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クリスティアン・ツィメルマン ピアノリサイタル

Krystian Zimerman Piano Recital, Southbank Centre International Piano Series

2月22日(月)Royal Festival Hall
19:30 -

曲目:
オール・ショパン・プログラム

夜想曲 嬰ヘ長調 Op.15-2
ピアノソナタ 第2番 変ロ短調 Op.35
スケルツォ 第2番 変ロ長調 Op.31
-
ピアノソナタ 第3番 ロ短調 Op.58
舟歌 嬰ヘ長調 Op.60

 今年(2010年)はショパン生誕200周年にあたる。ショパンの誕生日には2月22日説と3月1日説があり、今日の演奏会はこの2月22日説にちなんだもの。ちなみに3月1日にはポリーニによるショパン・プログラムが予定されており、これも聴きに行く予定。

 ツィメルマンは1975年のショパンコンクールで優勝したポーランドのピアニスト。年間の演奏会数を50回に抑え、演奏する曲も5年から10年を掛けて準備したもののみに厳選するなど、エキセントリックとすら言えるほどのストイックな姿勢を貫いている。僕が彼の実演を聴くのは今回が初めて。

 一曲目の夜想曲はショパン特有の感覚美の世界。とはいえ、この日の演奏の中でみると、あくまでも後に備えた指慣らし、という演奏。ただしここで既に、彼がルバートやアゴーギクを多用することを躊躇わずに音楽のロマンティシズムにアプローチする一方で、過度の感傷的な表現は注意深く避けていることが充分に見てとれた。

 続くピアノソナタの2番は速めのテンポで第一楽章を開始する。ツィメルマンの音色は決して華やかな方向には傾かず、むしろ充実した低音と芯の通った粘りのある中高音が特徴的で、音のアタックよりもその後に続く響きが主体の重厚なもの。その点で、グールドやグルダの硬質で明確な音とは対象的。この音色を武器に彼は厚み・深みのあるソナタを弾いた。

 テンポは速めでルバートも使うけれど、リズムのコントロールはしっかりしているので音楽が崩れない。その上で更に特筆すべきは、彼が対位法の扱いに並々ならぬ注意を払っている点。第2主題など旋律の対位法的な絡み合いでは各パートの動きが明瞭に分かる。

 一般にショパンの音楽は旋律の美しさが耳を惹く一方で、楽譜をよく読むと極めて洗練された対位法の扱いが見られる。これを上手く表現するかどうかで、演奏の深みが全く違ってくる。その点で,ツィメルマンの演奏は非常に高水準だった。

 第一楽章の展開部以降もがっちりとした響きと巧みなアゴーギクで上手く盛り上がりを構成していた。
 第二楽章スケルツォも第一楽章と同様に速めのテンポで開始する。基本的なアプローチは変わらない。トリオの対位法の扱いも見事だった。盛り上がり方がよく考えて構成されている点も前楽章と同じ。

 第三楽章は「葬送行進曲」として知られている。前後を陰鬱な葬送曲に挟まれて、中間部に甘美な夜想曲風の音楽が演奏される。この葬送行進曲は、前の二つの楽章とは打って変わって遅めのテンポで始まった。音楽の進行に従って少しずつ音量も増加する。ただしここでも、ツィメルマンは決して衝動的に弾くことは無い。フォルティッシモを弾くときにも力任せに鍵盤を叩くのではなく、しっかりとした構成力の中で完全にコントロールの効いた強音を出す。そのため音楽の流れが途切れ途切れになることも無い。

 中間部は速めのテンポ設定。旋律を豊かに歌わせつつも、伴奏のアルペジオの一つひとつの音を強めに鳴らしているために音楽に芯が出て、感傷的になることを防いでいる。このあたりに、ツィメルマンというピアニストの誠実さと、健全な正統性を感じさせられる。

 再び戻った葬送曲はフォルテで再開。音楽が進むうちに、不思議な感覚になってくる。ステージのツィメルマンの動きと音が一致しなくなってきたからだ。彼は重い葬送曲を弾いているのに、音はだんだん小さくなってくる。ここの音のコントロールは本当に見事で、単に音が小さくなるのではなく、重苦しい音楽が遠くへ離れていくような印象。まさしく葬列が遠ざかって行く様子がここに表現されていた。

 葬送行進曲の3つの終和音が重く長く鳴らされると、そのまま途切れずに終楽章が始まった。これが、CD・実演を合わせても、今まで聴いた中では最も速いテンポ設定。シューマンが不快感を示し、聴き手と弾き手を困惑させてきた、両手のオクターブ・ユニゾンだけで書かれた極めて抽象的な音楽であり、普通に弾くと何が何だか全くわからなくなってしまう、謎の楽章。しかしツィメルマンの設定したテンポでは、明らかに和声と旋律の影が浮かび上がってくるのが分かる。

 ピアノの演奏史上で、この楽章にこういうアプローチをしたのは恐らくベネデッティ・ミケランジェリが最初ではないかと思う。しかしミケランジェリが正確で冷徹極まりない演奏から知的に和声を浮かび上がらせたのとは対照的に、ツィメルマンはここに明らかに人影を描いているように思われる。リズム構造をかなり大胆に崩していたために輪郭は全て曖昧で、何一つ明確なイメージは見えてこないにもかかわらず、そこに人がいることははっきりと分かる。そういう印象。

 19世紀の半ば、まだ抽象芸術の生まれていなかった時代にこの音楽を書いたショパンは天才としか言いようがない。そしてそれを見事な抽象画として再現したツィメルマンの演奏の素晴らしさ。僕はこの日のこの演奏は、間違いなくショパン演奏史上に残るに足るものだったと信じる。ツィメルマンがこの曲を録音するかどうかは分からないけれど、録音されれば素晴らしいレコードが人類の歴史に残ることになるだろう。信じ難いような名演だった。

 次のスケルツォも、ツィメルマンらしい演奏。歌うところはよく歌うけれども、華やかさや感傷に傾くことは極力避けられている。速いパッセージの多い曲ではあるけれど、例の粘りのある音色で弾くために華やかさよりはむしろ深刻さや切実さが感じられる。中間部を含めて対位法の扱いも見事なので、極めて構成的で説得力のある演奏になっていた。
 ここで休憩を挟む。既に前半だけで相当な内容の演奏を聴いたという印象。


 休憩の後は、ソナタの三番。若い頃に作曲された二番と違い、三番はショパンの成熟がよく現れた曲。それだけに、音楽が音楽として充分に自立しているので、楽譜通りに弾けば音楽が自然に出来上がり、ピアニストの個性はむしろ出にくい曲のように思える。その点でベートーヴェンの皇帝協奏曲と同じタイプ。

 しっかりした構成と多彩な対位法を、ツィメルマンは第三楽章までうまくまとめていた。対位法の扱いも見事。そして続く第四楽章で、彼らしさが存分に発揮された素晴らしい演奏を聴くことができた。テンポはかなり早く、これまで抑えていた高音をしっかり鳴らして右手の速いパッセージを浮き立たせる。更にすごいのは、同時に左手の音から旋律を浮き上がらせることで、通常とは逆に、左手に主旋律があり、右手が装飾、という音楽に組上げた点。これは対位法を相当意識していないとできることではない。

 音量の点でも、これまで抑え気味にコントロールしていた彼がその制約を一気に外した。ミスタッチを恐れずに、出せる限りのフォルティッシモを鳴らす。力感とテンポ感、リズム感、対位法、それらが異様な迫力の演奏を生み出す。この終楽章は本当に素晴らしかった。

 最後は舟歌。ショパン晩年のピアニズムの粋を極めたとも言える傑作で、僕が最も好きなショパンの曲でもある。ツィメルマンは中庸のテンポで、揺れ動く三度や六度の旋律を豊かに歌わせる。旋律を彩る装飾的なパッセージが水面にきらきらと反射する日光を思わせ、聴く人を寂寥の彼方に誘う。その人が過去の人生で経験した苦しみや悲しみがそっくそのまま水面に映し出されるのを傍目に舟は淡々と進み、そして最後に聴き手の心に深く残るのは、その人が経験してきた人生への究極的な肯定である。
 音楽は人生を表している。このことが直接的にわかる曲であり、演奏だった。


 アンコールはショパンのワルツ嬰ハ短調Op.64-2の一曲。

 全体として、極めて高水準の演奏会だった。
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by voyager2art | 2010-02-23 10:50 | ピアノ

バレンボイム/ベルリン・シュターツカペレ

Daniel Barenboim, conductor&Piano
Staatskapelle Berlin

1月31日(日) Royal Festival Hall
19:45 -

曲目:
シェーンベルク:浄められた夜
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番「皇帝」


 日本では人気が今ひとつのバレンボイムだけれど、ヨーロッパでの彼の人気はすさまじい。チケットはすぐに売り切れ、聴衆は熱狂する。僕はこれは、芸術の表現行為に対する日欧の受容態度の違いだと考えているけれど、それを裏付けるような、興味深く、かつ素晴らしい演奏会だった。

 シェーンベルクの「浄められた夜」は、ウィーン世紀末真っ只中の1899年に作曲された。この頃がどんな時代かと言えば、ウィーン宮廷歌劇場(現国立歌劇場)ではマーラーが芸術監督を務め、クリムトがウィーン分離派を結成し、フロイトが精神分析学を創始した。ウィーンを離れて見てみると、現代物理学の突破口となったアインシュタインの特殊相対性理論や、後に抽象数学の基礎の一つとなったルベーグ積分論なども発表を数年後に待ち、まさに人の文化が大転換を遂げる時期だった。シェーンベルク自身も、それまでの音楽の絶対的な基礎だった和声法を打ち崩し、無調音楽を創始した張本人だ。

 ただし「浄められた夜」自体は、シェーンベルク25歳の頃の作品で、崩壊寸前とはいえまだ調性を残しており,ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」からの直接の影響の見られる、極めて表現的で官能的な作品。弦楽器のみの編成で、リヒャルト・デーメルという詩人の書いた詩に基づいて、音楽は進む。詩の大意は以下の通り。

月の夜に、一組の男女が木立の中を歩く。
女は言う。
私は母となる喜びを求め、見知らぬ男に身を委ねた。
子を孕んだとき自分は祝福されたとさえ思ったが、
あなたと出会い、人生は私に復讐した。
男は言う。
あなたの子があなたの魂の重荷となりませんように。
世界が輝いているのをご覧なさい。
私たちは冷たい海の上を歩いているが、
暖かさが私とあなたの間を行き交い、
それがこの子を浄める。
これによってこの子は私の子となり、あなたはその子を産むのだ。
二人は抱擁し合い、口づけし、またあるき続ける。

 曲は暗い色調で始まる。ベルリン・シュターツカペレ(ベルリン州立歌劇場、日本では「国立」歌劇場という誤訳が定着している)の弦楽器の音は、芯の強い典型的な北ドイツ系の古風な響き。やがて女の独白の部分になると、バレンボイムは極めて強く不安を煽り立て、錯乱状態に近い女の不安定な心理を極めてダイナミックに表現する。バレンボイムのもとで長年ワーグナーを演奏してきたこのオーケストラ、さすがにこういうところの表現を、完璧なアンサンブルで実現する。
 その後の男の独白で音楽は色調を変え、次いで、男の言葉に慰められた女の歓喜が高まってくると、バレンボイムは再び音楽を大きくドラマチックに盛り上げる。二人の感情が絶頂に達すると、その後は清浄な響きの中に曲は消えて行く。

 今までこの曲は実演でも聴いたことがあったし、録音でも時折聴いているけれど、今日の演奏ほど感情の起伏を大きく表現した演奏は初めてだった。恐らく弦楽合奏の表現力の限界まで、バレンボイムは抽き出していたはずだ。そしてその彼の意図を実現するオーケストラ側の実力も素晴らしい。


 休憩を挟んでベートーヴェン。バレンボイムの弾き振り。実はこの「皇帝」という曲は、僕は余り好きではない。その名の通り立派で堂々としている反面,今ひとつ感情の入り込む余地がなくて、馴染めない。しかし今日のバレンボイムの演奏は、極めて生き生きとした表現に満ちていて面白かった。
 どちらかといえば堂々とした曲調を重視する余り、テンポやフレージングが型通りになりがちなこの曲でも、バレンボイムは持ち前の表現力を発揮する。オーケストラをテンポ通りに弾かせておきながら、随所で自分は思い切った「ため」を聴かせる、というのが多かった。
 ベートーヴェンでも初期の曲ならともかく、この皇帝あたりになるとオーケストラパートもかなり高度になってきて、ここまで表現を動かすと普通なら弾き振りでは難しく、指揮者を置くべきところ。しかしそこは長年のコンビ、お互いの信頼関係が相当強いと見えて、オーケストラも全く動揺せずに弾き通す。その上で自在に音楽を動かすバレンボイム。最初から最後までその調子で、極めてダイナミックでライブ感に溢れたいい演奏だった。


 日本ではいまだにフルトヴェングラーやベームなど、昔の正統派の巨匠を偏重する向きが強い。そんな中で、バレンボイムのように表現意欲の強い、くせのある演奏はなかなか人気がでないのも仕方のないことなのかも知れない。
 しかし実演で聴く彼の演奏の面白さは、音楽が人と断絶のある崇高な世界からやってきた絶対的な何かではなく、音楽があくまでも人の営みの一つであって、演奏者と人とのコミュニケーションとして捉えられていることからきている。僕はここに、埋め難い日欧の差を見る。
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by voyager2art | 2010-02-01 09:01 | オーケストラ


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