最初の即興曲集は有名な音楽が並んだもの。一曲目は焦燥感に満ちた出だしの曲だけれど、指慣らしだったのかやや慎重な演奏。全体的に、対位法も冴えているというよりは丁寧で、音色も高音を控え目にして中音域を中心に堅実に音楽を作る感じ。
 二曲目の、恐らくシューベルトの音楽の中でも特に有名な即興曲になると、音色の冴えが出てきた。右手の無窮動的な三連符の歌い口が、節度がありながらも表情豊かによく流れ、ピアノの高音域の明るく澄んだ音色と相俟ってたまらなく美しい。中間部のドラマティックな音楽も過度に感情的にならず、過不足のない見事な演奏。最後のコーダで転調が続くあたりはシューベルト独特の深い不気味さを帯びて、素晴らしい演奏だった。

 でも恐らく、この即興曲集の中で際立って良かったのは続く第三曲目だろうとおもう。春の小川とでも形容すべき、この上なく無垢で美しい旋律が、いつまでも優しく穏やかに流れ続ける。伴奏のアルペジオは水の流れが岩に当たった飛沫のように快く輝き、美しい川の流れに豊かな彩りを添える。いつまでもこの風景の中に佇み、この美しい世界に浸っていたい。
 しかしこの風景は、現実に存在する世界ではなく、シューベルトの心の中に大切にしまい込まれた、美しい過去の追憶でしかない。現実は追憶を脅かすように苦しく重くのしかかり、そのたびに小川の風景には影が差す。でも、現実が苦しければ苦しいだけ、この追憶の風景はますます美しい輝きを増していく。そして、心の中をいつまでも絶えることのなく小川の水が流れ続ける。

 最後の第四曲目は、鬼火のようにちらちらと煌めく音型で始まる。転調を繰り返しながら鬼火は彩りを様々に変化させ、聴き手を幻惑する。やがて中音域に美しい旋律が現れて、優雅に大輪の花を咲かせたかと思うと、馥郁とした薫りがさっと世界を満たす。鬼火と思ったものは今はその花の周囲をきらきらと美しく飾り、夢と現の狭間をさまよう境地に聴き手を連れ去る。
 この曲の中間部は、先の曲の春の小川に通じるような、追憶に傾斜した世界が広がる。でもここで聴こえてくるのは、マーラーの晩年の音楽のような彼岸への彷徨ではなく、心の内側に向かうシューベルトの孤独な足跡だ。その向かう先には、底なしの狂気がある。

 全体として、非常に情感の豊かな歌い口と、聴き手の心を引き込む力の強い表現力が印象的だった。

 続いて三つのピアノ小品。一曲目はめまぐるしく変わる調性の中で変化する音色の多彩さが冴えていたけれど、特に印象に残ったのは中間部。ここで、長い音階を一度上がってそのまままた降りてくるところがある。ここの音色が絶妙で、淡いタッチで音が鍵盤からふわりと浮かび上がり、かぐわしく美しい色を残して空気の中に溶けて消えていく。はっとするほど鮮やかな音色のコントロールだった。
 続く二曲目の、素朴な旋律と内面の深いところの逍遥との対比も良かったけれど、続く三曲目はスケルツォ的な音楽と、それに挟まれた精妙な中間部の対比が実に良かった。この中間部の音楽は最初静かに祈るように歌われ、その繊細な和声の移ろいと、ピアノの音色のかすれたような、でもこの上なく豊かに心に沁み入ってくる色合いが素晴らしい。やがてこの音楽は執拗な繰り返しの果てにぐっと力を得てきて、まるでベートーヴェンの晩年の音楽のように、孤高の孤独の先の究極の自由の飛翔に至る。

 正直な感想を言うと、この前半のプログラムだけで既にかなりお腹いっぱいというくらい充実した音楽を聴いた気がした。休憩後に演奏されるソナタは、シューベルトの数あるソナタの中でも特に充実した音楽の一つ。もちろん僕も大好きな曲だけれど、果たして僕の集中力が持つか。

 でもそんな心配は杞憂だった。デミデンコのピアノは更に表現力を増して、素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
 ソナタの1楽章はやや遅めのテンポでしっかり、がっちりと始まった。強く引き締まった演奏で、いい意味で落ち着きがあり、しっかりと地面に足を着けて豊かな響きを積み上げる。それが一転、第二主題に入ると、丁寧に繊細に、しっとりとした歌を歌い上げる。特にこの第二主題の提示のときに、鐘の音のように重なってくる音を、彼は際立ったアタックとアクセントを付けて澄んだ音で響かせる。これが旋律のやさしい響きと重なって心が洗われるような美しさだった。
展開部では、ぐるぐると回り続けるようなアルペジオを背景に、虚ろに旋律が響くところがある。ここはこの楽章の中でも僕が特に好きなところ、と言って不適切なら僕が最も注意して聴くところで、何か理性の底が抜けて心の奥の虚無に落ちていくような、底なしの不安を感じさせるところだ。でも今日の演奏では、デミデンコはここをかなりしっかりと弾いた。まるで理性が崩壊しそうになるのを、強靭極まりない意志でぐっと踏み止まっているようだった。何か物足りないような気もするけれど、恐らく「健全な」精神を保とうとするとこういう演奏になるのだろうと思う。ただ、シューベルトの音楽で健全さを保つことが果たして正しいアプローチだろうかとも思う。往年のケンプやリヒテルのように、一気に狂気の世界に突き進む演奏の方が、どっぷりとシューベルトの世界に浸ることができて僕は好きなのだけれど。そう言えばここまでの演奏全て、デミデンコはシューベルトの狂気の片鱗を予感させながらも、そこにはまり込むのを巧みに避けていた。彼に狂気を避けさせたのは、彼の強靭な真面目さの現れであり、一方で彼は自身の音楽的な誠実さによって、シューベルトの狂気のすぐそばまで近寄らずにはいられなかった。彼はこの先、次の一歩を踏み出すだろうか。踏み出せば、そこには異次元の暗くて広い世界がある。でもそこに入れば、彼自身が己の狂気と正面切って向き合うことにもなる。僕は何となく、彼が将来も「こちら側」の世界に留まり続けるような印象を持った。

 とは言っても、彼の演奏自体の音楽的な内容は本当に深かった。第二楽章は特に吸引力の強い演奏で、素朴な主題が続いた後に次第に自分の心の中の深いところに沈潜していくあたりから、僕自身が自分の中に入り込んでしまい、意識と無意識の間を彷徨うような精神状態になってしまった。気がつくとこの楽章の大半が終わり、ふと素朴な旋律が戻ってきたところだった。
 第三楽章では速めのテンポ設定がやや仇になってしまったかもしれない。技術的な乱れが出て、ピアニスト自身がそのために集中力を失いかけているように思えた。それでもピアニシモからフォルティシモまでの響きのコントロールはとても良かったし、特にトリオは寂寥感に満ちたいい演奏だった。
 この技術的な乱れは最後の第四楽章でも見られたけど、デミデンコ自身は集中力を取り戻したようで、音の圧力が増し、音楽の表現が更に一回り大きくなったような印象を受けた。この楽章は音楽が舞曲のように跳ねるリズムに乗ってどんどん進んでいくのだけれど、最初は陽気な踊りが始まるかのような導入でありながら、それが次第に白熱し、シューベルトらしく和声が長調と短調を行きつ戻りつする。それに伴って音楽も踊りの場の狂乱と自身の内面の切迫した亢進がくるくると切り替わるけれど、そのあまりの切り替わりの速さにも関わらず、音楽の流れは一貫して途切れることがない。ここには踊りの興奮と、それに敏感に反応する内面の心理をしっかりと見据える、シューベルトの揺るぎない視線がある。その認識を投影する精神の空間は広大で、シューベルトの内的世界の広さ奥深さに圧倒される思いだった。
 全体として、シューベルトの音楽に真正面から取り組んだ、実に聴きごたえのある素晴らしい演奏だった。

 アンコールは二曲。一曲目は僕の知らない曲で、出だしの雰囲気からラフマニノフかスクリャービンであろうと思ったけれど、その後の音楽が近代的な和声に満ちていたので、恐らくスクリャービンかそれ以降の作曲家の作品だろうと思う。それまでの生真面目で強い意志の力を感じさせるシューベルトとは打って変わって、まさにロシアの血が騒ぐような豪壮で雄弁な演奏。デミデンコのテクニックは、シューベルトよりロシア音楽の方に遥かに向いている。完全にネイティブの演奏で、これはこれで非常に面白かったけれど、こればかりの演奏会というのも疲れるだろうと思う。

 二曲目はショパンのレント・コン・グラン・エスプレッシオーネ(ノクターン集の最後によく入っている遺作の曲)。この人はやはりロシア音楽とそれ以外で演奏スタイルががらりと変わるのだろうか。シューベルトと同じように、何かを意志の力で押さえつけたような、禁欲的な演奏に戻っていた。

 今日の演奏会では特筆すべき点がもう一つ。デミデンコは今日、ファツィオリ(Fazioli)のピアノを使った。最近ファツィオリの名前はよく聞いていたので気になっていたけど、今まで実演で使われるのに接したことがなかった。実際に聴いてみて、僕はその音色の香りのある艶やかさと驚くほどの多彩さに魅了された。特に弱音ペダルを使った時の幻想的な音色の美しさはたまらない。デミデンコもそれを分かって、濫用はしないけれどここというところで音色をぐっと変えてくる。ピアノ自体の魅力も存分に楽しめた一夜だった。
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by voyager2art | 2012-01-24 09:12 | ピアノ

夢と輝く豊穣/マウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル

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 今年ロンドンで5回にわたってリサイタルが行われるポリーニプロジェクト。今日は、本来は最終回として予定されていた演奏会だけれど、先月末の演奏会はポリーニが悪性の感冒に罹って6月に延期されたため、実質的には4回目のリサイタル。シュトックハウゼンとシューマン、ショパンというプログラム。最近のポリーニは不安定さが目立つ演奏が続いていたためか、客席には空席も目立った演奏会だったけれど、蓋を開けてみればとても信じられないような、奇跡的と言ってもいいくらい素晴らしい演奏会で、ポリーニのファンを長く続けてきて良かったと心底から思える一夜だった。


Maurizio Pollini Piano Recital

Karlheinz Shockhausen:
Klaviestücke VII
Klaviestücke IX

Robert Schumann:
Concert sans orchestra (first published version of Sonata No.3 in F minor Op.14)

(Interval)

Fryderyk Chopin:
Prélude in C sharp minor Op.45
Barcarolle in F sharp Op.60
Ballade No.4 in F minor Op.52
Berceuse in D flat Op.57
Scherzo No.2 in B flat Op.31


 最初のシュトックハウゼンは、僕にとっては全く未知の作曲家。どんな音楽が出てくるのかと思ったら、音と音のあいだの間(ま)の多い、日本人には非常に聴きやすい東洋的な感性の音楽で、まるで武満徹の音楽でも聴いているかのよう。ペダルを踏んで打鍵した後にペダルを浅くして響きを半分止めるような現代奏法も用いながら、ぴんと張り詰めた有機的な緊密さと、極めて個人的な親密さの同居した純度の高い音楽が続く。僕はこういう音楽を聴くと、日本の寺の庭を思い浮かべずにはいられない。雨の日の参詣者のいない境内で、庭に向かい合った縁側にひとり佇む、そんなイメージ。がちがちの論理の帰結としての作品ではなく、それでいて冴えた感性に裏打ちされつつも感覚に流されるでもなく、素晴らしい緊張感に満たされた透明な世界が描き出されていた。

 続く作品は、強い不協和音を延々と連打し続けることから始まる音楽。長い時間をかけて音が弱まり、何かのエピソードの兆しが僅かに見えたと思ったら、また不協和音の連打が続く。この連打は感性の自由な飛翔などとは全く無縁で、強靭な規律意識に支えられたかのような印象。僕は読経か何かの場で、修行として延々と鐘を打ち続けているようなイメージを持った。ここでもやはり音楽は東洋、それも日本の寺の厳しい空気を思い起こさせる。しばらくこの鐘の音が続いた後に、ようやく音楽は発展を始める。正直に言うと後の演奏がすごかったので詳細はもうだいぶ忘れてしまったのだけれど、目の前の空気が一瞬で凍り付いたかとおもうと、それが次第に緩んで大気の中に溶けていくような音楽が流れたりして、非常に面白い。白眉はこの曲の最後で、まるでポリーニのピアノの音が目の前で光の粒になって結晶し、きらきらと硬質に輝く無数の粒子が空気の中を舞い続けているような音楽。溜め息が出るほどきれい。

 僕はシュトックハウゼンの最初の曲の冒頭のいくつかの音を聴いたときに、最近のベートーヴェンやシューベルトの演奏会の冒頭では全く感じられなかった冴え渡る意思の力をはっきりと感じ、今日のポリーニが絶好調であることを直感的に確信した。続くシューマンのソナタは、演奏頻度は非常に低いものの僕は大好きな曲で、これを素晴らしい演奏で聴けるに違いないと大いに期待した。
 ところがソナタの演奏が始まってみると、さっきまで目の前でシュトックハウゼンを弾いていたのと同じ人かと思うほど、ひ弱な音楽が聴こえてきた。シューマンのこのソナタは力強い下降音階の主題で始まり、そこに鮮やかな分散和音がかぶさってくる、非常に演奏効果の高い曲。なのに、ポリーニの演奏ではその主題が弱々しく、続く分散和音も音がボロボロ抜けて、最近続いていた不安定さがまた今日も現れたのかと落胆せずにはいられなかった。

 ただ、ここから一体ポリーニに何が起こったのか、僕には本当に分からない。ソナタの提示部が終わり、展開部に入ったあたりから、俄然演奏が安定してきた。演奏が進むにつれて音楽の緊張度が増し、驚くような勢いで調子が上がってくる。再現部に入った頃にはポリーニらしい強く白熱する音楽が演奏を貫いて、ものすごい圧力で聴いているこちらに突き進んでくる。
 やっぱり今日のポリーニはすごいのだ、と改めて確信したところで始まった2楽章。この楽章は暗くて重い楽想の主題に基づく変奏曲なのだけれど、ここでのポリーニの演奏はシューマンの音楽の暗い側面をとてつもない説得力で描き出した。遅いテンポの旋律の向こう側には、シューマンの粘度の高い執拗な情熱とどす黒い野心が底流し、やがてそれが熱く沸騰して暗くて重い蒸気となって音楽の表面に噴き上がる。しかもそれでいながら、シューマンの音楽は払っても払ってもまとわりつくような濃厚なロマンティシズムに満たされている。究極的にはシューマンはやはりロマン派の作曲家であって、それゆえに聴き手である僕は、嫌悪感とともに彼の音楽をいやいや直視するのではなく、共感をもって彼の音楽にどっぷりと浸ることになる。
 続く終楽章は、シューマンの書いた音楽の中でも指折りの名曲だと僕は思っていて、ポリーニの演奏もまたその音楽の内容を余すところなく表現し尽くす。強い色、優しい色、淡い色、きつい隈取りをされた色、明るい色、暗い色。非常に速いテンポの演奏で、無限の色彩がめまぐるしく変化しながら、シューマンの錯綜した心理の綾が鮮やかに弾き分けられる。

 この演奏の説得力は、やはりポリーニが現代音楽をずっと弾き続けてきたことと大いに関係があると僕は思う。さまざまな語法で、さまざまな表現方法の限界を破ろうとする現代音楽に親しんできたポリーニには、ある音楽の表現をどこまで突き詰めると何がどれだけ広がり、その音楽が破綻する限界がどこにあるのか、そういうことが明確に見えているのではないか。だからこのシューマンの演奏のように、彼は人間の心の底のどす黒さをロマン派の音楽としての秩序が失われる寸前まで深く描き切り、他の人には真似のできないスケールで様式と内容のバランスを両立させているように僕には思える。
 彼の演奏技術は確かに昔に比べたら衰えたし、最近の彼は明らかにフォルティシモの音量が小さくなってきている。しかし音楽の表現の深さは一段も二段も深さを増しているようで、以前のように調子が良くなってくると音楽が巨大に膨らんでいくということがなくなったかわりに、音楽の人間的な厚みと深みが格段に自由度を増してきているような気がする。


 ここまでの演奏だけでもう帰れと言われても充分に満足できる素晴らしい演奏だったけれど、休憩の後のショパンはある方向の究極に達していたと言ってもいいほどの、さらに素晴らしい演奏だった。

 最初の嬰ハ短調の前奏曲は神秘的な美しさを湛えた音楽だけれど、ポリーニは殊更にその神秘性を強調しようとはしない。むしろかなりあっさりとした弾き方で、テンポも速く、音量も大きめに弾く。ところがそこから立ち昇ってくる音楽は、まさにこの曲に聴き手が求める神秘性を完全に備えていて、まるで暗い洞窟の上部の岩の割れ目からすっと細い光の筋が何本か差し込むような、透き通っていてしかも色合いの深くて豊かな、そういう音楽になる。この曲の最後の短いカデンツァのあとは、あっさりを通り越して素っ気ないような弾き方なのに、そこにも揺るぎない詩情が現れるのは、恐らく絶妙にコントロールされたアクセントや音色の結果に違いない。聴こえる印象よりも強く、彼は旋律の一部を強調したり、伴奏の特定の音にアクセントを入れている。


 この前奏曲も素晴らしかったけれど、続く舟歌からはさらに一段、音楽の純度と自由度が上がり、世界が広がる。シューマンのときと同じように強音に頼らない音楽作りをしているため、演奏全体が実に柔らかくバランスの取れた響きになる。しかも低音から高音まで美しい音で響いているので、全体としての響きの充実は完璧で、聴いていると演奏に黄金色の光が射して音楽全体がこの上なく明るく輝く。音楽自体の角も取れていて、昔のポリーニならどんな難所でもインテンポでバリバリと弾き切っていたところを、今はわずかにテンポを落として弾いたりするので、全く無理なく力みもなく、実に自然に音楽が流れるようになる。
 そして同時に非常に不思議なのが、先の前奏曲でもそうだったように、決して効果を狙った弾き方をしないにもかかわらず、音楽がその持てる魅力を完全に華開かせるところ。音楽が盛り上がるところで大抵のピアニストがテンポを落とすようなところでも、ポリーニは逆にテンポを上げることが多い。そしてそれがごく自然に音楽の高揚につながり、全く人工的なにおいを立てずに音楽のたゆまぬ流れを作り出す。僕はピアノがこれほど豊かに弾かれるのを聴いたことがないし、ショパンがこれほど豊かに演奏されるのも聴いたことがない。自然で、明るくて、柔らかいけど冴えていて、何か現身(うつしみ)の世とは無縁の明澄で豊穣な理想郷に遊ぶような、夢に浸っているような感覚に沈んでいった。

 ポリーニはどうやら新しい音楽の地平にたどり着いたらしい。あとの曲もどれも満ち足りていて、僕の夢想は途切れることなくポリーニの音楽の世界を漂い続ける。もう、一つ一つの曲についてこれ以上書く事は何もない。他の曲に比べると若い頃に書かれたスケルツォの2番でさえ、同じ黄金色に輝いて、豊かに流れる歌になる。これを究極と言わず他に何と呼べばいいのか、僕にはわからない。


 アンコールは二曲。作品27-2のノクターン(変ニ長調)と、革命のエチュード。革命のエチュードですら、遠い彼岸から聞こえてくるような、魂を別の世界にそのまま運び去られるような音楽になっていた。

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by voyager2art | 2011-05-26 09:09 | ピアノ

表と裏と/マレイ・ペライア ピアノリサイタル

 最近バレエばっかり観に行っているのでコンサートは久しぶり。今日はペライアのピアノリサイタル。
 ペライアという人はもちろん名前はずっと前から知っていたし、CDも一枚だけど持っている。だけど今まで注意して聴いたことのないピアニストでもあって、どんな人?と訊かれても明確に答えられるだけの印象は持っていなかった。今日のコンサートは、直前になって安いリターンチケットが出ているのを見つけたので、一度ちゃんと聴いてみようと行ってみることにした。


J.S.Bach: French Suite No.5, BWV816
Beethoven: Piano Sonata No.27, Op.90
Brahms: Four Piano Pieces, Op.119
(Interval)
Schumann: Kinderszenen, Op.15
Chopin: Prelude, Op.28 No.8
Chopin: Mazurka, Op.30 No.4
Chopin: Scherzo No.3, Op.39

Murray Perahia (Piano)

30th/March/2011 (Wed) 19:30 -
Barbican Centre, London



 最初のバッハは非常に素直な歌い口で始まった。殊更にチェンバロ奏法に似せようとするわけでもなく、ペダルも普通に使う。でも現代ピアノだからとダイナミックに弾くのでもなく、極めて中庸を保った演奏。中庸と言っても音楽はよく歌うし、控え目ながら明瞭なルバートも使うので、退屈な演奏ではない。対位法よりは全体的な響きのバランスと充実に傾斜した演奏で、立派で良識のあるバッハ。グールドの超絶的な詩味やグルダの極度に明晰な知性が生み出す凄みはないけれど、柔和さと鮮やかさが落ち着いて同居している演奏だった。
 ちなみに対位法に重きを置いた表現ではないとはいえ、主旋律を静かに弾きつつペライアは伴奏(もちろん対位法的に書かれているけれど)にかなり強めの表現意欲を乗せる。そのため、ただサラサラと流れるだけではない、独特の力強い空気も生じてくる。特に音の薄いサラバンドでそれが強く感じられた。

 このバッハの演奏は、コンサートの導入としてはなかなかいい演奏だと思ったけれど、次のベートーヴェンから、僕にとっては色々と考えさせられる演奏が始まった。

 ベートーヴェンの27番のソナタは演奏される機会の少ない曲だと思うけれど、ベートーヴェンが中期を経て後期に移行する時期の、極めて充実した音楽。この音楽のペライアの演奏は、しかし僕にはどうしても馴染めないものだった。
 まず第1楽章は、非常にルバートの多い情緒的な演奏で、情緒的ということ自体は悪くないのかもしれないけれど、とにかくルバートが度を過ぎていて音楽の流れがあちこちで寸断されてしまう。ペライアはこの音楽のドラマティックな面を強調したかったのかなと思うけれど、とても成功していたようには思えない。一つ一つのフレーズはよく歌うし、指もよく回っている。楽器の響きのコントロールも冴えていて、特に低音が濁らずによく響いていたのは印象的だった。でも、音楽としては彼が何を目指していたのか僕には分からなかった。
 続く第2楽章もよく歌っていて響きもきれいだし、そういう点では文句の付けようはない演奏だったけれど、その一歩先がない。僕はこの楽章に、ベートーヴェン後期の音楽を見る。他に誰もいない広大な空をひとりで思うままに飛翔するような、孤独の先の究極の自由を僕は後期のベートーヴェンのピアノソナタから感じるんだけれど、一方のペライアの演奏はしっかりと日常に軸足を置いたような音楽。想像力の飛翔が僕には感じられない。

 この楽章の演奏あたりから、僕はペライアの演奏に強烈な違和感を覚えはじめた。僕は音楽に精神の豊かな飛躍や、凄みや妖しさのある煌めきを強く求める。一方のペライアの音楽は絶対にそういう方向に進まない。これは彼がそういう方向に一歩を踏み出すのを恐れているからではなくて、むしろ彼自身が人としての良識や健全さを、積極的に強く志向しているからだという印象を持った。彼自身も素晴らしい人格者であるのは間違いないと思う。早い話が、僕はペライアとは全く異なるタイプの人間で、ベクトルが完全に逆方向の音楽的嗜好を持っているということだ。

 このことは続くブラームスの演奏でも顕著で、晩年のブラームス特有の、渋い苦みの底に沈殿して、孤独の中に閉じこもって自分だけの秘密の場所で苦い甘美さに浸る、という演奏ではない。普通の人が、灰色の雨の日に憂愁に襲われるというくらいの音楽しか聴こえてこない。
 誤解のないように付け加えておくと、ピアノを演奏するという観点から見ると彼の演奏は非常に高い水準にあった。特にブラームスの4曲目、分厚い和音の速い進行や響きの頻繁な転換など、技術的に難易度の高いこの曲を、彼は見事に演奏していた。ここで僕が問題にしているのは、あくまでも音楽の好みの話だ。


 休憩の後はシューマンの子どもの情景。この曲集を彼は、子ども向けのフェアリーテールのように弾いた。純真無垢な、平和で愛らしい演奏。こう書くととてもいい演奏だったと思われるかもしれないけれど、僕にはシューマンがそんな音楽を意図していなかったと確信に近い印象を持っている。
 そもそもシューマンの音楽には複雑な陰がある。それは彼の書いた譜面を見れば分かることで、錯綜した対位法やエキセントリックなリズムが、シューマンの暗く歪んだコンプレックスを表している。一見純情そうに聴こえる子どもの情景にしても同じことで、僕はこの曲集は子ども向けに書かれた音楽ではなくて、大人が苦い思いを胸の奥に抱きながら回想する自身の子ども時代や、あるいは子どもが明確に意識したわけではなく発する言葉に純真ゆえの鋭い観察が含まれ、それに周囲の大人がどきっとさせられるような情景などを描いたものだと思う。現実と回想の狭間の、どうしようもなく埋め難い亀裂が暗くのぞく音楽で、この亀裂は曲集の随所に顔を出し、あのトロイメライさえその影からは逃れられない。それが最も象徴的に現れるのがこの曲集の最後の「詩人は語る」のカデンツァで、この部分の異様な緊張感(あるいは危機感)はただごとではないし、ましてや決して子ども向けではない。
 でもペライアはこの音楽のそういう側面とは完全に無縁の演奏をした。僕の違和感はここで頂点に達して、本質的に重要な心理を完全に無視され、切り落とされてしまったような反発を強く感じた。これは、こんな音楽では絶対にないはずだ。


 最後はショパンを3曲。この選曲の意図は僕にはよくわからない。今日のプログラム全体は、非常に上手く構成されていて、バッハからショパンまでの距離を、見事な作曲家の選択でうまく埋めたと思う。でも、なぜ最後のショパンでこの選曲なんだろう。
 何はともあれ、最初は前奏曲の8番。ショパンの前奏曲集の中では技術的も難しい曲だし、僕の好きな曲でもあるけれど、ペライアの演奏は僕がこの曲に抱いているよりもずっと大人しくて、情熱の抜け殻のよう。他の曲と同様、音楽はよく歌っているけれど、演奏のツボがどこにあるのか僕にはよく見えない。
 続くマズルカは、今日のコンサートの中では一番いい演奏だったと思う。楽想と響きの多彩な変化が素直に表現されて、ショパンの憂愁が率直に出ていた。ただ、僕自身の好みを言えば、和声が半音で下がっていくところなどをもっとうまく隈取りすれば、ぞっとする深さが出ただろうに思う。

 最後のスケルツォはやや乱暴な演奏になってしまった。この曲はキラキラと輝き降りてくるような装飾句がとても印象的だけれど、これはあくまでも装飾であって、音楽の本体は下に流れるコラールだ。でもペライアは明らかに装飾句に重点を置き、コラールはおまけのような弾き方だった。音楽全体の構成も甘く、譜面に従って弾きながら、その場その場の感情に従って次第にフォルテが強まる、という感じ。技術的にも乱れが出て、曲の構成をコントロールできずにむしろ曲にコントロールされてしまっているという印象を受けた。


 アンコールはシューベルトの有名な即興曲。この作曲家が聴かせる精神の深い淵は素通りし、ピアニスティックには見事だったけど、僕にとってシューベルトを聴く醍醐味が完全に失われた演奏だった。


 誤解のないように最後にもう一度繰り返すけれど、ペライアのピアノ演奏自体はかなり水準の高いものだった。音楽的な内容についても、こういう正統派の演奏を好む人は少なからずいると思う。実際、終演後のお客さんの反応も良かった。僕の音楽の好みが、ペライアの音楽とは完全に反対の方向を向いていたというだけだ。
 でもこの志向の違いは僕には深刻だった。僕は普段、コンサートのあとの帰り道で音楽を聴くことはない。このブログの記事を書くために、演奏の印象が薄れないようにしたいから。でも今日だけは違った。余りにも自分と違いすぎる音楽に耐えられず、自分の精神が異常をきたしてしまうのではないかと思うほどのストレスを感じた。砂漠を彷徨った人がオアシスで必死に水を飲むように、帰りの地下鉄で僕はヴィルヘルム・ケンプの弾くシューマンの子どもの情景を必死に聴いた。この演奏には子どもと大人の世界の深刻な溝が余すところなく描き出されている。これを聴いて僕はようやく精神の平衡を取り戻した。
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by voyager2art | 2011-03-31 08:40 | ピアノ

ピアノのグレート/マウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル

 ポリーニ・プロジェクトの第三弾はシューベルトの最後のピアノソナタを3曲。シューベルトの音楽の中でも極めつけに美しくて大好きな曲で、随分前から入念に予習をして(時間の許す限りだけど)、楽しみにしていた演奏会。

Maurizio Pollini (Piano)

Franz Schubert:
Piano Sonata No.19 in C minor, D.958
Piano Sonata No.20 in A major, D.959
(Interval)
Piano Sonata No.21 in B flat major, D.960

26/Feb/2011(Sat) 19:30 -
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London


 最初のハ短調のソナタは随分速めのテンポで開始。ベートーヴェンのように強い音楽。第2主題もピアノではあるけど粘らない弾き方で、ポリーニらしい実に硬派な演奏。ただ、第2主題で何度か現れる、クレッシェンドを掛けておいて突然ピアニシモに落とす部分を、ポリーニは音量を落とすだけでなく、一瞬の間をあけてからふわっと柔らかい音で弾く。これが何とも言えず美しく、急にホール全体の空気の色合いがすっと変わるような感じでぞくっとする。
 ただしその後の展開部で、暗闇の底が抜けるような不安が漂う部分は響きが濁って音の動きが明瞭に聴こえず、テンポも極めて不安定に揺れた(意図的ではなかったように思う)ので、シューベルトの意図した充分な効果があがっていないように感じた。

 第2楽章もかなり速いテンポで、繊細な和声の変化をやさしく聴かせる演奏ではなく、もっとその奥に潜む強い意志の流れに焦点を当てた演奏。これも極めてポリーニらしい。僕はケンプの弾く、静かで豊かな詩情に満ちた演奏が好きで、ずっとそればかり聴いていたので、ポリーニで聴くとこの曲はこんなに強い音楽だったのかという感じ。
 こうなると当然第3楽章、第4楽章も速い。速く弾くことによって繊細な表情は失われ、聴こえなくなるかわりに、例えば3楽章のトリオのように、ふと暗転する和声の上の旋律が非常に明瞭ですっきりした歌として浮き上がってくる部分もある。4楽章の主旋律でもリズミカルな主題を単音で弾く右手に、ふと和音が入るところなどの響きの変化は素晴らしく、この部分の和声の繊細な変化も際立ってとてもきれい。
 ただ、このソナタ全体を通してミスタッチがやや多く、ポリーニ自身の意図する音楽を少し損なっていたように思う。


 続くイ長調のソナタからは、ポリーニの調子も一気に上がってきた。相変わらずの快速テンポでぐんぐん突き進む。ハ短調のソナタで特に濁りが気になった中低音もよく響き始めて、対位法的な旋律の扱いも響きが充実してくる。中間部の鈴の鳴るような伴奏に乗って軽やかな旋律が走る部分は、ここでもやはり繊細さを聴かせるより力強い推進力に傾斜した表現。こういう演奏をするときのポリーニは調子がいい証拠。一気にこの楽章を弾き切る。
 第2楽章は言うまでもなく、シューベルトのピアノソナタの中でも特に強烈な印象を残す音楽で、初めてこの曲を聴いたときは、ぞっとするような魂の暗い深淵に言葉には表せないような衝撃を受けた。罪のない単純な舟歌から始まって、気がついたら世界がどんどん歪んでいって見るもおぞましい狂気の幻覚に叩き込まれるような、そんな音楽。

 ポリーニはこの舟歌をとてもシンプルに弾くんだけど、途中のフォルテピアノ(fp)を相当強く弾く。素朴な旋律の中でこれが際立って強く深く響くので、まるでこの先に起こることの不吉な前触れのように心に不安な引っ掛かりを残す。
 そしていよいよ中間部。ポリーニはいつものように一気に最短距離で音楽の核心部分に迫っていく。ポリーニにとっては世界が歪むとか狂気の淵とか、そういう感傷すら邪念であるらしく、心の底にある何かを表現したいと思うから、そこに向かって何の躊躇いもなく突き進むという印象だった。響きもどんどん充実してきて、ベルリンフィルがそうだったように、ピアノからフォルテまで多彩な音色で変幻自在。何かに怯える心の叫びではなく、強い意志の力で厳しく人の心理の奥底を描き切ろうとしているように僕には感じられ、その凄まじい迫力に圧倒された。

 続くスケルツォはまた速い。もう誰にも止められないような圧力でポリーニの音楽が進んでいく。続く終楽章はもう圧巻で、ピアノソナタではなく交響曲のグレートを聴いているような規模の演奏。音楽はどんどん巨大に膨らんでいき、音色のコントロールも冴え渡る。極めて厳しいけれど、一方でこの上なく豊かな歌が壮大な大伽藍となって聴くものを圧倒する。コーダのゲネラルパウゼ的な静寂の繰り返しが緊張感を高めた後、ものすごい勢いのプレストで輝かしくこの曲を弾き終えた。

 この曲からこんなに巨大な音楽を聴くことになるとは考えたこともなかった。圧倒された。


 休憩を挟んで最後のソナタ。これも速めのテンポではあるけれど、イ長調のソナタに比べると厳しさが少し減って、歌の豊かさに重点を置いた演奏だった。でもポリーニらしいのは、そこで綿々と情緒に訴える演奏をするのではなく、極めて明晰な歌になっている点。そもそもポリーニという人は音で心理や風景を具体的に描写するということをしない人で、どんな音楽でも極度に抽象的で純度の高い演奏をする。シューベルトを弾くときでもそれは変わらず、山の風景や野の花を描く訳でもなければ、それらをみて揺れ動く心象風景を描くわけでもない。明るく透き通った一本の揺るぎない歌の流れが音楽を貫いている。特に第2主題の、左手の旋律の上に右手で対旋律と和声を添える部分の透明な美しさは言葉に尽くし難い。

 2楽章は簡素ながら切実な歌で、実は弾いてみると響きのバランスの整え方がとても難しい曲。でもここでのポリーニは歌の豊かさと響きのコントロールの見事さが素晴らしい。音楽が内側から充実して、絶え間なく外側に溢れ出てくる。シューベルト以外の誰にも書けなかった、心に沁みる和声の絶妙の変化を、ポリーニは殊更に強調することなしに、しかしその魅力を余すことなく歌い切る。音楽のあまりの豊かさに自分が溶けてなくなってしまいそうになる。

 その後はあっという間に鮮やかに弾き切ったスケルツォに続いて、終楽章。もうポリーニの音楽は誰にも止められず、明るく抜け切った明晰な抽象の世界に遊ぶ。フォルテもピアノも豊かに響き、全ての音が純度の高い歌となって音楽を満たす。演奏の細部がどうだったかというのはもう僕の頭にはほとんど残らず、白くて明るい光の中に心地良く佇んで、この上なく美しい音楽に聴き惚れていたという感じ。力みもなければわざとらしい演出もなく、澄み切った歌にいつまでも浸っていた。


 今日のポリーニは本当に良かった。特にイ長調のソナタと変ロ長調のソナタは素晴らしかった。僕の個人的な好みで言えば、ベートーヴェンのような壮大で強靭な音楽作りよりも、親密で繊細な演奏の方が好みだけれど、そういう好み云々を超えて圧倒する説得力があった。
 ポリーニ本人も今日の演奏には満足だったようで、終演後の笑顔が晴れやかだったのが印象的だった。
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by voyager2art | 2011-02-27 10:00 | ピアノ

一から出直し/マウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル

 先日のバッハに続いて、ポリーニによるベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタを聴いた。5回シリーズのポリーニプロジェクトの、2回目の演奏会。


Ludwig van Beethoven:
Piano Sonata No.30 in E, Op.109
Piano Sonata No.31 in A flat, Op.110
Piano Sonata No.32 in C minor, Op.111
(No Interval)

Maurizio Pollini (Piano)

15/Feb/2011 (Tue) 19:30 -
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London


 最初の30番のソナタは、まさに滋味たっぷりという表現がぴったりくるような弾き方で始まった。静かに、誇張なく淡々と弾きつつも豊かな歌が流れる。最初の幾何学的な模様の譜面の次に来るアルペジオを伴った和音も、ぐっと深いところから響かせる。ただ、その後次第に音が増えてくるにつれて、何となく音が鳴り切っていない印象を受けた。音楽自体は無理なく優しく流れ続けていて、特に弱音への抑制の上手さはよく伝わってきたけど、前回のバッハのときとは明らかに何かが違う。少し靄がかかったような見通しの悪さを感じた。

 それがはっきり分かったのは、続くスケルツォ的なプレスティッシモの部分。明らかにフォルテが鳴っていない。昨年聴いたブラームスの前半のような感じで、ポリーニ自身は腰を浮かしてアクセントを入れても、ピアノが響かない。音が鳴り切らないので対位法もうまく決まらない感じで、ますます見通しの悪さが増す。調子のいい時のポリーニは、こういう力強い曲を弾くときに音楽がどこまでも巨大に膨れ上がっていくのだけれど、今日のこの曲の演奏ではそれが感じられなかった。

 最後の変奏曲は再び静かな歌に戻る。ここでも優しく歌っているけれど、何かが足りないという印象は変わらない。色気を出した表情付けを徹底的に拒むポリーニのスタイルが悪い方に出てしまっているような印象。途中の力強い変奏なども、指はよく回っていてミスタッチもほとんどないにも関わらず、音楽として何かを充分に表現しているという感じではない。最後に来る長いトリルの部分も、やや響きに濁りがあって、いま一つ感銘を受けきれないまま演奏が終わってしまった。


 気を取り直して31番のソナタ。この曲はベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタの中で、一番聴く頻度が低かったため、今回は一番重点的に予習して演奏会に臨んだ(といっても大したことはできてないけど)。
 第1楽章の冒頭は、30番と同様に静かに淡々と、かつ豊かに歌わせる。音は少し豊かさが増してきて、冒頭の主題に続くアルペジオはとてもきれいに響く。でも、ここでもやはり何かが足りない。もしかするとポリーニはここで、今までの彼とは全く違うアプローチでベートーヴェンに対しているのだろうかとも思った。圧倒的な力(彼の場合は、力というと腕力と精神力のことだ)で音楽を完全に征服し、巨大な構築物を作るというスタイルを捨て、力を抜いてなお残る何かを表現しようとしているのかも知れない。そういうことも考えたけれど、やはりどこか音楽の歯切れが悪いという印象が拭いきれない。

 ピアノを弾く技術自体は安定しているし、音色も30番に比べると明らかに良くなってはいた。途中のスケルツォ的な部分では、ポリーニらしいゴツゴツとした響きも聴こえてきた。だけど、音楽の内部からの圧倒的な充実が聴こえてこない。途中に2つあるフーガも、精神の深みに分け入る力強い歩みが感じ取れなかったし、2つ目のフーガの後、コーダに入る前と後で音楽の流れに断層のような深い不連続があって、コーダの音楽の流れが浮いてしまった。
 全体として、とても小さいけれど決定的に重要なピースが欠けていて、それが演奏に現れているように思えてならなかった。もどかしい!


 今日の演奏会は休憩がなく、ポリーニは一気に3曲全てを弾いた。その3曲目、32番のソナタ。ベートーヴェンの最後のピアノソナタであって、古今のピアノ音楽の一つの極致と言ってもいい音楽。今日のポリーニは調子が悪いまま終わるのか、それともこの曲で持ち直すのかと、こちらも気が気でない。

 第1楽章の最初の音を聴いて、ポリーニの調子が上向いているらしいことは分かった。それまでより遥かに充実した響きで、音に芯が通ってきたのがはっきりと分かる。やがて第1主題(今この記事を書いていて、この主題がマーラーの復活の終楽章で引用されていることに突然気付いた)が始まると、本当に力強い響きが聴こえてきた。音も技術も格段に冴えてきて、この楽章の力強さが際立ってくる。ただしここでもやはり、音楽は巨大な構築物としては現れてこない。
 この曲は非常に激しく闘争的で、一見ベートーヴェンの中期の熱情ソナタのような力強さがあるにもかかわらず、音楽としては決定的な違いがある。熱情ソナタが、ベートーヴェンの激しく純粋な抵抗であり闘争であるのに対して、この32番のソナタでは、何かと戦っていながら、同時に心の底には相手への理解と受容があるような、そういう深みを感じる。熱情ソナタの頃から比べるとベートーヴェンが通ってきた道のりは遥かに遠く、彼自身が到達した世界はずっと高くて深い。そこから得られた洞察の深さが、音楽に一回り次元の高い広がりをもたらしている。

 ポリーニの演奏も、だから力(しつこく繰り返すけど、ここでは腕力と精神力の両方を指す)に基づいた巨大な音楽作りになっていないのかも知れないと、ここでも思った。もちろん、彼はいつものように力強く弾こうとしていたけれど、それが決まり切らなかっただけだという可能性も捨てきれない。僕にはどちらが正しいのか判断できるだけの力はない。ただ、力を抜いた演奏を目指したという可能性もあると思えるだけの説得力のある演奏であることは間違いなかった。

 そして第2楽章。言うまでもなく、この32番のソナタは2つの楽章のみから構成されていて、この第2楽章の変奏曲はベートーヴェンの音楽の最高傑作の一つ。この静かな冒頭の主題を弾くときに、そしてその後の変奏でも、ポリーニはやはり絶対に誇張を避ける。そのため、音楽としては余りにも簡素に過ぎるように、最初は思えた。
 しかし変奏が進むにつれて、音楽がぐっと動き始める。そして、付点のリズムの下降アルペジオで始まる変奏の部分で、何かが進行していると確信した。

 この変奏は一つ前の変奏から比較的自然に発展してきたものだ。しかし今日の演奏においては、この変奏は決定的な変容のプロセスだった。表面的には音楽は自然に前からつながって流れているけれど、その根底では根本的な変容が進んでいた。蝶が蝶になる直前に蛹(さなぎ)として静的な、しかし本質的な変化のプロセスを経て、自身を根本から変えてしまうように、この変奏の前後で音楽が決定的に変わった。

 ここから先の音楽を正確に記述することは僕にはできない。僕自身が、この音楽をきちんと理解するだけの素地を持っていなかったから。ここで奏でられた音楽は完全に充足していて一つの瑕疵もなく、全てにおいて寸分の狂いもないバランスが保たれていて、何一つ足すべきものもなければ取り除くべきものもない。慰めとか精神の浄化といった卑俗なプロセスを超越した絶対的な清浄であり、限りなく透明で輝かしい完璧だった。
 最後に長く続くトリルも、30番のときと違って一切の濁りがない。これを聴く僕の中では、このトリルの線は物理的な音を遥かに越えた存在であって、さざ波のような振動としてすら聴こえてこない。僕がそこに聴いたのは、充足して光り輝く「場」であって、一本の線ではなく、それ自体無限の次元の広がりを持つ、自立した世界だった。まるで天の河が、夜空を貫く一本の帯として見えながら、その実体は人の認識を圧倒的に超越した広がりと厚みを持つ銀河であるように。

 繰り返すけど、僕はこの音楽の全てを理解することはできなかった。もっと正確に言うと、この音楽が何一つ理解できていないと思った。この音楽とこの演奏を理解するには、僕の今までの人生は卑小すぎる。今まで経験した苦しみも克己の努力も、質量ともに全く足りていない。今日ポリーニが弾いてみせたのは、本当の苦しみを壮絶な努力で克服した人間だけが到達し、愉しむことのできる世界だったと思う。僕にはこの世界に入る資格が何一つない。


 ベートーヴェンの晩年の音楽には、こういう人生観を変えるような力がある。かつて日本にいた頃、アルバン・ベルク四重奏団の演奏でベートーヴェンの弦楽四重奏曲の14番(嬰ハ短調)を聴いたときもそうだった。おなかの底にずしりと重い一撃を受けた。今日の演奏もそうだった。いつもここで偉そうなことばかり言って書いている僕にとって、とてつもなく重い打撃だった。
 一から出直しだ。
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by voyager2art | 2011-02-16 08:56 | ピアノ

食わず嫌い/エフゲニー・キーシン ピアノリサイタル

 バービカンセンターでキーシンのリサイタルを聴いてきた。キーシンは今まで実演はおろか、録音でも聴いたことがなかった。しかもプログラムは僕の嫌いなリストの曲ばかり。じゃあ何故聴きに行ったの?と訊かれるかも知れないけど、理由は二つあって、一つはキーシンというピアニストに興味があったから。何故か僕はキーシンに変な先入観があって、多分それは「神童」とか何とかいう派手な売り口上が原因なんだと思うけど、今までずっと食わず嫌いで聴かずにいた。でも聴いて嫌いならともかく、聴かずに避けているのも愚かな話なので、最近は機会があれば聴きたいと思っていた。
 もう一つの理由は、リストの音楽に対して、キーシンなら何か突破口になるような新たな魅力を提示してくれるのではないかという期待があった。リストの音楽の中では唯一興味深いと思えるピアノソナタがプログラムに入っていたことも僕の背中を押した。


Evgeny Kissin Piano Recital

Franz Liszt:
Étude d'exécution transcendante No. 9 "Ricordanza"
Piano Sonata in B minor
(Interval)
Funérailles
Vallée d'Obermann
Venezia e Napoli

13/Feb/2011(Sun) 19:30 -
Barbican Centre, London



 最初の曲は超絶技巧練習曲の9番「回想」。冒頭の旋律から非常によく歌う。それもただサラサラと流れるのではなくて、濃厚に雄弁に、そして非常にロマンティックな歌い口。音はもちろんきれいだけれど、僕が予想していたよりもずっと深みのある音。もっと派手な音で弾くピアニストかと思っていた。一つ一つの音が、低音から高音までこれ以上はないというくらいによく響いていて上滑りしない。
 もう一つ気がついたのが、旋律の中でアクセントを付けるときに、キーシンは非常に強い音を使う。恐らく楽譜の指示からすると強すぎ、大きすぎるくらいの音だけれど、前後ときれいにバランスが取れていてアクセントが突出することがない。音楽の遠近感と縮尺を自在にコントロールしていて、旋律の印象を実に巧みに強めることに成功している。

 僕がリストのピアノ曲を嫌う大きな理由が、派手なだけで無意味な装飾句なんだけれど、キーシンはこれらの装飾句をうまく旋律の流れに取り込み、全く嫌らしくなく聴かせてしまう。この処理の上手さは本当に見事で、もともとの音楽の表現がしっかりしている上に力強く深みのある音色で弾くので、装飾のための装飾ではなく、音楽あるいは旋律の一部として聴こえてくる。
 こんなリストがあるとは考えたこともなかった。この演奏なら僕でも聴ける。キーシン恐るべし。


 続くピアノソナタは、リストの作品の中では例外的に僕も聴く曲。この曲は楽しみにしていた。
 この曲には独特の複雑さと深刻さがあるので、冒頭からキーシンも気合い充分。この冒頭部分、序奏の後にこのソナタ全曲を貫く二つの主要主題が立て続けに奏されるんだけれど、二つ目の主題の提示で、キーシンは通常なら分散和音のように奏する部分を、渾身の力を込めて一つ一つの音を際立たせて弾いた。このときの音の響きは驚異的で、ピアノの鍵盤一つからこんな大きな音が鳴るとは信じられないほどだった。出せる力を完全に出して弾いていて、しかも乱暴に叩き付けるのでもなく、ピアノから今まで聴いたことのない魔法のような豊かな音色を抽き出す。

 その後も極めて集中力の高い演奏を続けるキーシンだけど、彼が弾くとこのソナタでも音楽がどんどんロマンティックな表現に向かっていくのが面白かった。例えばポリーニの録音だと、このピアノソナタはロマンティックな香りを残しつつも、構造的で先鋭的な、根本的に理知的な音楽として構築されている。この曲は装飾句が少ないため、楽譜だけ見るとブラームスのピアノ譜とそっくりで、ポリーニはこの音楽からブラームスと同じような構成的な厳しさを引き出してくる。
 しかしキーシンが弾くと、主題の展開やソナタ形式の拡張といった側面を持ちつつも、本質的には甘美で情緒的なロマン派の音楽として聴こえてくる。一方でこれだけの長大な音楽を弾いても部分部分がバラバラになることは決してなくて、旋律の歌わせ方は起伏に富んでかつ自然。表情が豊かな上に前後のつながりが極めて自然で、装飾的なフレーズもその旋律の中にうまく取り込まれるため、音楽の流れを途切れさせることがない。

 それにしてもキーシンの技術のすごさは本当に圧倒的。もちろんミスタッチが皆無というわけではないけれど、技術的に非常に難しい部分でも、ある音を際立たせることが音楽として必要ならばそれを余裕を持ってやってのけてしまう。華麗な装飾句、分厚い和音、甘美な弱音、どんな譜面も多彩に響かせ、リストの音楽をキーシンの音楽に再構築していく。本当にすごい!



 休憩を挟んで最初は「葬列」。これは今まで聴いたことがなかった曲。ハンガリーの独立のために蜂起し、それに失敗して命を落とした人々へ捧げられた音楽。キーシンの演奏は前半と変わらず素晴らしい。音楽の流れは豊かで、途中の見せ場である左手の高速オクターヴ(ショパンの英雄ポロネーズの比ではない)も、神掛かったような音色と音量のコントロールが冴え渡り、音楽をこの上なく盛り上げていく。

 ただ、正直なことを言うと、この辺りから僕は退屈し始め、集中力が切れ始めた。キーシンのピアノは本当に本当にすごいんだけれど、彼がどんなに上手く弾いても、所詮リストはリストでしかない。葬列の音楽は哀悼の表現がどうしても表面的に感じたし、続くオーベルマンの谷も本質的には冗漫な音楽であって、本音を言うとつまらない。
 繰り返すけれど、キーシンのピアノは素晴らしい。でも、音楽というのはそれだけで済むほど単純なものでもない。

 最後のヴェネツィアとナポリもよく歌う演奏。この3曲の曲集は音楽が多彩で以前から比較的好きだったので、ようやく僕の集中力も持ち直す。
 最初の「ゴンドラを漕ぐ女」の素朴な旋律ときらきら輝く装飾の対照もとても印象的だったけど、本当に良かったのが終曲のタランテラ。キーシンはくるくる変わる曲想を速いテンポでどんどん弾き進めて素晴らしい高揚感を作り上げていて、最後は本当に圧巻のフィナーレという感じ。これは素晴らしかった。


 この演奏会を聴いて、キーシンというピアニストのすごさには文句なく脱帽した。本当にすごい。今までつまらない先入観で聴かずにいたことが悔やまれてならない。
 一方でリストの音楽はどうかというと、ピアノソナタ以外の曲は、やはり音楽としての魅力と深みに欠けることは否めないと再確認するに終わった。そのピアノソナタにしても、少し音が多過ぎる。同じ分野でショパンは遥かに引き締まって同時に豊かな音楽を生み出した。
 次にキーシンを聴くときは、もっと別の音楽で聴いてみたい。ストラヴィンスキーのペトルーシュカなんかを弾いてくれないかなあ。

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by voyager2art | 2011-02-14 09:38 | ピアノ

ゆく河の流れは絶えずして/マウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル

 ずっと楽しみにしていたポリーニのリサイタル。演目はバッハの平均律クラヴィーア曲集の第1巻全曲。ポリーニは今年、ロンドンで「ポリーニ・プロジェクト」と銘打って5回の演奏会を開く。今日はその第1回。
 実は今日、バービカンセンターでデュダメル指揮のロサンジェルスフィルによるマーラーの9番の演奏会も開かれた。マーラーの9番は本当に好きでたまらない曲で、デュダメルも以前からずっと聴いてみたいと思っていた指揮者なのだけれど、ポリーニは僕にとって誰よりも好きなピアニストで、その彼が僕の大好きなバッハの平均律を弾くとなれば、やはり聴き逃すわけにはいかない。


Maurizio Pollini (Piano)

Johann Sebastian Bach: The Well-Tempered Klavier, Book 1

27th Jan, 2011 (Fri)
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London


 ポリーニは昨年、二度聴いた。一度はショパンばかりのリサイタルで、もう一つはロンドン交響楽団と共演してのブラームスの第一協奏曲。ここ数年の彼は好・不調の波が大きく、実際昨年のリサイタルは素晴らしかったけどブラームスは終楽章以外は非常に不安定で、彼の老いを感じずにはいられなかった。今日のバッハはどうなのだろうか。

 舞台に現れたポリーニは相変わらずというか、実年齢よりもだいぶ歳を取って見える。楽譜を持った譜めくり係の男性も一緒に登場。この曲集を全曲暗譜で演奏というのはいくら何でも無茶だと思うので、これはこちらも安心感を覚える。

 最初のハ長調の前奏曲は、最近の録音と同様に淡々と開始。速めのテンポでほとんど強弱の差をつけず、一直線に音楽の核心に迫ろうとするスタイル。若干音の粒が揃わないところもあったけれど、何となく調子は良さそうなのではないか、という印象で始まった。
 続く4声のフーガは、明るい曲想で短いけれど実はかなり複雑な対位法で構成されている。ポリーニのCDではこの4つの声部がきちんと分離せず、特に内声部はほとんど聴き取れない。僕はこの点について、実演で彼の演奏を確認することをとても楽しみにしていた。

 ポリーニは例えばベートーヴェンやショパンを弾くときに、複数の声部が不協和音でぶつかるときでも、どちらかの声部を弱めたり音色を変えることで音の衝突を避けるということをしない。どちらの声部も彼特有のよく響く明るい音で鳴らし切り、平気で不協和音をぶつける。でもどちらの声部も充実した音で歌っているので、音がぶつかってもきちんと二つの独立したパートとして聴こえてくるのだ。
 このハ長調の4声のフーガでも、きっと同じなのではないかとずっと思っていた。そして、録音が悪いか僕の再生装置が悪いかのどちらかだろうという予想は、やはり正しかった。コンサート冒頭の演奏だったので彼の音は充分に鳴り切ってはいなかったけれど、彼が各声部をきちんと歌わせていることは明瞭に聴き取れた。

 最初の数曲はどこかぎこちないようなところも感じたけれど、4曲目(この稿では前奏曲とフーガをまとめて1曲とカウントする)の嬰ハ短調のフーガあたりからぐっと音楽の密度が上がった気がした。このフーガは、平均律第1巻に2曲しかない5声のフーガの一つ(ちなみに残りは2声のフーガが1つあるだけで、あとは全部3声か4声)。この曲集の中でも屈指の傑作と僕は思っていて、冒頭に提示される主題と、途中で新たに提示される別の主題による二重フーガとなっている。この二つの主題の緊密で絶妙な絡み合いと、そこから生まれる音楽の深さは尋常ではない。

 ポリーニもこの曲にはかなり気合いが入ったようで、音と響きのコントロールがぐっと良くなった。ポリーニはことさらに強弱や音色の変化をつけず、フーガの二番目の主題が現れるたびにそれを強めに弾くほかは、全てのパートをほぼ均等に鳴らす。その着実に流れ続ける音楽から放射される密度の高い緊張感と感銘は相当なもので、この演奏は本当に良かった。


 この後も、本当に厳しい演奏がずっと続く。嬰ハ短調のフーガの次にくるニ長調の前奏曲は、明るい曲想が前のフーガと対照的なので、普通はここで聴き手はホッとする。ところがポリーニで聴くと、これがまたとても厳しい演奏で、全然気分転換にならない。弾く曲弾く曲みんなそんな感じで、聴いていてもいつの間にか奥歯をぐっと噛み締め、全身に力が入ってしまっている。だから、例えば7曲目(変ホ長調)の前奏曲の、トッカータ風の走句が終わった後の、宙を漂うような音楽も、ゆったりと静かに流れているはずの音楽なのに、その静かな音楽が例えようもなく厳しく、その後音楽が動きを増すにつれて更に密度を高め、最後は圧倒的な圧力を持った音楽になる。
 また、続く8曲目(変ホ短調)の前奏曲も、静かで瞑想的な音楽では全くなく、ただならぬ緊張感を伴った演奏で、さらに続くフーガも輪をかけて厳しいのに、9曲目(ホ長調)の前奏曲がまた通常のように単純に明るく演奏されないので、もうこっちは彼の演奏に圧倒されっぱなし。


 僕はこれらの演奏を聴いていて、ポリーニがバッハと直接に対話をしているように思えた。二人の偉大な音楽家が、300年の時を超えて、楽譜を通して真剣勝負で向かい合っている。グールドとバッハの対話のときは、彼らの中の豊かで知的な詩情が響き合った。エドウィン・フィッシャーのときには、彼らの中の人間的な暖かさが触れ合った。今日のポリーニとバッハの対話では、彼らの中の厳しさが共鳴し合い、とてつもない圧力でこちらに迫ってくる。
 僕は今回、クワイア席(舞台後方を取り囲む場所にある席)の、ポリーニの正面の側に座ったのだけれど、彼はどの曲を弾く時も、本当に厳しい表情を崩さなかった。

 この時点で既にすごい演奏だと思っていたけれど、ここからまだ奥があった。10曲目(ホ短調)の前奏曲が終わると、ポリーニが譜めくりを待たずにフーガをいきなり猛然と弾き始めた。突然予想外のところから火の柱が吹き上がったような衝撃で、彼の音楽がまた一回り大きくなる。とんでもない勢いと圧力でこのフーガを一気に弾き終えると、ここからは彼の演奏がいよいよ自由になってくる。
 パート間の音量と音色のコントロールも格段に冴えてきて、上声、中声、下声のどこに主題が現れても、極めてクリアに浮き上がってくる。しっかり響き切った音の美しさは本当に一級品。また、演奏の厳しさの土台はそのままに、音楽に本来の歌を歌わせる余裕が生まれ、会場を覆い尽くすような巨大な音楽が構築されていく。音楽がどこまでも無限に広がって行くような感覚に酔った。


 演奏の印象が余りに強かったので、前半の12曲が終わっても休憩時間にうまく頭と気持ちをリフレッシュできなかった。前半の気分をかなり引きずったまま、後半開始。
 ポリーニの集中力は全く途切れておらず、後半の演奏も前半の最後のスタイルの演奏が続いた。15曲目(ト長調)の前奏曲なども明るくて活発というよりも激しい演奏で、一方16曲目(ト短調)の前奏曲などは、まるで月明かりに照らされた無人の野の夜の川を、黒々とした水が途切れることなく流れ続けているような、底光りのするような強い静けさが印象的だった。この演奏を聴いていて、僕は金子光晴のマレー蘭印紀行を思い出した。

 その後は、曲自体を自然に歌わせるような演奏がしばらく続いたけれど、20曲目(イ短調)の前奏曲からまた激しさが戻る。続く4声のフーガは、4つの声部でほとんど休みなく細かい音符を弾き続ける曲なのだけれど、かなり長く続くこの音の森をポリーニは凄まじい圧力で驀進する。
 一方で、22曲目(変ロ短調)の演奏をどう評したらいいのだろう? ここに聴かれるのは悲しみとか孤独といった単純な感傷ではない。表面上は静かだけれど力強く純粋で、極めて充実した音楽でありながら、現状に決して安住しない。本質的にやはり厳しい演奏で、この無類の厳しさはポリーニが彼のキャリアを通して自分自身に向け続けてきたものだ。
 同じ変ロ短調のフーガは、この曲集のもう一つの5声のフーガ。あちこちに主題が現れたときの彼の主題を弾く音色の厳しくも美しいこと! 嬰ハ短調の5声のフーガに比べると音楽の構成としては単純だけれど、表現の深さはこれに全く引けを取らない。そしてポリーニの演奏も、やはり厳しさと深さの高次元での結合となる。

 このフーガに続く可憐なロ長調の前奏曲(23曲目)も、ポリーニの手にかかると、その愛らしさの奥にもう一段の深みを持っていることが明らかになる。ただし続くフーガはテンポが随分と前のめりになってちょっと不安定な印象なのが残念だった。
 しかし、その後の24曲目、つまり第1巻最後の曲は、やはりポリーニの渾身の演奏だった。最初の前奏曲は、やや長めのノンレガートの伴奏に乗って、右手の2声の音楽が豊かに歌う。これは右手一本で弾いているとはちょっと信じられないほどの素晴らしい歌い口で、淡々と進みつつも完璧なバランスで歌い合い、絡み合って、この曲の崇高さを際立たせる。
 そして最後のフーガ。現代音楽に近いような半音階と不協和音を含むこの曲を、ポリーニは正にポリーニ節で弾き通す。このフーガに頻繁に現れる、二度音程の衝突を、彼はむしろアクセントを付けて強調し、これによって強烈な緊張感を生み出す。バッハの音楽の深さと高さを、ある面から完全に表出し切った演奏だった。



 ポリーニは老いた、という声はここ数年非常に多い。僕も昨年6月のブラームスの協奏曲を聴いてそう思った。でも、今日の演奏を聴いて、彼の音楽の本質的な部分は相変わらず極めてラディカルで、非常に厳しくて知的に熱いものであることが明確に理解できた。彼の指は確かに老いたけれど、彼の精神は今も若いときのままだ。昔のポリーニからは考えられないような技術的なミスは散見されたけれど、それはあくまでも副次的な話であって、厳しく激しく巨大な彼の音楽は今も音楽の世界の最前線を走っている。
 今回のポリーニプロジェクトの、残りの演奏会が本当に楽しみになってきた。


※追記

ポリーニが使っていた楽譜はベーレンライター版。僕が持っている楽譜と同じ表紙だったのでちょっとびっくり。
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by voyager2art | 2011-01-29 10:29 | ピアノ

拒まれた一歩/ブレハッチ ピアノリサイタル

 先日のユリアンナ・アヴディエヴァに続いて、前回のショパンコンクール優勝者のラファウ・ブレハッチのリサイタルを聴きにいった。ブレハッチの演奏は、録音を含めて一度も聴いたことがなかった。彼については2005年のショパンコンクールで優勝したという以外のことは何も知らないまま、ほぼ完全な白紙の状態で聴いたけれど、並大抵ではない才能を持ったピアニストだった。

 最初はバッハ。なにせ一度も聴いたことのないピアニストだけに、バッハの演奏がはじまる瞬間はかなりドキドキ。そして聴こえてきたのは、とても豊かな音色だった。一つ一つの音がとても充実していてよく鳴っている。音色の幅が広く、それを自由にコントロールできているので複数の旋律の弾き分けも完璧。最初の指慣らしという感じではなく、いきなり本気。
 ただ、彼の演奏にはわずかに粘るリズムがあって、音楽が素直に流れていかない。横方向の旋律の流れよりも一つ一つの音をしっかり鳴らす方に意識が向いているようなところがあって、この曲特有の流麗さが失われてしまっていた。また、バッハ特有の、複数の旋律が重なるところで、彼は常に主従の段階付けを行い、表に出る旋律と裏に回る旋律を、全く異なる音色と音量で演奏する。三声以上を同時に演奏するときでも、彼はそれぞれの声部を全て異なる重みで演奏するので、その多層性の表現は見事なのだけれど、二つの旋律が対等の重みで競い合う緊張感はない。更に、彼は完全に現代ピアノの立場でバッハを弾いていて、ときにベートーヴェンでも弾くような力強い響きを作る。これが、バッハを演奏する上ではネガティブな方向に働いていたように思う。

 続くシマノフスキは一転して非常に面白かった。和声が多彩で複雑になるので、彼の色彩豊かな響きがとても生きる。和声と楽想の変化に合わせて自在にコントロールされるピアノの響きの多彩さが素晴らしい。その上、彼には短調系の旋律を深い表情で歌わせる独特のセンスがあって、ピアノの多彩な響きが上滑りせずに音楽の表現にうまくつながっていたと思う。
 シマノフスキを弾き終わると、立ち上がってお辞儀をすることなくすぐにドビュッシーを弾き始める。このあたりから、彼の音楽の特徴がはっきりと分かってきた。
 一曲目の前奏曲は、派手なグリッサンドなど非常に華々しい装飾がある曲だけれど、彼の演奏は絶対に華美にならない。むしろ重く真面目な演奏で、芯の通った強い音で弾くので、パリのサロンの華やかな雰囲気とは無縁。対照的に、続くサラバンドは繊細だけれど大胆な和声に乗ったノスタルジックな音楽の表現が密度が印象的だった。これも非常に内省的な演奏で、派手なクライマックスを聴かせる音楽ではないので、彼の骨太で深い色合いの音楽が非常に合う。ただしこれも、いわゆるドビュッシーらしい、浮遊感のある演奏ではない。大地に深く根を張った老木を見るような音楽。
 この曲集の最後のトッカータは圧巻だった。細かく連なる音の一つ一つが深く充実した豊かな音で響くので、全体としての響きの厚みは並大抵ではない。しかもその色合いが刻一刻と変化し、それもカラフルというよりは、深緑や群青や焦げ茶色といった、重厚な色合いなので、強い圧力と凄みを感じさせる。また、彼の技術は恐るべき水準にあって、この難曲をやすやすと弾きこなしながら、いま言ったような重厚な色彩と、太く流れる強い音楽を生み出し続ける。
 ちなみに、シマノフスキが前奏曲とフーガ、ドビュッシーが前奏曲・サラバンド・トッカータという曲で構成された組曲ということを考えれば、彼がバッハを軸として前半のプログラムを構成したことは明らかだ。このあたりに、プログラム作りの独特なセンスを感じる。ただし演奏は、肝心のバッハよりもシマノフスキとドビュッシーの方がはるかに面白かった。

 ここまでで強く思ったのは、彼の演奏がどこか聴き手を拒んだような音楽だということ。例えばこの前強烈な印象を受けたポゴレリチは、音楽を絶望で塗りつぶすような演奏をしていたけれど、彼自身は周囲の人のあらゆる行為を無条件で受け入れる、開かれた態度を持っていた。アヴディエヴァも、華やかさに背を向けて深い音楽を演奏する人だったけど、彼女が聴き手を強く自分の音楽に引きずり込むのに比べると、ブレハッチの演奏は、その見事さで聴き手を惹き付けておきながら、ある距離から先には聴き手が入ってくるのを許さない厳しさがある。こちらとしては、彼にあと一歩というところまで近づいておきながら、その一歩が踏み出せず、「こんにちは」の一声を掛けることが許されていないような、そういう拒絶を感じる。


 休憩を挟んでショパン。この選曲を最初に見たときに、少し首を傾げた。中心になるべき曲がなく、印象の薄い曲ばかり選んだなというのが正直な印象だった。しかし実際に聴いてみると、また違った印象を受けた。
 まずはバラードの2番。最初の舟歌のような旋律は、速めのテンポで飛ばす。もちろんよく歌ってはいるけれど、心に染み入るような歌わせ方ではない。次いで、いきなり激しい音楽が爆発するように始まると、彼は右手と左手のリズムをかなりずらしながら、猛烈な圧力の音楽を作り出す。音そのものの激しさよりも、その一段階メタレベルでの激しさの表現になっているので、より巨大な音楽になる。ここでも彼はやはり、外に向けて開かれた爆発ではなく、深く厳しく自分の内側に向かって音楽を掘り下げていく。ときどき思い出したように現れる舟歌の旋律も、あくまでも経過句でしかなく、全体としては極めて激しい基調の音楽だった。
 こういう演奏をする彼がワルツを弾いても、当然のように社交的な音楽にはならない。全く色気や華やかさのない、厳しい演奏。なぜ彼がワルツを今日のプログラムに入れたのか、僕にはよく分からない。ただ、3曲のうちの2曲目、イ短調のワルツは彼らしさがよく出た秀演。特に中間部の、左手が旋律を弾いているところに右手の旋律がかぶさってくるところの演奏は素晴らしかった。太く豊かな音色で歌っていた左手の旋律が、右手の旋律が入ってくるとすっと後ろに下がり、その右手の旋律が明るく太い音色で豊かに歌う。この鮮やかな交替が何度か繰り返されたのが非常に強く印象に残っている。

 続いて初期のポロネーズを二曲。ここでも彼らしい豊かな響きを駆使した、厳しい演奏。激しさとノスタルジーが、絶妙に交錯する。このノスタルジーの部分で、彼がようやく心を開きかけたかのようにも思えたけれど、やはりすぐに心の扉が閉じられる。演奏に心がこもっていないというのではない。そういう心の表現を伴った演奏をしているのだ。ピアノの響きの見事なコントロールに感心する一方で、その表現の孤独な厳しさに何とも言えない苦しさを感じる。
 最後のスケルツォ1番も彼の特徴がよく現れた演奏になった。巨竜が暴れているかのような、深く激しく巨大な音楽。かなり難解なこの曲を、彼は完全に自分のものとして演奏していた。

 彼の音楽には、独特の厳しさと深さと、そして恐らく若さ故の純潔に支えられた潔癖があるように思う。彼の人となりを僕は全く知らないけれど、今の彼は自分の周囲に明確な境界を設定し、その中で自分の音楽を深め、充実させようとしているように見える。
 全く根拠のない想像だけれど、彼は将来、実生活で何か大きな出来事を経験して、それをきっかけに境界を打ち破る日が来るのではないかという気がする。今でも相当な演奏をする彼ではあるけれど、そうなってからが本当に面白いピアニストなのではないか。これが、僕の今日の率直な感想だ。


Rafal Blechacz (Piano)

J. S. Bach: Partita No.1 in B flat for keyboard, BWV825
Szymanowski: Prelude & fugue in C sharp minor
Debussy: Pour le piano
Chopin: Ballade No.2
Chopin: 3 waltzes, Op34
Chopin: 2 polonaises, Op.26
Chopin: Scherzo No.1 Op.20

Queen Elizabeth Hall, Southbank Centre, London
7th December, 2010 (Tue) 19:30 - 
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by voyager2art | 2010-12-08 09:27 | ピアノ

ユリアンナ・アヴデーエワ ピアノリサイタル

2010年11月3日(水)19:30 -
Chopin Piano Competition Winner, International Piano Series 2010 - 2011
Queen Elizabeth Hall, London

演奏:
 Yulianna Avdeeva (Piano)

曲目:オール・ショパンプログラム
 4 Mazurukas Op.30
 Scherzo No.3 in C sharp minor Op.39
 2 Nocturnes Op.27
 Sonata No.2 in B flat minor Op.35
 Fantasie in F minor Op.49
 Scherzo No.4 in E Op.54
 Nocturne in B Op.62-1
 Polonaise-fantasie in A flat Op.61

 2週間ほど前に第16回ショパンコンクールで優勝したユリアンナ・アヴデーエワ(アヴディエヴァ? 日本語表記がまだ確定していないみたい)によるリサイタル。コンクール優勝後はじめての演奏会ということらしい。若い音楽家が弾く演目としては極めて野心的で、ショパンの中期から後期にかけての、内容の濃い傑作が惜しげも無く並べらている。果たしてどんな演奏会になるのか、正直なところとしては期待よりも不安が多かったけれど、実際に聴いてみると、深く深く、本当に深く引き込まれた。見た目はロンドンのハイストリートを歩いていそうな華奢な若い女性だけれど、骨太で底知れない迫力と深い魅力をもった演奏をする人だった。

 最初のマズルカは表情が硬く、音も詰まって固い。節回しに合わせてリズムがかなり伸縮するので、なんとなく形というか、効果だけを狙ったような演奏にも聴こえる。一方で、その奥底にロシア的で地を這うような何かも聴こえるような気がして、西欧ではなくロシア側から見たポーランドの音楽という趣きだった。しかし全体としては、何か奥にあるようだけれども印象に残りにくい演奏だった。やっぱり彼女はまだまだ若い音楽家なのかなと思ったのは、しかしここまで。このマズルカはあくまでも指慣らしだったようで、続くスケルツォからは彼女の本領がはっきりと現れ始めた。

 彼女は技巧の卓越や並外れた音量を誇示するタイプでもなければ、音色の多彩さで聴き手を幻惑するようなピアニストでもない。もちろんピアニストとして必要な技術や音色は充分に持ち合わせているけれど、同じロシア出身のマツーエフやルガンスキーのような、超絶技巧で押しまくるようなタイプとは全く異なる。
 彼女の演奏の特徴は、非常に濃厚な歌い口にあって、それが悪魔的と言う他ないような、底知れない魅力となって現れる。アルゲリッチのように才能が火花を散らして華々しく演奏するのとはまた違って、派手さは少ないけれど、有無を言わせずに聴き手を彼女の世界に引きずり込んでしまう強烈な吸引力がある。そういう点ではやはりロシアの伝統や国民性を引き継いでいるのかもしれない。

 彼女の演奏を実際に聴いて、一つ一つの曲についてその特徴を説明するのは僕には非常に難しい。聴いているこちらがあっという間に彼女の演奏に引き込まれてしまうので、気がつくと彼女の演奏に入り込んでしまっていて、いつものように頭の片隅にでも冷静さを保持して客観的に聴く、ということができない。
 彼女の演奏はかなり大胆なルバートを伴う。しかし演奏は感傷的では全くなく、むしろかなり硬派な表情になる。硬派な表情になるけれど、しかしドライではなく、非常に濃厚な歌が立ちのぼってくる。このあたりは本当に独特。彼女は決して極端なことをしない。テンポもリズムも、音量も音色も、彼女より特徴的な演奏をする人はいくらでもいる。それなのに不思議なことに、彼女の演奏から生まれてくる音楽は、先にも書いたとおり、悪魔的な吸引力を持っている。普段歩き慣れた道を通っているのに、気がつくと異世界にいるような感覚といってもいいかもしれない。

 彼女が弾く全ての旋律が非常によく歌う。そして更に素晴らしいのは、それらの歌が決して断片化することがなく、曲全体の大きな流れの中できちんと位置付けられていることだ。そのため音楽の流れが途切れず、最初から最後まで自然に音楽が流れる。ただし彼女の場合は、曲全体の構成を理屈で考えてそこから細部の表情付けを論理的・演繹的に導き出しているようには思えない。僕には、彼女が本能的に音楽の成り立ちや勘所を掴み取ってしまっているのではないかという気がしてならない。そしてその「音楽」というのは恐らくロシアの伝統に根差したもので、地を這うような底知れない迫力を持っている。

 この、人を引きずり込む力の強さと全体的な組み立ての上手さによって、彼女の演奏には説得力と深みの双方が極めて高い水準で備わることになる。まだ25歳と若い彼女だけれど、この日ならべられた曲を完全に自分のものとして消化して、外面的ではない、凄みすら感じさせる演奏として聴かせたことは驚嘆に値する。スケルツォの3番以降はどれもすごい演奏だったけれど、前半の最後を飾ったソナタの2番や、後半の幻想曲、スケルツォ4番、幻想ポロネーズなどはどれも既に世界の一流ピアニストに伍する水準と言ってよいものだった。

 ちなみに彼女はアンコールを2曲弾いた。その1曲目、幻想ポロネーズの後に弾いた曲は何と作品45の前奏曲。この静かで超越的に美しい曲は僕の最も好きなショパン作品の一つなのだけれど、実際に演奏される機会はそう多くはない。こういう曲を選ぶところにも、彼女が音楽の外面ではなく表現を深く追求するピアニストであることが明瞭に見て取れた。
 もう一曲のアンコールは華麗なる円舞曲(作品34-1)。これも彼女らしい演奏で、リズム重視の舞曲ではなく、ルバートの効いた濃厚な音楽になっていた。

 彼女はこれから世界的に活動の場を拡げることになると思うので、機会があれば是非彼女の実演を聴くことを勧めたい。彼女のCDももちろんたくさん出るだろうし、録音でも彼女の歌い口の凄みは伝わってくるに違いないとは思うけれど、あの迫力と吸引力は実演でこそ本当にその面白さを理解できると思う。
 そしてまた、キャリアの出発点でこれだけ高い水準の演奏をする彼女ではあるけれど、今後どのように演奏が変化していくのか、その点も非常に楽しみだ。
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by voyager2art | 2010-11-04 09:33 | ピアノ

プロムス / マリア・ジョアン・ピレシュ ピアノリサイタル

PROM 7
2010年7月21日(水) 22:00 -
Royal Albert Hall, London

Maria João Pires (Piano)

演目:ショパン 夜想曲
Op 9, nos. 1, 2 and 3
Op 15, nos. 1, 2 and 3
Op 27, nos. 1 and 2
Op 62, nos. 1 and 2
Op 72, no 1
Lento con gran espressione, KK IVa No.16


 先のProm 6に続いて、同じ日に同じ会場でピレシュによるショパンのノクターンの演奏を聴いた。ピレシュはポルトガル出身のピアニストで、もう40年を超えるキャリアの中で世界的な名声を勝ち得ている。なのに、実は今まで彼女の演奏を、録音を含めて一度も聴いたことがなかった。今回このプロムスで、ようやく彼女の演奏に接することになった。そしてその演奏は、僕の予想を遥かに超えてすごかった。否、思考の次元が全く違ったと言うべきだろう。今回のような体験は、全く初めてだったとしか言いようがない。

 ステージに現れた彼女は小柄で、知性と謙虚さと品位に満ちていた。はにかんだような笑顔で聴衆におじぎをしてピアノの前に座る彼女を見ただけで、もう誰もが彼女の人間的魅力のとりこになる、そういう人だった。

 作品9の2曲は、ショパンのキャリアの中でも初期の作品で、耳に心地よく響きはするけれど、内容に乏しいというのが一般的な評価だと思うし、僕もずっとそう思っていた。ところが、ピレシュの演奏は本当に素晴らしかった。旋律も伴奏も強弱と音色の変化が非常に豊かで、曲想や和声の微細な変化が余すところなく鮮やかに描き出される。彼女の音は、カチッとした輪郭を持ちつつ、音がふわりと浮かび上がり、そのまま空気の中に柔らかく溶け込んでいくような、非常に豊かで美しい音色を持っている。その音色を活かしながら演奏されるショパンの音楽の美しいこと!
 しかし、彼女の演奏の本質は、外面的な美しさではなく、その知的な誠実さにあった。このショパンの若いころの作品に対しても、中身が薄いと決めつけることなく、いかにその魅力を引き出すかということに、誠心誠意に心を傾ける。そうして、5千人を収容できる巨大なロイヤルアルバートホールで、驚くべきことに彼女は聴衆の一人一人に、まるで特別な友人との語らうときのような親密な距離感で、音楽を語りかけてきた。

 その後演奏が進むにつれて、曲も次第に深みのある音楽となり、彼女の演奏もますます魅力を加える。彼女は決して技巧派ではない。手は小さいし、特別に派手な演奏をしたり、大きな音を出すわけでもない。でも、そんなことは彼女の音楽には全く必要ないのだ。彼女はステージの上で、ショパンの音楽を通して、彼女自身について語る。それも、声高に相手を説得しようとするのではなく、彼女の内面をありのままに静かに語るのだ。音楽に対しても聴き手に対しても、ひたすら誠実に、共感と愛情をこめて演奏する。
 これはもう、演奏スタイルがどうということを越えて、彼女の人間性の高潔さの証明としか言いようがない。

 ショパンの夜想曲の中には、僕が自分でも弾いたことのある曲が何曲かあり、この日彼女は(偶然だけど)その全てを弾いた。自分自身の演奏を振り返ると、いかに自分が音楽の表面しか見ていなかったかということに否応なく向き合わされる気分だった。今まで自分は音楽に何を聴き、何を表現してきていたのか。
 その問いの根っこには、僕自身の人間としての浅さ・狭さ・身勝手さといったことがあるのは明らかだった。音楽を通して、誠実さとは何か、人はどうあるべきなのか、そういうことを示されているような演奏会だった。
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by voyager2art | 2010-07-22 22:22 | ピアノ


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