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ロイヤルバレエ/La Valse/Invitus Invitam/Winter Dreams/Theme and Variations



2010年10月28日(木)19:30 -
The Royal Opera House, London

演目:
 M. Ravel: La Valse
 F. Couperin / Thomas Ades: Invitus Invitam (Against his will - Against her will)
 P. I. Tchaikovsky: Winter Dreams
 P. I. Tchaikovsky: Theme and Variations

出演:
- La Valse
 Bennet Gartside, Kristen McNally, Deirdre Champman 他

- Invitus Invitam
 Leanne Benjamin, Christina Arestis, Edward Watson, Gary Avis

- Winter Dreams
 Tamara Rojo, Laura Morera, Itziar Mendizabal 他

- Theme and Variations
 Sarah Lamb, Steven McRae, Yuhui Choe 他

 ロイヤルバレエによる様々な作品の舞台。何と評していいのか分からないくらい、多様なスタイルの演目の組み合わせ。ちなみにロンドン交響楽団、ロンドンフィルに続いてこれで3日連続。

 僕は演奏会やオペラ、バレエ公演のときに、音楽を聴きながら、あるいは舞台を見ながら、同時にこのブログに書く内容を考えている。そんなことしてると気が散るんじゃないかと思われるかも知れないけれど、自分の考えをまとめながら聴く/見るという作業をやっていると、逆に舞台に集中することができる。ただしそのためにはかなりの集中力を要するので、さすがに3日目ともなると脳がストライキをおこしてしまった。そのため今回は要点のみ。もともと自分の記録のために始めたブログだけれど、今回は本当に記録のみ。

 最初のラ・ヴァルスは、ラヴェルの作品の中でも特に好きな曲なので、実はこれを一番楽しみにしていた。しかしこの曲に付けたアシュトンの振付けは酷いものだった。音楽を表面的になぞっただけの踊りでラヴェルの音楽への冒涜でしかない。この曲と抽象的なダンスを合わせると極めて面白い舞台ができると思うのだけれど、底の浅いエンターテインメント作品になってしまっていた。

 次のInvitus Invitamは打って変わって極めて面白かった。何かのバレエの舞台と、その舞台を作る裏方が交互に現れ、それぞれに一組の男女が登場する。音楽は舞台のシーンのみ演奏され、裏方のシーンでは効果音のみ。この現実と非現実の頻繁な交替が異様に不思議な感覚を生む。それぞれのシーンには当然ながらストーリーがあり、登場する男女はそれぞれそのストーリーの中で何かをやっているのだけれど、見ているこちらにはそれが明かされず、話の前後関係が分からないままにいきなりその話の途中に放り込まれたような印象。それがまた、不思議さを増幅する。
 特筆すべきはトマス・アデスの音楽。クープランの音楽をアデスが編曲したもので、特に3曲あった2曲目は、音楽が進むにつれて、曲がリズムの異なる音の細胞の集合に分解されていき、だんだんモザイク画のようになっていく。それでも元の音楽の姿はモザイクの向こうに残っていて、現代美術をそのまま音楽にしたような、非常に面白い編曲だった。
 照明もとても巧みで、引き締まっていながら豊か。面白かった。
 これがこの日の一番のお気に入りの演目だった。

 冬の日の幻想は、チャイコフスキーの交響曲1番をバックに踊るのかと思ったら、彼の小品をギターアンサンブルとピアノで交互に演奏しながら、チェーホフの「三人姉妹」を踊る、というものだった。残念ながらチェーホフの話を全く知らず、深いところは全く分からなかった。自分の無教養を嘆く。タマラ・ロホの表現力は相変わらずすごい。

 最後の主題と変奏は、古典的な振付けの演目。当初予定されていたコジョカルが降板し、かわりにサラ・ラムが踊った。コジョカルはやはり降板が多いようで、ダンサーとしては若いとは言えない年齢になってきて、怪我と戦い続けているのだろう。いつまで彼女の踊りが見られるのかわからないけれど、とにかく彼女が出る舞台は優先的に観なければと思う。
 サラ・ラムは今まで余りはっきりとした印象を受けたことがなかったけど、ようやく彼女の持ち味が分かった。綿菓子のようにふわりと淡くて軽くて柔らかい印象の踊りをする人。この人は演目を選ぶと思う。
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by voyager2art | 2010-10-30 05:36 | バレエ

ユロフスキ/サラ・コノリー/ロンドンフィルハーモニー管弦楽団

2010年10月27日(水)19:30 -
Royal Festival Hall, London

演奏:
 Sarah Connolly (Mezzo Soprano)
 Vladimir Jurowski (Conductor)
 London Philharmonic Orchestra

演目:
 Mendelssohn: Symphony No.5 in D "Reformation"
 Mahler: Kindertotenlieder
 Brahms: Symphony No.3 in F

 二日続けて当日思い立っての演奏会。前日のロンドン交響楽団の次は、ロンドンフィル。ユロフスキの指揮で、メンデルスゾーンの「宗教改革」、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」、そしてメインはブラームスの交響曲3番。

 最初のメンデルスゾーンは小編成のオーケストラで演奏された。この曲は高校生の頃に好きでよく聴いていたけれど、その後ずっと聴いていなかった。久しぶりなので楽しみにしていたけれど、これが予想を遥かに上回る素晴らしい演奏だった。
 序奏は静かに開始。ただしユロフスキらしく速めのテンポ。弦楽器はビブラートを抑えて、古楽器を意識した響きになっていたけれどこれがとてもきれい。管楽器の合の手はクレッシェンドが大げさで、古楽器を意識したにしてもちょっとやりすぎだったけれど。
 序奏が終わると一気にテンポを上げて音楽がいきいきと流れ出す。ユロフスキの前向きで積極的な指揮が明るい音楽の流れと完全に噛み合って、メンデルスゾーンらしい無垢の歓喜が溌剌とした音楽の流れに乗ってホールを駆け巡り、一点の瑕疵もない音楽の愉悦の時に浸る。弦楽器も管楽器も澄んだ音で重心の高い爽やかな響きを作っていて、超快速テンポにもかかわらずアンサンブルも完璧。ロンドンフィルってこんなに上手かったっけ、とびっくりしてしまった。どの楽章でも弛緩も翳り滞りもなく、最初から最後まで生命感に満ちた素晴らしい演奏だった。

 次は一転してマーラーの「亡き子をしのぶ歌」。僕はマーラー好きだけど、歌曲は今まであまり聴いてこなかった。コンサートの直前に歌詞だけ確認した。
 この日の演奏は、メゾソプラノがやや真面目に歌いすぎてしまった印象がある。どこをとっても破綻のない歌唱だったけれど、何となく楽譜にただ従っているだけのような感じ。この曲集の歌詞には、日常の風景にふと子を亡くした喪失感に襲われたり、子を亡くした苦悩の中で「あの子はいま、神様に守られて心地よい場所に憩っているのだ」と無理矢理自分に言い聞かせて、なんとか自分を納得させようとする親の悲痛な心が語られている。そのたまらない辛さが伝わってくる演奏では、残念ながらなかった。

 休憩を挟んでメインはブラームス。以前も書いたことがあるけれど、僕が初めてユロフスキとロンドンフィルを聴いたときに演奏されていたのがブラームスの1番で、これが奇を衒ったような演奏だったので、このコンビの演奏を聴かなくなった経緯がある。そのため演奏が始まるまでは(かなりの)懸念を持っていて、でも一方ではユロフスキの白熱して猛烈に前進する音楽のスタイルは、ブラームスとも相性がいいはずだという期待も(少しだけど)あった。
 演奏が始まる前に、舞台に上がったオーケストラを見て少し怪訝に思った。バイオリンに比べてコントラバスが多すぎる。第1バイオリンが12人のところで、バスは8人。このサイズなら(第1Vn、第2Vn、Vla、Vc、DBの順で)12人ー10人ー8人ー7人ー6人くらいが普通だと思うけれど、この日は数えてみると12 - 12 - 10 - 10 - 8という低音側に偏った編成。メンデルスゾーンで分かったように、このオーケストラの響きは基本的に重心が高い方に偏るので、それを補正しようという意図だろうと想像した。
 第1楽章は速めのテンポではあったけれど、予想よりも正攻法の演奏。ただし、どこか気持ちが乗り切らないような、何かが足りない演奏。低音側に偏った編成も、響きの重心を下げるというよりは、低音が高音をかき消してしまって、悪い方に作用していた。メンデルスゾーンの演奏が余りに素晴らしかったので、その勢いでブラームスも火花の散るような熱い演奏を期待していただけに、やっぱりユロフスキにとってはブラームスは鬼門なのだろうかと思いながら1楽章を聴き進む。再現部に入っても様子が変わらないので少しがっかりしていたところで、いきなりユロフスキがテンポを上げた。あまりに唐突だったので一瞬頭が混乱したけれど、これを機にオーケストラに一気にエンジンが掛かったのがわかった。それまでの演奏が嘘のように、熱く激しく演奏する。なんだこれはと思う間に、しかし第1楽章は終わってしまった。

 第1楽章の最後の勢いが持続するのか、また元に戻ってしまうのか気になりながら始まった第2楽章。最初の木管楽器の旋律が始まって、最初の音でもう勢いがそのまま続いているのが明瞭に分かった。音が素晴らしく歌っている。この楽章と続く第3楽章は、ユロフスキは盛んにテンポを変化させながら、しかもそれによって音楽の流れが細切れになるのではなく、逆に音楽にいきいきとした生命感を与えるのに完璧に成功していた。しかもブラームス特有の寂寥感も一切損なわれることがなく、素晴らしい演奏だった。オーケストラの演奏もかなり高いレベルで安定し、豊かな表情とよく流れる旋律で指揮者に応える。このあたりからはバイオリンがよく鳴り出して特異な編成もうまく機能し始め、この中間2楽章の演奏は、この曲の演奏として出色のできだったと思う。

 第2楽章から終楽章まではアタッカ(楽章の間に切れ目を入れない)で演奏され、終楽章もそれまでの楽章の流れを引き継いだまま、やはり速めのテンポで開始。その前の楽章とは異なり、ユロフスキは終楽章ではテンポを揺らさず、一直線に激しく前進する。ただしテンポを揺らさないとは言っても、音楽が進むにつれてほんのわずかずつ加速を繰り返し、音楽が弛緩することを防いでいた。その流れのままストレートにコーダに入って、非常に素直に演奏を終える。この組み立ては見事で、中間2楽章との対比もあって、非常に後味の爽やかなブラームスとなった。

 この日の演奏を聴いて、僕はようやく完全にユロフスキの音楽の魅力を納得することができた。今でも実力はロンドン交響楽団やBBC交響楽団の方が上だとは思うけれど、技倆と演奏の面白さが必ずしも比例するとは限らないのが音楽の奥深さ。今まで避けてきたロンドンフィルの演奏会、これからは通う頻度も上がることになるだろうと思う。
 忙しくなるなあ。
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by voyager2art | 2010-10-28 07:50 | オーケストラ

ジャナンドレア・ノセダ/ジェイムズ・エイネス/ロンドン交響楽団

2010年10月26日(火)19:30 -
Barbican Centre, London

演奏:
 James Ehnes (Violin)
 Gianandrea Noseda (Conductor)
 London Symphony Orchestra

演目:
 Ian Vine: Individual Objects
 Bartok: Violin Concerto No.2
 Prokofiev: Symphony No.6


 休暇明けの最初のコンサートは、ジャナンドレア・ノセダ指揮のロンドン交響楽団。当日になって行くことを決めた。プログラムはCDですら聴いたことのない曲ばかりで、相当マニアックと言っていい演目。指揮者もソリストも初めて聴く人たちで、僕にとっては本当に初物づくしの演奏会。でも久しぶりにロンドン交響楽団の音が聴きたかったのに加え、普段聴かない曲を聴くのも新たな世界を知るきっかけになって面白いだろうと思い、足を運んでみた。最近、芸術上の好みが急速にラディカルな方向に変化しているのを自分でもはっきりと感じている。

 最初の曲の作曲者Ian Vine(イアン・ヴァインと発音するのだろうか?)は、僕と同い年の1974年生まれらしい。曲は、弦楽器を主体としてやや強めの音量で奏される和音と、管楽器を主体として非常に弱く奏される和音が繰り返し繰り返し交替するというもの。解説によれば、毎回の和音は弦・管のそれぞれのグループで同じように響くけれど、実は細部においては毎回少しずつ異なっていて、同一の和音は決して再現されることはない、という趣向らしい。アメリカのAllan McCollumという人の現代美術作品に影響を受けたものなのだそうだ。
 アイデアは面白いと思うけれど、作品としては印象が弱かった。毎回の変化が微妙すぎて、粗雑な僕の耳には変化が捉えきれず、本質的には結局同じことをひたすら繰り返しているだけのように聴こえてしまう。何かの曲の一部として採り入れるにはいいと思うけれど、これだけを単体で聴くとあくまでも実験としての水準に留まっているように思えた。

 続いてバルトークのバイオリン協奏曲第2番。はじめにも書いたとおり、僕はこの曲を今まで聴いたことがない。そもそもバルトークという人の音楽自体を僕はあまり聴かないので、どんな音楽なのか楽しみにしていたけれど、バルトークとしては柔らかめで聴きやすい音楽だった。
 冒頭の素朴でシンプルな序奏に続いて、バイオリンがG線の太い音で力強く入ってきたところは極めて印象的で、その後の演奏に大いに期待を抱いたのだけれど、良かったのはそこまで。エイネスというバイオリニストは並大抵の技術の持ち主ではなく、どんな難所でも絶対に崩れない。これはもう本当に驚異的で、今まで聴いたバイオリニストの中でも技術面ではダントツで優れている。ところが音楽の表現となると、これが淡白を通り越して空虚と言っていいほど素っ気ない。どんな旋律でも、それが難しかろうが易しかろうが、表面上はそつなく歌わせているようでいて、実際にはただ見かけを上手くまとめているだけのように僕には聴こえる。技術的に難しいところや音楽自体が盛り上がるところでは、見事に安定した音に感心はするものの、音楽が落ち着いてくると表現の乏しさがすぐにまた現れてくる。生意気なことを言うようだけれど、この人はソリストとして活動するにはイマジネーションが乏しすぎる。
 このバルトークの演奏で面白かったのは、ソロバイオリンが休んでオーケストラだけが演奏している部分だった。


 休憩を挟んでプロコフィエフ。プロコフィエフもまた、今まであまり聴いてこなかった作曲家だ。一応アマチュアオーケストラをやっていた身としては、交響曲の1番と5番くらいは聴いたことはあるし、実は7番を演奏したこともある。ピアノソナタの8番はピアノ好きとしてはたびたび耳にするし、アルゲリッチの弾いたピアノ協奏曲の3番は本当に素晴らしかった。ただ、プロコフィエフの音楽にある独特の人工感が今まで好きになれなかったのだ。しかし、この日の演奏は本当に面白かったし、プロコフィエフを聴くきっかけがつかめたように思った。

 第1楽章は、何か不安げで孤独な音楽。個々の旋律や和声よりも、それらが総体で醸し出す雰囲気が強く印象に残る。ここというところで音楽を盛り上げながら進む、というのではなく、何か不自然なぎこちなさを残しながら音楽の断片が次から次へと移り変わって行くような曲だった。この楽章の途中でふとブラームスの交響曲3番を思い出した。音楽を季節で表すと秋。それも冬のにおいが立ちこめる晩秋。
 同時にこの楽章で強く感じたのが、音符に書かれ演奏されている音楽と、それを書いたプロコフィエフ自身の心理の間の埋め難い断裂のようなもの。音楽の書法自体は、プロコフィエフらしい人工的な響きを伴ったものなのだけれど、その書法を使えば使うほど、心の奥深くに注意深く隠したはずの本当の人間臭い感情との距離が広がり、その断層がきしみながら明瞭な裂け目となって立ちのぼってくるようだった。

 第2楽章はまるで別の交響曲の第1楽章のように始まった。ここでも音楽は、そこで直接語っていることと実際に表現されていることの間に深い断裂を示す。オーケストラの演奏を聴いていて、これほどまでに実際の音ではなく、その奥の「人間」を聴いている気になったのは初めてだった。何か圧倒的な深みのあるものが、音楽の背後に不気味な巨大さでうずくまっているのを感じずにはいられなかった。それが正確に何なのかははっきりとは分からない。でも、何か捉え難い闇が音楽の向こうにある。

 第3楽章は軽やかで明るい、上機嫌のプロコフィエフ。それまでずっとあった断裂がすっと消えて、本当に愉快に楽しい雰囲気で始まる。ところがここでも、そのうち音楽が不自然に疎になり、上滑りし始める。そうなるともう、同じ裂け目がまたこの楽章を支配してしまう。ときどき思い出したように上機嫌に戻るけれど、しばらくするとまた裂け目に覆われて、どうしても逃げられない。そうしてそれを何度か繰り返した後に、コーダではそれまでうわべだけでも取り繕っていた演技をかなぐりすて、とうとうその断裂自体をつかみ出し、さらけ出すような激烈な和音で音楽を終わる。

 僕はこの裂け目が、プロコフィエフが意図して表現したものかどうかよく分からない。プロコフィエフはあくまでも器用に音楽を書いたつもりで、終楽章のコーダの和音も単に効果として書いただけなのかも知れない。そしてまた、指揮者がこの断裂を意識して表現していたのかどうかも、いま一つ確信が持てない。ただ、僕はこの日の演奏を聴いていてそれを極めて強く感じずにはいられなかった。

 ちなみにこの日指揮をしたノセダという指揮者は極めて優れた音楽作りをするひとだった。つねに情熱的な指揮をして、演奏が単調になることが全くない。動きには多少コミカルなところもあって、音楽が激しくなると体を一生懸命動かすのだけれど、それが大相撲の高見盛のような、ロボットのようなぎこちなさを伴ううごきになったりもする。ただ、そうでないときの指揮は、体を深く沈めたりしながら、手先だけでなく体全体を使って、しなやかに巧みに、表情豊かな指揮をする。
 この指揮に応えるロンドン交響楽団も素晴らしく、指揮者の動きに実に敏感に反応して極めて音楽的な演奏をしていた。この両者の組み合わせは是非また聴いてみたい。
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by voyager2art | 2010-10-27 07:54 | オーケストラ

ピカソ/ゲルニカ

ソフィア王妃美術館(マドリッド)

 休暇でしばらく旅行していて、帰ってきたと思ったらいきなりスペイン出張が入った。でもスペインは大好きな国なので(仕事でしか行ったことがないけど)これはありがたい。日程の都合で到着が夕方の早めの時間だったので、これ幸いとばかりにソフィア王妃美術館へ。とにかくゲルニカだけを目標に突き進んだ。

 美術館の入り口でゲルニカが2階にあることを聞いたら、エレベーターを待ちきれず階段を早足で登った。そして展示場へ進み、いざご対面。

 話に聞いていたとおり大きいゲルニカ。第一印象は、何と言ってもその表現が一点の曇りもなく開き切っていることだった。強烈な怒りと憤りと悲しみが、何に妨げられることもなく最短距離で一直線に見ているこちらに届いてくる。死んだ子を抱いて慟哭する母親、鳴き叫ぶ馬、戦闘で首も手も切り落とされた兵士など、ここに描かれた全てが戦争の残虐さの明確で悲痛な告発である。しかし同時に絵画表現の点ですべてにおいて無駄がなく、余りにも直截的にその内容が明示されているので、戦争を題材としていながらもドロドロとした血腥さが濾過されてしまい、見ていると白くて強い光を放っているような印象さえ覚える。

 この直截的な表現という点については、隣の部屋に展示されていたピカソ自身による何枚ものスケッチから、その理由が手に取るようにわかった。大きなゲルニカの中に描かれた一つ一つのモチーフについて、ピカソは入念に準備している。死んだ子を抱いた母親を例にとっても、その母親の悲痛極まりない慟哭の表情を何度も描く。最初は線が多く説明的だったその描写が、スケッチを繰り返すにつれて急速に単純化されていく。単純化されるのは、しかしその技法としての描き方のみで、そこに描かれたものに込めたピカソの感情は、描き方が単純化された分だけよりストレートにこちらに伝わってくるようになる。
 構図も含めた全ての要素について、ピカソはこのプロセスを展開している。どのモチーフもまるで魔法のようにみるみるその表現の純度が上がっていくのは圧巻だった。これこそが抽象化の王道であって、かつピカソの圧倒的なすごさというべきなのだろう。

 そして更に背筋の震えるような思いをしたのが、ゲルニカ本体の制作過程を順次追った10枚ほどの写真だった。下書きの線画の段階から、徐々に絵が完成していくまでの様子を収めた写真が、時系列に従って並べられていた。その最初の線画が、最終的に出来上がったゲルニカとは、細部においてまるで違うのだ。もちろん大筋での構図やモチーフはほぼ共通している。しかし、描き進むにつれて人の向きが変わり、モチーフが加えられ、削られ、途中まで描いた牛の体が、当初の予定とは完全に反対側に無理矢理置かれたり、とにかく恐ろしくダイナミックにその絵が変化していく。
 事前に個々の要素を緻密に洗練させておきながら、絵を描く段になってもまだ変化を厭わない。ピカソのとんでもない創造性を垣間見たと思った。

 ピカソがこの絵を描くきっかけになったのが強い憤りだったことは明白だ。しかしその契機が感情的であっても、それを描くピカソは衝動的ではなかった。そして彼は冷静さを保ちつつも尽きることのない創造性の中にいた。創作活動の真髄を見せつけられる思いがした。

 岡本太郎が「美の呪力」(新潮文庫)という本でピカソとゲルニカに触れている。ゲルニカを実際に見て、ようやくその理解の糸口を捉まえたと思った。少し長くなるけれど、以下にその記述を一部引用する。

「先ほど言ったように怒りをエネルギーの放射・発散であるとすれば、たしかに『ゲルニカ』は稀に見る純粋な表現であると思う。ナチによるゲルニカの無差別爆撃というものがモチーフになっているが、そういうものへの直接的憤りが、絵を描いているうちに昇華され、芸術表現による遊びが浮び出てくる。もちろんその遊びは言いようのない緊張感だ。激しい怒りそのものが遊んでいるのだ。」

「いずれにしてもピカソの作品はあくまでも激しいと同時に冷たく、微妙な計算の上で炸裂している。そこに同時に遊びがあるのだ。怒りながら、瞬間に自分を見返している。常に見返していなければ本当の芸術家ではない。自分を失い、我を忘れた狂奔は怒りではない。芸術ではない。憤りというのは、今も言ったように、セッパつまっているようでありながら実は遊んでいるのである。憤りこそ最高の遊びだ。」

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by voyager2art | 2010-10-24 05:22 | 絵画

ロイヤルバレエ/オネーギン

2010年9月30日(木)19:30 -
The Royal Opera House, London

演目:
 P. I. Tchaikovsky / Kurt-Heinz Stolze: Onegin

出演:
 Tatiana: Alina Cojocaru
 Eugene Onegin: Johan Kobborg
 Olga: Akane Takada
 Lensky: Steven McRae
 他

 クラシック音楽の世界では通常は7月と8月がオフシーズンとなり、公演がなくなる。とはいえロンドンではプロムスがその2ヶ月間ずっと開催されていて、結局毎日何か演奏会があるという状態が年がら年中続くことになる。ただしオペラとバレエはロイヤルオペラハウスが夏休みの間は見ることができなくなるので、今回は久しぶりのバレエ公演。オネーギンというバレエは初めてで、主演のコジョカル目当てに出かけた。

 このオネーギンについては事前にストーリーをネットで調べてみたのだけれど、これがあらすじを読んでも何が面白いのかさっぱりわからない。たとえば、Wikipediaでの原作の解説はこちらバレエの方は多少ストーリーが変更されている。
 これを読んで面白い話だと思う人はまずいないだろう。それでもコジョカルが踊るからということでチケットを買ってみた。ちなみにWikipediaの解説にもあるとおり、ここではチャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」の音楽は使われていない。この点も、事前の印象としてマイナスだった。でも、コジョカルが踊る。

 バレエが始まると、いきなり最初のコール・ド(群舞)でひとり転倒したり、コジョカルも最初の方でちょっとつまづきかけたりと、今までロイヤルバレエでは見たことのないようなミスが続いて不安になる。それでも、その後は普通に進み、コジョカルも次第に普段の調子に戻って素晴らしい表現力を発揮し始めた。

 第1幕では、オネーギンに惹かれながらも彼のつれない態度に戸惑い、近づきたいけれど近づけないタチアナの躊躇いの表現が素晴らしい。こういう心理描写の上手さはコジョカルの独壇場、と言いたいところだけれど、オネーギン役を踊ったヨハン・コボーの演技も冴え渡っていた。心の奥に孤独な虚無の穴がぽっかりと大きくあいたオネーギンの倦怠感と厭世観がにじみ出てきて舞台を覆い尽くす。このコボーの演技を見て、急にこの話の魅力が見えてきた。オネーギンという人間はどうしようもなく嫌な人物として描写されているけれど、その心の闇と空隙は普遍的に誰しもが持ち得るもので、程度の差こそあれ人がどうしても避けることのできない暗さであり醜さだ。そこの強烈に光を当てることで、その不可避の醜さが逆に底光りするような迫力で物語の暗い魅力を浮かび上がらせ、人の心理の奥深さを際立たせる。
 第1幕の後半では、タチアナが寝室でオネーギンへの想いを手紙にしたため、そのまま気持ちが高ぶってきて、鏡の中から現れたオネーギンの幻と情熱的な踊りを踊る。この踊りがまた、非常にダイナミックで緩急に富んだ素晴らしいものだった。

 第2幕でもコボーのオネーギン役が素晴らしい。タチアナから受け取った手紙を彼女の前で破り捨て、彼女をつれなくあしらうかと思えば、友人のレンスキーの許嫁であるオリガにちょっかいを掛けてレンスキーを苛立たせ、最後には激怒させて決闘を申し込まれてしまう。このどうしようもない嫌な人間ぶりの奥には、しかし見ているこちらが悲しさを覚えずにはいられないまでに、ふたたびオネーギンの心の闇と虚空が透けて見える。決闘で平然と友人を撃ち殺すオネーギンという役に、再び人間の心理の奥深い闇を突きつけられる。

 第3幕でのオネーギンの変化は、前の二つの幕からは少し意外な印象を受けるかもしれない。急に「人間的」になるからだ。決闘から数年経ってタチアナに再会したオネーギンは、初めて彼女の魅力と自身の彼女への愛に気付く。友人を殺したという事実が何年にもわたって彼の心に与え続けた重みが、オネーギンを遂に人間的な心の持ち主に変える。しかしその「人間味」は彼を幸せにはせず、むしろ自分の感情に抵抗できない心の弱さを彼に与えただけだった。コボーは今度はオネーギンの心の奥底の、それまで闇と虚無に固く守られていた脆弱さ、しかし守りを失って今度は直接外界に晒されることになったその脆弱さを浮き彫りにする。
 オネーギンの求愛を拒むタチアナを演じるコジョカルの踊りも素晴らしい。一方的に冷酷にオネーギンを拒絶するのではなく、矜持と尊厳を保ちつつもかつての恋心を思い出して揺れ動く心理を克明に描写する。この心理がはっきりと表現されたために、最後に彼女がオネーギンからの手紙を彼の前で破り捨てるシーンが十分なインパクトを持って活きてくる。

 人の心理の複雑な奥深さに光を当てた優れた物語と、それを見事に踊りで表現した優れた舞台だった。この原作は必ず読まなければ。
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by voyager2art | 2010-10-02 19:29 | バレエ


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