<   2010年 11月 ( 12 )   > この月の画像一覧

ポゴレリチに関する雑感

 先週のポゴレリチの演奏の衝撃が抜けない。どうしても気になって色々と調べてみた。そうして感じたことをとりとめもなく書くことにした。

 ポゴレリチといえば、まず何と言っても有名なのは1980年のショパンコンクールでの「ポゴレリチ事件」だろう。彼が一次予選を通過したことに抗議して、審査員の一人だったルイス・ケントナーが審査員を辞任。次いで、彼が本選に進めなかったことにアルゲリッチが猛抗議して、「彼は天才」と言い放って審査員を辞任した。このアルゲリッチの発言はコンサート主催者やレコード会社の格好の宣伝文句となってしまって、今も安易に使われ続けているのには呆れてしまうけれど、とにもかくにもこれで彼が有名になったことは間違いない。
 ただ、これよりは知られていない事実で(といってもかなり有名だけど)、かつ彼にとって遥かに重要な、というよりは、彼の人生で唯一と言っていいほどの決定的な影響力をもった出来事なのだろうと推測されるのは、彼が自分より21歳年上で、自分のピアノの師でもあったアリサ・ケゼラーゼと結婚し、その最愛の妻が結婚から16年後(1996年)に癌で亡くなったという事実だ。ケゼラーゼの死の後も演奏活動を続けたポゴレリチだったけれど、更に4年後に今度は父が亡くなったことをきっかけとして重い神経症を発症してドクターストップ。療養のため演奏活動をしばらく休止したという。この後、彼は別の女性と再婚したが、3年後に離婚した。
(このあたりの事情はこちらのサイトに非常に詳しく記載されていて、大変参考になった。)

 僕は普段、他人のゴシップ記事には全く興味を示さない人間なのだけれど、このポゴレリチの経歴(というか私生活面)にはどうしても踏み込まない訳にはいかない。というのは、彼が神経症を病んだ前後で、決定的に彼の演奏が変わったと思うから。
 彼はケゼラーゼの死後、一切CDを録音していない。今回彼の演奏に衝撃を受けて、いくつも彼の録音を購入して聴いてみたけれど、それらは全てケゼラーゼの存命中の録音。どの演奏ももちろん独特だし、たとえばブラームスの独奏曲なんかを聴いていると、極端におそいテンポをとったり、あるいは他人には理解できない独白や、唐突な怒りの爆発のような音楽を彼は演奏している。そういう意味で、もともと彼に極めて内向的な性向があったのは間違いない。それでも、これらの録音からは、たとえ陰鬱な音楽を演奏するときでも、彼が究極的には希望の存在を肯定していることが明瞭に読み取れる。その点で、先日の絶望に塗りつぶされた彼の演奏とは決定的な差があるのは明らかだ。
 また、これはあまりあてにならないのだけれど、僕は彼の実演を1999年に日本で聴いている。随分前のことなので彼の演奏についてはテンポの遅さ以外に何も覚えていないのだけれど、先日の演奏のような絶望感を感じることはなかったように思う(ただしこれは本当に自信がない)。
 こういうことから考えて、彼が最愛の妻の死と、その後の父の死によって極めて深刻で危機的な心の傷を負ったことはまず間違いない。そして今の彼の演奏は、その心の傷をそのまま掴んで突き出してきたような暗さと辛さと絶望に満ちているのだ。前回の演奏会のレビューで、彼の演奏が我と我が身を傷つけているような音楽で、演奏すること自体が自身を傷付ける行為のようだという印象を書いた。彼の経歴を知ると、改めて演奏という行為が彼にとっては危機的な行為なのではないかと思わずにいられない。もしかしすると彼は、亡き妻との何かの約束を果たすために、自分が傷つくことを承知で演奏を続けているのではないかとも思った。もしそうだとすると、凄絶としか言いようがない。

 彼の演奏が芸術としての意義を持つか、ということについても改めて考えた。少なくとも、一般的な意味でのクラシック音楽の演奏の枠組みからは完全に逸脱しているし、そこに表現されているものは狂気と絶望で塗りつぶされた世界であって、そこには何の慰めも救いもなかった。彼はチャイコフスキーの協奏曲を弾いたけれど、チャイコフスキーの作品はあくまでも彼が狂気と絶望を吐露するための契機に過ぎず、チャイコフスキーが作品に込めた感情や表現は完全に無視されている。これは演奏者として許されることなのか。
 ここで逆のケースを考えてみる。あるピアニストがチャイコフスキーの協奏曲を、創造の歓喜に満ちた音楽として演奏したとする。どこをとっても純粋な喜びに溢れている演奏。そういう演奏だと、おそらく多くの人に好意的に受け入れられるだろう。もちろん、チャイコフスキーの協奏曲はそういう音楽だから当然だろうと言われるかもしれない。でも、なぜそれが当然なのか。逆に絶望に満ちた音楽だったらだめなのか。
 それが作曲者の意図だから、というのは回答にはならない。現代においては、作曲家の意図に忠実な演奏であることが一つの規範であるかのように語られているけれど、全ての演奏家がそれぞれに趣向を凝らして演奏している現実、そして聴衆もそれぞれに好みの演奏家を支持している現実を考えると、それが単なるお題目に過ぎないことは明らかだ。そもそも僕は、唯一絶対の音楽、唯一絶対の演奏などという考え方は芸術に対する死刑宣告でしかないと思っている。芸術は、過去に創造された傑作を乗り越えることで発展しているからだ。

 クナッパーツブッシュと言う名指揮者がいた。彼がウィーンフィルを指揮してレオノーレの序曲の3番を演奏した映像が残されている。この演奏のテンポがびっくりするほど遅い。でもみんな、「クナッパーツブッシュだから」と許容している。一方で、現代の指揮者の中には、この曲をクナッパーツブッシュの倍も速いテンポで演奏する人がいるはずだ。つまり、テンポについては倍半分の振幅は許されるケースがあるということになる。
 テンポは表現の手段であって、その手段の違いと演奏の表現そのものの違いは別ものだ、と言う人もいるだろう。でも、テンポが違うことによって聴こえてくる音楽が違うことになること自体は間違いない。ここから言えるのは、程度の差はともかく同じ音楽から違う表現が聴こえてきても許されるということだ。では、どの程度の差までが許されるのか。
 ここから先は、価値観や信念の話になるだろう。僕は、許容範囲は無限だと思っている。最も過激なスタンスだけれど、僕はその演奏が何かを本気で表現している限りにおいて、それは芸術として許容されるべきだと考える。

 ただし一つだけ断っておくと、芸術として受容することと、その芸術作品に対する僕自身の(あるいは一人一人の鑑賞者の)好みとはまた別の話だ。これはちょっと紛らわしくて、誤解を招きやすい点かも知れない。
 芸術の善し悪しの判断と好き嫌いの判断は、ともに(ある程度以上は)主観的なものなので厳密な切り分けはできない。でも、芸術として受容するからそれが好き、あるいは嫌いだから芸術とは認めない、というのは話が単純に過ぎる。例えば今回のポゴレリチの演奏について、あれが好きかと訊かれると、僕の答えは恐らくNoと言う方がより正確だろうと思う。あまりにも絶望感が強すぎて、簡単に「あれが好き」などと言える代物ではない。でも、また聴きたいかと言われれば(頻繁にでなければ)聴きたいと思うし、芸術として認めるかと訊かれればYesだ。そしてまた同じ論理で、ポゴレリチの演奏を嫌う人がいることも当然あり得ることだと思う。

 こういう議論は現代アートの分野で盛んにやられていることではないかと思う(僕は「クラシック」音楽でももっと活発にやっていいと思うのだけれど)。今回のポゴレリチの演奏は、チャイコフスキーを題材にして現代アートの分野に踏み込んだものだったと思うし、それはまた、「クラシック」音楽が現代において生きた価値を持つ芸術形態であることを明確に主張した事件でもあったと思う。
[PR]
by voyager2art | 2010-11-30 07:56 | 雑感

さまよえるイギリス人/ヘフリガー & ヘルビッヒ & ロンドンフィル

Andreas Haefliger (Piano)
Günther Herbig (Conductor)
London Philharmonic Orchestra

2010年11月26日(金)19:30 -
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London

Mozart: Piano Concerto No.25 in C
Bruckner: Symphony No.9

 ロンドンフィルの演奏会の情報を調べていたときに、ギュンター・ヘルビッヒという名前に出くわしてちょっと驚いた。この指揮者によるメンデルスゾーンの真夏の夜の夢のCDを持っているので名前は前から知っていたけど、昔の時代の人だとずっと思い込んでいた。御歳78歳。まだ現役だったとは。最近寒くなってきてちょうどブルックナーでも聴きたいと思っていたところだったので、迷わずチケットを購入。

 この演奏会の前半はモーツァルトのピアノ協奏曲。何を隠そう、僕はコンサートでモーツァルトを聴くのが大の苦手。モーツァルトの音楽が嫌いなのではない。聴いていると気持ちよくて、必ず寝てしまうのだ。撃沈率は恐らく7〜8割じゃないかと思う。しかも今日は金曜日。更に今週は、既にアリーナ・イブラギモヴァの素晴らしい演奏会と、昨日の凄まじいポゴレリチの演奏を聴いて、充分にお腹いっぱいになっている。戦う前から勝敗は明らか。それでも、とりあえずちゃんと演奏を聴き始めた。

 第1楽章の明確でスタイリッシュな序奏を聴いて驚いた。もっと時代がかった演奏をするのかと思っていたので、実に爽やかで若々しいモーツァルトが流れてきて意外だった。きびきびとしていてよく歌う。その後で入ってきたピアノは、草書体でリズムを崩した弾き方。なのに何だか歌が聴こえてこない。色気の乏しいソロだな、と思ったあたりまでは覚えている。ここで陥落。
 その後は断続的に目を覚ますものの、一分と持たずにすぐに陥落を繰り返す。気がつくと演奏が終了していた。(全国のヘフリガー・ファンの皆様、すみません。)


 休憩時間にはちゃんとコーヒーを飲んで目を覚まし、お目当てのブルックナー。
 序奏は結構あっさりとしていて、日本の熱心なブルックナーファンの人たちが好むような、むやみに神秘的なスタイルとは全く異なる。それでいて、ちゃんとブルックナーの音楽は鳴っている。ただ、全体としてはいつものロンドンフィルらしく音の重心が高い。特にチェロ・ベースの低音楽器陣がしっかりと鳴らないので、どうも不安定で物足りない響きになってしまう。
 音楽が進むにつれて、ヘルビッヒはかなり積極的にテンポを動かす。これにロンドンフィルがついていけない。アンサンブルは乱れ、とにかく指揮者の指示にやみくもについていくだけで、音に全く自信がない。自分たちが今どこにいて、どこに向かおうとしているのか全く理解できないまま、右を向けと言われたから右を向き、前へ進めと言われたから前に進んでいるだけだということが、残念ながらはっきりと伝わってきた。
 ロンドンフィルは普段の演奏会でブルックナーを演奏することはほとんどない。ロンドンフィルに限らず、ロンドンではブルックナーはほとんど演奏されないのだ。一方のブルックナーの音楽の方はといえば、聴こえてくるよりも遥かに複雑な譜面で、しかも音楽が長大ときているので、慣れていないとなかなか演奏も大変。ヘルビッヒも、ドイツのオーケストラを指揮するのだったら、オーケストラの方がブルックナーに慣れているから、変化球のところだけしっかり指示すれば演奏が成り立つのだろうけれど、ロンドンフィルではそうはいかない。かなり細かく指示を出しながら一生懸命にオーケストラを引っ張るけれど、どうにもならないという感じ。2楽章のスケルツォのように、比較的音楽がシンプルに構成されているときはいいけれど、両端楽章のように複雑で長い音楽になるとすぐに崩れてしまう。
 ヘルビッヒのかなり大胆なアゴーギク(テンポの意図的な変化)は、恐らく狙い通りに決まっていれば非常に効果的に音楽を面白くしていたと思う。そしてダイナミックにテンポを動かしつつも、彼は一貫した音楽の流れを意図していたように僕は感じた。伝統に根差しつつ、古ぼけていない生きたブルックナーを、彼は目指していたに違いない。しかしそれを聴き取るには、ロンドンフィルが力不足だった。恐らく、あと1回でも多くリハーサルをやれていたら違っていたとは思うけれど、残念ながら今回は、完成品の水準に達しないまま本番になってしまった演奏会だった。
[PR]
by voyager2art | 2010-11-27 08:42 | オーケストラ

虚構の現実の幻影/ポゴレリチ & ソヒエフ & フィルハーモニア管弦楽団

Ivo Pogorelich (Piano)
Tugan Sokhiev (Conductor)
Philharmonia Orchestra

2010年11月25日(木)19:30 -
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London

Lyadov: The Enchanted Lake
Tchaikovsky: Piano Concerto No.1
Shostakovich: Symphony No.5 in D minor


 2週間前の演奏会で聴いたソヒエフとフィルハーモニアの顔合せ。前回は酷評したけど、今回はどうだろうと気になっていた。ソヒエフはショスタコーヴィチの5番を得意としているようなので、いい演奏が聴けるかもしれないと期待して行った。が、今日の演奏会、予想もしなかった展開となった。
 あらかじめ断っておくと、今日の記事は極端に主観的な印象について書いている。恐らく一般性は完全に欠いているけれど、音楽なんてどう頑張っても主観から逃れられるものではないので、気にせずに僕が感じたことを書く。

 リャードフの作品の邦題は「魔法に掛けられた湖」。初めて聴く曲だったけれど、印象派の風景画のような、どこまでもきれいな情景を描いた作品。目立ったクライマックスもなく、ゆったりと音楽が流れて終わる。旋律の息の長い歌わせ方は良かったけれど、この曲だけで指揮者の音楽を判断するのはちょっと無理だ。

 続いてチャイコフスキーの協奏曲。ポゴレリチは楽譜を後ろ手に舞台に現れた。何やら異様な雰囲気を漂わせていたけれど、演奏は異様どころでは済まない凄まじいものだった。
 冒頭、有名なホルンの主題に続いて弦楽器が雄大な旋律を奏でる。そこで低音から高音に向けて何度も和音を上昇させるピアノ。このピアノが、普通この曲で聴かれるような輝かしさとは全く無縁。猛烈な音量で、粗暴なまでの素っ裸な響き。一切の飾りがなく、真っ黒で絶望に満ちた音楽。ここからひたすら、ゴッホの絵のような、人間の心の奥に潜んで消すことのできない狂気と絶望の音楽が繰り広げられた。まるで我と我が身をひたすら痛めつけて自らその傷口を開き、そこから滴る自分の血で絵を描き上げていくかのよう。救いも何も無い、ひたすら絶望だけの世界。
 ピアノパートが休みになって、オーケストラだけの部分になると心底ほっとする。そのときだけは、聴いているこちらに希望と光が戻ってきたような感じがしたからだ。しかしそこにまたピアノが入ってくると、たとえそれがオーケストラの奏でる旋律を装飾するだけのものであっても、その光が翳り、希望に不安が漂い始める。そして、ピアノが主導権を握ると再び音楽は狂ったように絶望の世界を突き進む。途中でピアノが対位法的に構成された譜面を演奏する部分がある。そこで聴こえてきたのは、相互に影響を与え合う二人の人間の姿ではなく、止めようもなく分裂していく一人の人間の精神だった。
 彼はなぜ音楽を演奏しているのか。演奏するごとに、一つの音を弾くたびに、彼はその身と心に傷を負っていくように思えてならなかった。そこにカタルシスは兆候すら見出せない。

 第2楽章はフルートの清楚な旋律で開始されるけれど、ピアノが入ってくるとまた暗く塗りつぶされる。ポゴレリチにとっては、どんなに明るくて美しい旋律も、決してそれが手に入ることが無いことが分かっている無情さの象徴か、そうでなければ道化でしかない。そしてそれは結局、自分自身の傷口を再び自ら開く結果にしかならない。チェロがソロで主題を弾いているときに裏でピアノが繊細な和音を細かく弾き続けるところがある。かすかに青白い絶望の光を放つピアノの、静かでぞっとするような不気味な美しさ。チェロの優しい旋律とはまるで違う世界に住んで、遥かに遠くから、その優しさに到達できるという希望を一切持たずに、あるいは世界から気付いてもらえるという望みすら無く、ただ弾き続ける。振り返ると、もと来た道に自分の傷口から滴った血のあとが点々と連なって見える。

 第3楽章も再び道化だ。活発な舞曲のような音楽を、強烈にデフォルメされたアクセントをつけて演奏する。そこに喜びはない。道化役を演じれば演じるだけ自分は傷つき、しかも周囲の世界はそんな自分に気付きすらしない。それでも、自分が傷つくことを知りながらなお、取り憑かれたように執拗に道化芝居を続ける。最後の最後で、残酷な無邪気さで高揚する世界に対し、彼は敢然と戦いを宣言する。しかし次の瞬間、彼を無視して高揚する世界と合わせて、彼は再び何事もなかったかのように道化芝居を始める。まるで、さっきの戦いの宣言すら何かのパロディーであったかのように。そしてそのまま曲が終わった。


 休憩時間に、ロイヤルフェスティバルホールのバルコニーに出た。とにかく頭を冷やしたかった。こんなに、心の底から揺すぶられるような芸術に触れるのはめったにあることではない。救いようのない絶望の臭気を放つ演奏。芸術が美しくある必要はない。人間の苦しさと醜さを突き詰めたこの何かも、やはり人間の真実である。頭の芯までジンジンと痺れていた。寒い中にいても、体が冷えるばかりで頭の方は熱いまま一向に冷めない。

 気分転換ができず、心の中にチャイコフスキーを完全に引きずったまま、舞台ではショスタコーヴィチが始まった。ソヒエフは前回と違って、オーケストラにしっかりと指示を出し、一生懸命指揮していたと思う。でも、僕がそこに乗っていける状態ではない。ソヒエフがテンポを揺らし、オーケストラを乗せれば乗せるほど、僕にはそれが虚構にしか聴こえない。さっきまでポゴレリチとあんな演奏をしていたのに、どうしてそんなにすぐに「普通の」世界に戻ってしまえるのか。そんな言いがかりのような感想しか持てない。特に2楽章は嫌悪感しか感じないような、徹頭徹尾ウソで作り上げられたような音楽に聴こえた。もっともこれは、ソヒエフのせいではなくショスタコーヴィチの音楽によるものだろう。それも、ショスタコーヴィチがソ連当局と表面上は協調している風を装ったためだろうと思うけれど。
 僕が「正常な」精神状態で聴いていたら、この日の感想もずっと違っていただろうし、好意的な評価をしていた可能性もあると思うけれど、とにかくその前のポゴレリチの演奏が凄まじすぎた。完全にその影響下にあった状態でソヒエフを評価するのはフェアではない。彼のことは、また次の機会を待つことにする。


 帰りの地下鉄の中でも、この日のポゴレリチの演奏のことが心から離れなかった。ずっとそのことばかり考えていたので、そのうち僕まで気が狂いそうになってきた。このままでは本気で狂気の世界に足を踏み入れることになってしまう。僕の心がそう悲鳴を上げた瞬間に、まるで魔法が解けたかのように僕は解放されて、心が軽くなった。これが、今日の僕に起こったことだった。
[PR]
by voyager2art | 2010-11-26 09:26 | オーケストラ

アジアの風/アリーナ・イブラギモヴァ & セドリック・ティベルギエン

Alina Ibragimova (Violin)
Cédric Tiberghien (Piano)

2010年11月23日(火) 20:00 -

Debussy: Sonata for Violin & Piano
Lekeu: Sonata for Violin & Piano in G major
Ravel: Sonata for Violin & Piano (1923-7)
Ravel: Sonata for Violin & Piano (1897)
Ravel: Tzigane

Wimbledon Music Festival 2010
St. John the Baptist Church, Wimbledon, London


 ヴァイオリンのアリーナ・イブラギモヴァとピアノのセドリック・ティベルギエンによるデュオリサイタル。フランス音楽だけのプログラム。
 この演奏会も行くかどうか迷った。僕はドビュッシーとラヴェルの音楽が大好きなので、曲目で迷ったわけではない。演奏者も、いつもこのブログに来て下さるzerbinettaさん一押しの二人なので前からとても興味があった。(そもそも彼女のブログのおかげでアリーナ・イブラギモヴァというヴァイオリニストのことも、今回の演奏会のことも知った。)問題だったのは会場。この演奏会はロンドン南西部のウィンブルドンで開かれている、ウィンブルドン音楽祭のイベントの一つで、一方の我が家はロンドン北部にあるため、かなり遠い。更にこの演奏会の開始時間は8時と遅めなので、家に帰り着くのは日付が変わる頃になるかもしれない。
 とはいえ、一日くらい寝不足(朝寝坊か?)の日があっても、それでいい音楽が聴けるなら行くしかない。迷い始めて3時間後くらいにはチケットを買っていた。


 一曲目のドビュッシーの冒頭で、彼女が非常に表情豊かに歌うタイプの演奏家であることが分かった。ドビュッシーの後期の曲と言えば、表情の豊かさよりも音楽の純度がどんどん高まっていくという印象があるけど、彼女はそこに再び豊かな歌心を持ち込んでくる。彼女の歌は、はっきりした音色で非常に伸びやかに歌うのが印象的だった。第2楽章までは、ときどき何となくアットホームな雰囲気になることがあって、それがこの二人の演奏の特徴なのかと思っていたけれど、どうやらこのあたりまでがウォーミングアップだったらしい。第3楽章で音楽のスケールがぐっと広がり、一気に情熱的な表現に変わった。彼女の体中から音楽がほとばしり出てくる。彼女の写真を見ていると可憐で控え目そうな印象を受けるのに、実際の演奏は熱い熱い。ティベルギエンの端正なピアノを土台にして、自由奔放に駆け巡る。そして更に素晴らしいのが、それだけ自由に音楽を歌わせながら、全体的な音楽の表現としては素直な品のよさがある点。音楽がくどくなることは決してない。
 ちなみにピアノのティベルギエンは明るい響きと端正な演奏が持ち味のように思えた。ドラマティックな表現はできるけど、何かに取り憑かれたようなデモーニッシュな演奏をするタイプではない気がする。情熱的なヴァイオリンを堅実に支えていた。

 二曲目のルクーのソナタは初めて聴く曲。第1楽章は名演。音楽自体がドビュッシーよりも遥かにシンプルにドラマティックなので、情熱的な彼女の演奏スタイルが、曲と完全に一致していて、この日の演奏会の中でも指折りの素晴らしい演奏だった。表現の陰影は深く、芯の通った強い音色で自由に情熱的に歌い上げる。この第1楽章に比べると第2楽章はややおとなしい演奏になってしまった。静かな歌になると彼女が自身の最大の持ち味を発揮できずにもどかしいという感じ。音楽は静かなのに、彼女の情熱的な音楽的本能が、前に前に向かおうとする演奏をせずにはいられない。そのギャップがネガティブな方に出てしまって、方向感の定まらない演奏になったように思う。
 初めて聴く曲だったので第3楽章はあまりはっきり覚えていないけど、再び情熱的な演奏になっていたように思う。ピアノもヴァイオリンにつられて表現の幅がかなり広がっていたような印象がある。ひとつだけはっきり覚えているのは、彼女が弾いていなかったらこのソナタは果たしてここまでおもしろい曲だったかどうか、よく分からないと思ったこと。そのくらい、彼女の個性が強く出た演奏だった。ルクーのソナタを聴いたというより、ルクーを弾くアリーナ・イブラギモヴァを聴いたという感じ。


 休憩後はラヴェルの晩年のソナタから。第1楽章は、音楽と彼女の演奏が少し噛み合っていない感じ。随所に節回しの上手さは聴こえてきたし、音楽をぐっと盛り上げるところでは彼女のいいところが出てくるけれど、何だかラヴェルっぽくもなく、彼女としても不発という印象。
 次の第2楽章は、ラヴェルがジャズを採り入れて書いた曲。僕の中では、「ジャズの香りのするラヴェルの音楽」だったこの曲を、アリーナ・イブラギモヴァは「ラヴェルの香りのするジャズ」としてとても刺激的な演奏をした。これがなかなか面白くて、教会の中での演奏なのに派手なネオンが輝くジャズクラブのような雰囲気になった。この日のお客さんは年配の方が多かったので、余計にそのギャップが面白かった。ただ、この楽章でも彼女は全力疾走させてもらえずにうずうずしているようなところがあったように思う。
 そのため、最後の第3楽章はもうアクセル全開。クープランの墓(ピアノ版)のトッカータのように、延々と休みなしに極めて高度な技術と音楽性が要求されるこの曲を、一気呵成に、そして彼女らしく熱い歌で弾ききった。これはもう文句無しの満点の演奏。

 次のソナタはラヴェルの若い頃の単一楽章のソナタ。僕は晩年のソナタよりこっちの方が好きだ。
 第1主題はかなり速いテンポでびっくり。ちょっと急ぎすぎているような印象も受けた。彼女らしいといえば彼女らしいけど、僕にはやや勇み足のように感じられた。第2主題になると少しテンポが落ち着く。伸びやかな旋律の歌わせ方は彼女らしくてよかったけれど、この曲の切なさや透明感のある感傷を表現するには、それでもまだちょっと元気が良すぎたかもしれない。
 ただし展開部に入って、大きな鳥が大空をゆっくりと滑空するような、ゆったりとした極めて美しい旋律が現れる部分があって、この部分での、強めの音色を効果的に使った息の長い歌わせ方は素晴らしかった。彼女の弾く旋律に僕も乗せてもらい、一緒に天高くまで連れて行ってもらった感じだった。あと少しだけ音楽に余裕を持って、寂寥感のようなところまで表現してくれたら本当に素晴らしい演奏になったんじゃないかと思う。

 最後はツィガーヌ。彼女の個性からしてこの曲が彼女に合わないはずはないので、こちらも期待が高まる。今まで僕はこの曲を、「チャルダッシュの香りのするラヴェルの音楽」と捉えていたけど、この曲の演奏が始まるときには「ラヴェルの音楽の香りのするチャルダッシュ」になるだろうと見当をつけていた。そして、実際の演奏はその通りであったと同時に、一般的なチャルダッシュのイメージをも超えた素晴らしいものだった。
 彼女はこの曲を暗譜で弾いた。最初の音から、それまでとは音色が全く違っていて力強く、この曲にかける意気込みがはっきりと伝わってくる。どの旋律も全く迷いなく、揺るぎのない自信を持って演奏する。力強く、情熱的でありながら伸びやかで明瞭。しかも素晴らしい音楽的直感をほとばしらせながら、相変わらずそこに恣意性は全く感じられない。
 僕がこの演奏で何よりも感銘を受けたのは、そのイマジネーションの豊かさ。彼女の演奏を聴いていて、僕の脳裏にはっきりとアジアの遊牧民のいる風景が浮かんできて、顔に爽やかな中央アジアの風すら感じた。よく知られている通り、ハンガリーのマジャール人はアジアの騎馬民族の末裔で、その音楽からアジアを感じでも何の不思議もないのだけれど、僕は今までチャルダッシュを聴いてアジアを思ったことは一度もなかった。それなのに、彼女の演奏を聴いていると、かつてバックパッカーをやっていたときに訪れた中央アジアの風景を明瞭に思い出した。この曲でこういう演奏は、ちょっと他にないのではないだろうか。僕の大切な時間を想い起こさせてくれる演奏で、極めて個人的で素敵な体験だった。
 写真はバックパッカー時代に撮ったもの。まさかこの写真をこのブログに貼る日が来るとは思わなかった。


a0169844_4554228.jpg

a0169844_4561627.jpg

a0169844_4565382.jpg


 アンコールはフォーレの名による子守唄。ツィガーヌを弾き終わって肩の力が程よく抜けたのか柔らかい表情で、この日の中で一番「ラヴェルらしい」演奏だったように思う。

 以上、色々と書いたけれど、僕はこの演奏会をとても楽しんだ。いい意味で若さ溢れる演奏で、彼女は今しかできない演奏を、全力で演奏していた。彼女にはこれからもどんどん色んな音楽を演奏してほしいと思うし、その演奏を聴いていきたいとも思う。
[PR]
by voyager2art | 2010-11-25 05:05 | 器楽

トラックバック

 このブログではずっとトラックバックをできないように設定していたのですが、誰でもトラックバックできるように設定変更しました。実はかなり前からそうしていたつもりだったのですが、さっき見たらあれ?? トラックバック禁止のまま・・・ どうやらちゃんと設定変更できていなかったみたいです。
 一つ前の記事から、他の方のブログにトラックバックを始めたので、もしもこのブログにトラックバックしようとしてできなかった方がいらっしゃったら、本当にすみません。自分だけおいしい思いをしよう、なんてつもりは全くなくて、単なる設定ミスです。それほど多くの方に見て頂いているブログでもないのですが、今後トラックバックしたい記事がもしあれば、いくらでもどうぞ。コメント・トラックバック大歓迎です。
[PR]
by voyager2art | 2010-11-22 04:08 | その他

抽象的な巨人

Valery Gergiev (Conductor)
Olli Mustonen (Piano)
London Symphony Orchestra

Rodion Shchedrin: Piano Concerto No.4 "Sharp Keys"
Gustav Mahler: Symphony No.1

2010年11月19日(金)19:30 -
Barbican Centre, London

 ゲルギエフとロンドン交響楽団のマーラー1番。この演奏会は、行くかどうか迷った。先日聴いた彼らのマーラー5番の演奏に不満があったことと、プロムスでのラトルとベルリンフィルによる同曲の演奏が素晴らしかったことがその理由。一方で、シチェドリンは前に聴いた曲が面白かったので興味があった。僕は基本的に、迷ったらとりあえずやってみる性格なので(意志薄弱でやめてしまうこともあるけれど)、今回も行ってみることにした。

 まず最初のシチェドリン。前に聴いた曲が極めて色彩的で刺激的な音楽だったので、今回も同じようなのを期待していたら、全く違った。環境音楽というのか、リラックス系のBGMのような、あるいは映画音楽のような、多少調性は外れたような音も入るものの「静かできれい」を狙ったような音楽で始まった。まあこれは導入部で、そのうち発展させていくのだろうと思って聴き続けても、どうも同じような音楽が続く。僕は東南アジアを旅行するのが好きで、よくタイを経由してあちこちに行くのだけれど、そのときにバンコクでは必ずタイマッサージを受ける。店によってはリラックス系のBGMを流しているところもあって、何となくそれを思い出してしまった。
 この曲はかなり長い曲で、二つの楽章から成り、テンポの変化もある。にもかかわらず、僕には終始リラックス系としか聴こえなかった。そしてそれは確かにきれいではあるのだけれど、どこか人の感覚に媚びているように感じられて、僕はこの点に反発してしまった。きれいな曲と言えば例えば(音楽は全く違うけど)ショパンなんかもそうだけど、ショパンの音楽は人の感覚を刺激してくるのであって、媚びているのとは違う。これは微妙かもしれないけれど決定的な違いで、これが原因で僕はこの協奏曲を素直に受け入れられなかった。
 ちなみに、ピアノを弾いたムストネンは初めて実演を聴いたけれど、素晴らしいピアニストだった。極めて高水準の技術を持っているけれど、それを効果としてではなく音楽の堅固な土台として用いているので、音楽が決して崩れない。芯の通ったしっかりした豊かな音で、メロディーの歌わせ方も響きのコントロールも非常にうまい。僕は彼の演奏でブラームスの協奏曲をぜひ聴いてみたいと思った。

 休憩を挟んでマーラーの1番。冒頭の弦楽器のフラジオレットで、拍子抜けした。この部分は「凍り付いた冬の大地」という先入観があるので、広大な風景をどうしても期待してしまうのに、聴こえてきたのはやたらと即物的な響きだったからだ。その後も眠っていた命が少しずつ動き初めて春の兆しを感じさせるという音楽ではなく、台本に書いてあることがその通りに進行しています、というような演奏が続く。また5番の時と同じような、蒸留したような音楽になるのかと失望しながら聴いていたけれど、やがて本格的に春が来て生命が世界に満ちてくる場面になると、急にいきいきとした歌が聴こえてきた。でも音楽が静かになるとまた無機的な雰囲気が漂ってくる。楽章の最後は盛り上がったけれど、全体としてはアンサンブルもLSOとしては甘く、精彩を欠く演奏だった。
 この時点で僕はもう諦めモードに入っていた。しかし、続く第2楽章の冒頭でおやっと思った。チェロとベースのリズムを、思い切った音量でたっぷりと鳴らす。リズムにわずかなタメも効かせていて、何とも言えない表情がある。その上に入ってくる弦楽器の合いの手も明晰な音色でよく歌い、木管楽器のメロディーが一斉に入ってくる。ゴージャスな響きと大きな音楽作りが心地よく僕の中に入ってくる。中間部の鄙びた田舎くさい音楽が鬼門かと思ったけれど、5番の演奏の時のように極端にサラサラと流れるのではなく、ここも音楽がしっかりと歌っている。土の匂いはしないものの、鄙びた倦怠感が強く出ていた。ゲルギエフはかなり積極的にテンポを変化させて、それがまたとても効果的だった。ただしアンサンブルの乱れは依然として残る。

 続く第3楽章。このあたりからオーケストラと指揮者の歯車が本当に噛み合ってきたように思う。そして僕はようやく、ゲルギエフという指揮者が音楽のどこに焦点をあてているのか分かってきた。彼はマーラーを、東欧の土の匂いのする音楽としては見ていない。むしろ正反対に、純音楽的で極めて抽象的なアプローチを取っている。ゲルギエフというと世間では「爆演」の指揮者という評価をしているようで、実際にクライマックスはかなり強烈に煽るけれど、演奏スタイルは非常に都会的で極端なくらいすっきりと割り切っている。そしてその抽象的で透明な音楽を、非常に直接的に白熱させていく。やっとそれが明確に理解できたのがこの第3楽章だった。よく言われる葬送行進曲として彼はこの曲を演奏しなかった。もちろん形式上は葬送行進曲だけど、非常にスマートに音楽を進め、例の酔っぱらったような音楽の部分はテンポを頻繁に動かしながら音楽を一直線に白熱させていく。ここは農民の悲哀などとは無縁の音楽になっていて、畳み掛けるように次々と繰り出される旋律に視界が真っ白になっていくような興奮を感じた。
 そして中間部。弱音器を付けたヴァイオリンの囁くような旋律。これがもう、ほとんど聴こえないくらいの音量。音としては伴奏に埋もれるほど小さくてはっきり聴こえないのに、ここから立ち昇ってくる香りのかぐわしいこと! 聴いていて惚れ惚れするような見事さだった。

 終楽章は一気にたたみ掛ける。ものすごい圧力で、ロンドン交響楽団が本領発揮。プロムスでのベルリンフィルは音楽の進むスピード(演奏の物理的なテンポではなく、聴いた印象)が桁違いに速かったのに比べて、今日の演奏は絶対的で厳然たる自然の摂理として、巨大なものが激しく動き続けているような印象だった。その後に出てくる故郷の回想シーンのような音楽もよく歌ってはいたけれど感傷的にはならない。音楽が無駄無く効率的に流れていく感じで、非常に自然にコーダへ。最後はロンドン交響楽団がパワー全開で圧巻の演奏。まるで夏の大花火のように、激しく大きく開いて散って、後に何も残さず消えていくような、やたらと爽やかな後味のマーラーだった。
 これがマーラーの演奏史上に残る画期的な演奏かと訊かれると、僕は恐らくNoと答えるのが正しいと思う。しかし、今までのマーラー演奏にはない独特の面白さはあったし、マーラー演奏にまだ新しいスタイルがあり得ることを提示したという点で、非常に興味深い演奏であることは間違いなかった。
a0169844_9312540.jpg

[PR]
by voyager2art | 2010-11-20 09:00 | オーケストラ

生きている神話

大野和士 (Conductor)
Nathalie Stutzmann (Contralto)
London Philharmonic Orchestra

Richard Strauss: Tod und Verklärung
Gustav Mahler: Rückert Lieder
Maurice Ravel: Suites Nos 1 and 2 from "Daphnis et Chloé"

2010年11月17日(水)19:30 -
Royal Festival Hall, London


 以前から聴きたいと思っていた大野和士がロンドンフィルに登場。ソリストはアルトのナタリー・シュトゥッツマン。いきなりシュトラウスの死と変容から始まり、マーラーのリュッケルト歌曲集にメインがラヴェルのダフニスとクロエの第一および第二組曲と、非常に濃いプログラム。大いに期待して会場へ向かった。

 この日の会場は満席とまではいかないものの、相当な大入り。普段よりも何となく興奮度が上がる。そこへ指揮者が颯爽と登場して、演奏開始。
 冒頭は速めのテンポで、ぐっと音量を落としている。楽器を演奏していて、速いパッセージを演奏するのももちろん難しいのだけれど、極限まで音量を落としたピアニシモを美しく演奏するというのもまた極めて難しい。特に現代の管楽器は元々が音の大きな楽器なので、どこまで静かに演奏できるかというところにオーケストラの技量が明確に現れてしまう。この演奏の冒頭は、その弱音の限界ぎりぎりのところまで攻めていた。オーケストラに緊張感が漲っているのが手に取るように分かる。
 木管楽器やヴァイオリンのソロが次々と続く場面も、音量を抑えたままかなり速めのテンポで進む。忽然として音楽が戦いの場面に入ると、一気にテンポを上げて激しく突き進む。このテンポの速さは、単に表面的な効果を上げるための設定ではなく、音楽を厳しく突き詰めてた結果としての激しさの現れだった。金管楽器を無理に鳴らさないので余計に厳しさが際立つ。余りにも激しくて厳しい音楽作りのためか、技術的な面でオーケストラが指揮者についていけていない。アンサンブルは乱れ、ソロも精度を欠く。それでも何かに取り憑かれたような激しさは伝わってきた。
 若い日の希望に満ちた、あるいは甘美な場面の回想シーンも甘ったるくならず、非常に引き締まった演奏が続く。そして再び戻ってきた戦いの音楽が、前半のクライマックスとして、変容の主題がコラール風の奏される部分につながるところは、この日のこの曲の演奏で一番印象的だった。それまで激しくしぶきを立てながら突進してきた奔流が、一気に広大な湖に流れ込み、突如としてそれまでとは一転、洋々としてかつ懐の深い表情を見せる。この対比は本当に鮮やかで素晴らしかった。
 後半、主人公が命を落としてからの変容の部分の音楽はやや散漫になった印象を受けた。指揮者としてはもう少し長い呼吸で歌わせたかったのではないかという気もする。それでも最後は充分に力強く盛り上がり、非常に印象深い演奏となった。

 続いてマーラー。前にも書いたとおり、僕はマーラー好きなのに、歌曲はほとんど知らない。今日も朝の通勤のバスの中で、iPodに入っていたこの曲を初めて真面目に聴いてみて、その余りの美しさに慌てたほど。なぜ今までこの歌曲を聴いてこなかったんだろう!
 演奏は、シュトゥッツマンの陰翳の深い歌唱が素晴らしかった。重心の高いシュトラウスに比べると、マーラーのオーケストレーションはもっと深みがあって陰も濃い。もともとロンドンフィルは響きの重心の高いオーケストラだと思うけど、ここではドイツ的な重心の低い響きを実に自然に作っていた。
 ただし少し残念だったのは、3曲目に演奏した「真夜中に」の夜の描写で、音が暗くなり切らなかった点。特にクラリネットの音がやたらと明るく聴こえる。この曲は、夜の闇と心の中の光の対比が聴き所だと思うけれど、その差がはっきりと現れない。最後のコラールも声とのバランスを取るために非常に小さな音で演奏したため、技術的なアラがはっきりと出てしまった。
 それでも続く4曲目の「美しさ故に愛するのなら」の鮮やかな色彩は見事だったし、最後の「私はこの世に捨てられて」は絶品。全てを諦め喪失を受け入れた人間だけが到達する孤独の美の世界。アルトとオーケストラが共に描き出した情景は、この世ならぬ美しさに満ちていた。それまでずっと低音域で歌っていたアルトが、最後の一節を繰り返すときに思い切ったように高音域から入ってくる。その声を何と形容したらいいのだろう! 光の塊の様に輝いているけれど、全くきつくなく、やわらかいけど、しっかり芯があって全くぶれない。完全に無防備だった僕の心のど真ん中に直接飛び込んできて、僕を打ちのめしていった。


 休憩を挟んでラヴェル。この作品の第1組曲は初めて聴いたけれど、演奏頻度が少ないのは音楽単独での魅力が第2組曲に比べて薄いからだということはよく分かった。ただしラヴェルらしさに溢れた曲ではあって、しかも演奏がラヴェルの魅力を十二分に伝えてくれるすばらしいものだった。前半の演奏の随所で顔を出した技術的な不安定さは完全になくなり、ラヴェルの書いた独創的なオーケストレーションが狙い通りにどんどん決まっていく。特に戦いの踊りの生きたリズムの面白さは素晴らしかった。
 そして第2組曲。これがもう完璧。夜明けの森が次第に明るくなっていく情景の描写、明るくなるのは空だけではなく、森の木々では鳥が歌い始め、世界が大きく呼吸を始める。この夜明けのクライマックスの部分は、世界全体が完全に目覚めてその四肢に生命を満ち渡らせるような、巨大なエネルギーの放射に包まれているような気がした。そしてフルートの素晴らしいソロによるパントマイムを経て、全員の踊り。正確で鋭いリズムが弾けるような生命感となり、絶対的な歓喜の踊りが繰り広げられる。曲を構成する全ての要素が完全なバランスで配置され、完璧に均整のとれた音楽であり、演奏だった。しかもそれが、生命を失って博物館に並べられた展示品のような表情ではなく、本当に生きて呼吸をしていて、生命感を爆発させている。
 更に、この演奏を聴いていて、僕は神話の世界を覗き込んでいるような不思議な感覚を味わった。はっきりと目の前で物語が繰り広げられているにも関わらず、それが遠い昔の話であることを認識しているような感じ。空間的な距離感と時間的な距離感が完全に乖離している。人間というのは現実の世界と物語の世界を、まるで何の矛盾も無いかのように自由に行き来できてしまう不思議な生き物なのだ、とふと思った。その二つの世界の裂け目こそが芸術の源泉なのか。
 この不思議な距離感と爆発する生命感が組合わさり、ものすごい演奏だった。完璧で圧倒的。前半の技術的なムラは、恐らく練習量の違いによるものだろうと思った。このラヴェルの練習に相当時間を割いたのに違いない。今まで聴いてきた(というほどたくさん聴いていないけど)ロンドンフィルとは全く水準の違う演奏で、この演奏を引き出した指揮者の力量はただすごいとしか言いようがない。今後も是非、ロンドンでたくさん演奏をしてほしい。日本人だからという枕詞を外してなお聴きたいと思う、素晴らしい指揮者だと思った。
[PR]
by voyager2art | 2010-11-18 09:57 | オーケストラ

ロイヤルバレエ/Sylvia

2010年11月12日(金)19:30 -
The Royal Opera House, London

演目:
 Léo Delibes: Sylvia

出演:
 Sylvia: Marianela Nunez
 Aminta: Rupert Pennefather
 Orion: Gary Avis
 Eros: Kenta Kura
 Diana: Laura Morera
 他

 ロイヤルバレエでシルヴィア。演出はアシュトン。ドリーブのバレエは、コッペリアなら音楽を聴いたことはあったけど、シルヴィアは名前しか聴いたことがなかった。忙しかったので何の予習もしていかなかったけれど、これが面白かった。

 第一幕は青を基調とした神秘的な雰囲気の舞台で始まった。シルヴィアが8名の従者とともに現れるところでは、皆が手に弓を持って凛々しく踊っているので、まるでワーグナーのワルキューレの騎行のような雰囲気。音楽もそんな雰囲気。ヌニェスはもともと、軽やかさや繊細さよりは、明朗で力強い芯の強さを持ち味とする人だと思うので、このワルキューレのような役がぴったりはまってとてもかっこいい。それに比べると、相手役のアミンタを踊ったルパート・ペネファーザーはやや印象が薄い感じだった。もっとも、羊飼いという身分だと考えれば役に合っていたとも言えるのかもしれない。この幕ではエロス役の蔵健太の好演も印象的だった。シルヴィアの矢を胸に受けて倒れたアミンタを、ネズミ小僧のような灰色の布をまとって身分を隠したエロスが助けるシーンで、非常にコミカルでしかも強い個性を放っていた。

 第二幕はオリオンに連れ去られたシルヴィアが、オリオンを酒に酔わせるために踊るシーンでのヌニェスが素晴らしかった。僕はあまり熱心にヌニェスを追って見ていないので、上述のとおり彼女の持ち味ははっきりとした明るさという印象しか無かったけれど、ここでは彼女は実に柔軟で妖艶な踊りを見せた。これが僕にとってはかなり意外だったので、恥ずかしいことに僕ははじめ別のダンサーが踊っているのかと思ってしまった。

 最後の第三幕は、ドラマとしての面白さが一番希薄な幕で、ほぼ大団円に近いような踊りが続く。コミカルな猫の踊りなどを加えてメリハリをつけてはいたけれど、ストーリーとしては単純。ただしヌニェスの踊りはますます冴える。せっかくシルヴィアと再会するシーンなので、アミンタがもう少し華やかに踊るともっと楽しい舞台になっただろうと思う。上手いか下手かというとペネファーザーは間違いなく上手いんだけど、表現がどこかおとなしい。

 僕にとってもう一つ収穫だったのは、このシルヴィアというバレエの音楽が非常に魅力的だったということ。どういうわけか第三幕だけは音楽が平凡になってしまうのだけれど、第一幕と第二幕(特にシルヴィアが踊るシーンのエキゾチックな音楽)の音楽の質の高さには驚いた。ここから何曲か持ってきて組曲を編んだら人気が出ると思うのに、なぜ今まで耳にすることがなかったのだろう。オーケストラの演奏技術的にはかなり難しいのではないかという気がするけれど、難曲ほど実力を発揮するロイヤルオペラのオーケストラ。素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
[PR]
by voyager2art | 2010-11-13 08:59 | バレエ

ソヒエフ/諏訪内晶子/フィルハーモニア管弦楽団

2010年11月11日(木)19:30 -
Royal Festival Hall

演奏:
 諏訪内晶子 (Vn)
 Tugan Sokhiev (Conductor)
 Philharmonia Orchestra

演目:
 Debussy: Prélude à l'aprés-midi d'un faune
 Prokofiev: Violin Concerto No.2 in G minor
 Tchaikovsky: Symphony No.4 in F minor


 久しぶりにフィルハーモニアの演奏会。諏訪内晶子がソリストで登場、といっても僕は実は彼女の演奏で感心したことがない。上手なんだけど、心の底から訴えかけてくるものを今まであまり感じたことがなかった。でも今回は珍しい演目なので、どういう演奏になるのか興味があった。指揮者のソヒエフ(実際の発音は「ソキエフ」と「ソヒエフ」の中間くらいじゃないかと思う)は、名前も演奏も初めてきいた。

 最初のドビュッシーは、冒頭のフルートソロのリズムの大胆さに驚いた。フランス音楽特有の、八分音符と三連符が入り混じった旋律で、多くの指揮者とフルート奏者がこのリズムの取り方に心を砕く。僕もフランス人ではないので何が本当にフランス式なのかはよく分かってはいないけれど、リズム的にはかなり正確で、ごくごくわずかに三連符の頭にアクセントがつくという印象がある。でもこの日のソロは、というより全曲を通して、このリズムの取り方はもっと思い切って崩していた。この大胆さはかなり印象的だったけど、音楽の表現としての必然性は僕にはよく分からなかった。
 その後の演奏はあまりぱっとしなかった。ひとつひとつの楽想をゆったりと長い呼吸で歌わせてはいるけれど、楽想と楽想の移り変わりの部分で音楽があまり流れず、全体としてひと続きの音楽にならない。そして何よりも、この曲に満ちた頽廃的な官能性が発散してこなかったのが残念だった。
 僕の中でのこの曲のイメージは、夏の日の極めて明るい陽の光の中で、風がかすかにそよいで静かな音をたてる他は何も聴こえず、強い光の中で花や草木、小川、土、空、太陽など周囲の風景の中の全てのものの形が跡形もなく溶けていって、色だけ、それも原色の明るい色だけが視界の中に残って膨張して溢れ出し、純粋な感覚が際限なくひろがっていくといった感じのものだ。もちろんこれは僕自身が抱くイメージであって、これ以外の演奏だって当然いろいろあっていいんだけど、それでもこの日の演奏は、音色こそフィルハーモニアらしく美しかったものの音楽としてはくすんでいて、表現が内側にこもったまま外にはほとんど何も流れ出してこなかった。


 続くプロコフィエフは初めて聴く曲。演奏は、残念ながらこれもまたぱっとしなかった。
 第一楽章はよく歌うヴァイオリンのソロで開始。それに続いて低弦が同じ旋律で入ってきたけれど、ヴァイオリンの有機的な歌い方と余りに対照的な、無機的な歌わせ方に驚いた。この方がはるかにプロコフィエフらしいのだけれど、驚いたのはそこではなくてソロとの歌わせ方の違いの大きさ。この大きな落差が、楽章を通じてずっと残った。諏訪内さんはこの曲を、チャイコフスキーやブルッフの協奏曲でも弾くように、ロマンティックに歌わせようとする。一方で伴奏のオーケストラはあくまでも無機的な色合いの強い演奏をする。ソロの技術水準の高さは本当に素晴らしいと思ったけれど、ここまでソロと伴奏の表現が違うのも問題で、もともとそういうソロと伴奏の対比を意図した音楽ではないので、音楽としてまとまりがなくなって散漫な演奏になってしまった。
 第二楽章は何かの童話のような素朴でコミカルな伴奏に乗って、ヴァイオリンのソロが歌う。しかしここでもまた、諏訪内さんのソロはお城の中の王女様のように優雅に美しく歌い、伴奏と合わない。その後音楽が進むと、曲自体が優雅になってきてソロと伴奏がぴったり合ったのだけれど、その後に音楽がさらに変化して動的になってきても、ソロの調子は優雅なまま。結局ヴァイオリンのソロが一本調子なまま、音楽のキャラクターの変化を無視しているように聴こえてしまう。
 続く終楽章は、比較的速めのテンポでよく動く曲。しかし、ここでいったい何が起こってしまったのか、音楽の流れが完全に止まったように僕には思えた。音は鳴っているしもちろん曲も進んではいるものの、音楽として流れていない。生命感も表現も一切なく、ただ音を並べているだけで、恐ろしいまでに虚ろな時間が過ぎていった。僕の耳が音楽を捉えきれなかっただけかもしれない。でも、僕には本当に何も聴こえてこなかった。諏訪内さんの調子が悪かったのか、あるいは曲自体が面白くないのだろうか、と色々と考えた。でもそのときは、答えが分からなかった。


 休憩を挟んでチャイコフスキー。僕の大好きな交響曲の4番。その冒頭のホルンの旋律を聴いて、耳を疑った。全く力も魂もこもっていない、虚ろな音の連なり。続いて入ってくるトランペットやトロンボーンにも全く輝きがない。指揮者があまりにも漫然と棒を振り、拍子以外の何の指示も出していないので、それがそのままこういう演奏として出てきたのだった。これでやっとさっきのプロコフィエフの不発の理由も分かった。指揮者が全く音楽を作っていない。
 もちろんチャイコフスキーだからといってフォルテをぶっ放せばいいというものではない。でも、チャイコフスキーの4番の冒頭と言えば、何かただならぬ覚悟で身を切るような切迫感で始まり、その切り傷から吹き出す血があたりを真っ赤に染めるような激しさを僕は期待するので、これほどまでに空虚な演奏に、落胆や不満というより非常な困惑を覚えた。この指揮者はいったいなぜこの曲を指揮しているのだろうか、そもそも、彼はなぜ音楽家としてステージに上がっているのか。
 それでも、もしかしたらこの指揮者はチャイコフスキーを通して人の心の中の虚無を表現しようとしているのだろうかとも思って、注意して彼の演奏を聴き続けた。しかし、そうでもないらしい。つまらないところで変に色気を出してテンポをいじったりしているからだ。僕には彼の意図も心理も全く読めないまま、第1楽章が終わった。
 第2楽章以降は少し良くなった。でも、指揮が良くなったからというよりは、オーケストラの側が頑張って盛り立てたのだと思う。その証拠に、音楽が一本道で盛り上がるような部分はきちんと揃って一つの音楽を奏でるけれど、そのクライマックスが終わって音楽が静かになってくると、表現も散漫になるところが何箇所もあった。オーケストラに実力があるので、終楽章のコーダはそれなりにチャイコフスキーらしくなってはいたけれど、恣意的で意図の分からないテンポの変化以外に、この指揮者の意思は何も伝わってこなかった。

 こういう指揮者を僕は他で見たことがない。彼は表現すべき音楽を自分の中に持っていないのか、あるいは自分の音楽を表に出すことに躊躇あるいは恐怖感があるのか、いずれにしても指揮者としては致命的な欠点だと思う。フィルハーモニアとしてはまだ若い指揮者(彼は今年33歳とのこと)にチャンスを与えて育てるという意図があったのかも知れないし、たった一回の演奏会でこの指揮者のすべてが分かるはずもないのは承知しているけれど、それにしても一回の演奏会として、これほど空虚な印象ばかり受けたことは他にはない。音楽会で音楽が聴けず、悲しい気持ちで帰路についた。
[PR]
by voyager2art | 2010-11-12 08:37 | オーケストラ

Complicite / Simon McBurney: 春琴

2010年11月6日(土)19:45 -
Barbican Theatre

演目:春琴(原作:谷崎潤一郎「春琴抄」)

監督:Simon McBurney

出演:
 春琴:深津絵里
 佐助:チョウソンハ(若い頃)、高田恵篤(中年の頃)、笈田ヨシ(老年)
 三味線:本條秀太郎
 他

 二日続けてバービカンセンターへ。ただし今日はいつものように演奏会ではなく、谷崎潤一郎の「春琴抄」に基づく演劇を見に行った。何とも恥ずかしいことに僕はこの原作をまだ読んだことがない。でも最近になって日本の文学作品を色々と読むようになってきて、この演目が気になって仕方なかったので行ってみた。こういうとき、海外に住んでいるとすぐに日本の本が手に入らないのでもどかしい。
 なお、この演目は日本で2008年に制作されたということで、既に観た人も多いかもしれない。ロンドンでの公演も実は昨年に次いで2年目ということだけど、僕は去年は全く知らなかった。

 ちなみにこの舞台で春琴を演じるのが深津絵里という人だということを、直前になって知った。この人がどうやら有名な女優さんらしいということも、そのときに初めて知った。僕は映画をほとんど観ることがなく、しかも日本にいたときもテレビで民放の番組を見ることがほとんどなかったので、いわゆる芸能人についての知識がほとんどない。深津さん以外の役者の皆さんもひょっとしたら有名な人たちなのかも知れないけれど、僕にとっては名前を聞いたことのない人たちばかり。

 この舞台の演出で面白かったのは、大掛かりな舞台セットを使わずに、2mほどの長い棒と一畳ほどの大きさの板をたくさん使って、それらを自在に組み合わせて配置しながら、巧みな照明とともにその場その場の情景を上手く作り出していた点。抽象的でかつ豊か、というのは僕は大好きだ。また、この話をラジオ番組か何かの収録という設定にしていたのも、まさか原作がそうなっているわけではないと思うけど、なかなか面白かった。そして何より、春琴。主演の深津さんは春琴役ということになってはいるけれど、途中までは黒子のように(ただし顔は隠していない)春琴の人形を操りながら台詞を話す。彼女自身が春琴役を実際に演じるのはかなり後になってから。これがすばらしく成功していたと思う。

 物語自体は、細部を省略しつつ谷崎潤一郎の小説をそれなりに忠実になぞっているのではないかと思われた(早く原作を読みたい!)。攻撃的でしかも美しい春琴を、深津さんが実にうまく演じていた。少女時代はまだ「気が強い」程度だったのが、時間の経過に伴って次第に激しい態度で佐助に接するようになる。この変化がとても自然かつ印象的に表現されていた。そしてまたチョウソンハさん演じる佐助が本当に素晴らしく、恋い慕う春琴に一途に誠心誠意尽くし、同時に春琴からのきつい仕打ちに性的亢進を感じる佐助を見事に演じていた。
 自分に対する相手からの愛を信じられさえすれば、傍目にはどんなに異常に見える関係でも、当の二人にとってはそれがあるべき形であるという、倒錯した愛のありようの描写は非常に印象的だった。ただ、演出上の強調なのかなと思うところで、気になるところがなかったわけでもない。春琴が顔に火傷を負ったあと、佐助に自分の醜い顔を見せたがらなかったのを思いやって佐助が自身の目に針を刺すシーンの後。この物語のクライマックスの一つだと思うけれど、ここで春琴は「他の人はまだしも、お前(佐助のこと)にだけはこの醜い顔を見られたくなかった」と言い、佐助はそれに対して「そう言って頂けるだけで幸せです」と言う。恐らくこのやりとりは原作にもあるのだろうけれど、舞台ではやけにこの部分が強調されていて、物語として辻褄が合いすぎてしまったような気がする。ここを原作がどのようなニュアンスで描いているのか気になった。

 その後、共に目の見えない二人のその後の物語が短いながらも印象的に演じられる。春琴の死が語られ、その後佐助もこの世を去る。このあたりは間と沈黙と暗闇が極めて効果的に使われ、素晴らしい余韻を感じさせる。
 そして最後。この最後の部分に、この演出の最大の問題点が来る。最後になって突然、「昔の人は暗闇の中で、微妙な陰影を認めてそこに美を見出していた。しかし現在の明るい世界に住む人は、その陰影に気付く感性を失っている」ということが語られる。
 僕はこれに非常に混乱した。まさか谷崎潤一郎が春琴抄の小説でこれを書いたとは思えなかった。確かに佐助が自ら光を捨てたところで、「目が見えなくなってから春琴の声、手足の柔らかさ、三味線の音色が本当に理解できるようになった」と語るシーンはあったし、ここからの関連であろうということは僕にも分かった。しかし、だからといって「現代人は陰影を忘れた」などと説教めいたことを最後に賢しらに語るのは、それまで語っていた春琴と佐助の心の奥底の美しく激しい交流の物語を台無しにするように僕には思えた。なぜ最後になって急に世間的な辻褄を合わせようとするのか。どうして最後に「教訓」のようなものを聞かされなければならないのか。
 繰り返しになるけど、それまでの話から考えて、谷崎潤一郎がこれを小説の最後に書いたとは僕には信じられなかった。もし作者自身が本当にそう書いたとすれば、この作品の読み方自体が変わってくる。帰りの地下鉄の中でもずっとこのことが気になって、頭の中がぐるぐる回っていた。

 家に帰ってこの文章を書くにあたって、インターネットで色々と調べているうちに、少しずつ背景が分かってきた。この"Shun-kin"という演劇は、「春琴抄」だけではなく同じ作者の「陰翳礼賛」という文章も原作としているらしい。その中では、陰翳をなくすために明かりを増やす方向に進んだ西洋に対して、日本ではその陰翳を認めた上で、その陰翳の上に美的感覚を発達させた、ということが語られているという。
 これでようやく事情がわかった。この舞台の監督を務めたSimon McBurneyは谷崎潤一郎の作品を読む中で、この「陰翳礼賛」から、彼にとって何か新しい認識を得たのだろうと思う。そしてその認識が、彼には春琴抄を読み解く鍵と見えたのに違いない。その結果が、今回の舞台なのだろう。
 しかし、春琴抄と陰翳礼賛がいかに関連しているとはいえ、春琴抄の最後に上に書いたようなエンディングを持ってくるのはやはり誤読だと僕は思う。陰翳礼賛は谷崎潤一郎の美学上の信念の一つであり、春琴抄を書く上での重要な拠り所ではあっただろうけど、春琴抄の結論ではないはずだ。表面的な論理的整合性に満足してしまうのは西洋の思考方式の悪い癖だと思うし、そういう点で最後にこういう安易な辻褄合わせを持ってきてしまったのは残念だった。
 もちろん、舞台が原作に忠実でなければならないという必然性は何もない。原作に触発されて生み出される芸術がそれ自体として価値があるなら、それがどんなに原作とかけ離れていても、そしてたとえ原作者がそれに同意しなかったとしても、僕は全く構わないと思う。ただしそれは新たな価値を生み出していればの話だ。今回の舞台の最後の部分は、残念ながらそうではなかったと思う。

 いずれにしても、この舞台は原作を読んでからもう一度観てみたい。今までお芝居を観てこなかった僕だけれど、解釈はともかくとして、演劇も面白いと納得できるだけの水準であったことは間違いない。
[PR]
by voyager2art | 2010-11-07 10:10 | 演劇


ロンドンを起点に、音楽、写真、旅などについて書いていきます。メールは voyager2artアットマークgmail.comまでお気軽にどうぞ。


by voyager2art

プロフィールを見る
画像一覧

カテゴリ

全体
オペラ
オーケストラ
ピアノ
室内楽
器楽
バッハ平均律1巻
バレエ
ジャズ
写真
絵画
演劇
雑感
楽譜

旅行記
旅行情報
旅行下調べ

その他
未分類

最新の記事

こっそりとお知らせ
at 2012-04-10 06:02
このブログを終了します
at 2012-03-01 06:35
超期待!の若手/ブニアティシ..
at 2012-02-26 02:18
寄り道香港
at 2012-02-14 07:13
京都
at 2012-02-13 04:54

最新のトラックバック

Debussy & Sz..
from MusicArena
Brahms: Vn-C..
from MusicArena
音遊びをする人たち シベ..
from miu'z journal ..
どんちゃん騒ぎのカタルシ..
from miu'z journal ..
LSO/ティルソン=トー..
from LONDON BORING ..
例えばE=mc2の美しさ..
from miu'z journal ..
フィルハーモニア管/マゼ..
from LONDON BORING ..
ロイヤルオペラ/『三部作..
from ロンドン テムズ川便り
久しぶりに上手いオーケス..
from miu'z journal ..
新しい注目株の予感
from miu'z journal ..

以前の記事

2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 12月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月

検索

その他のジャンル

ブログパーツ

  • このブログに掲載されている写真・画像・イラストを無断で使用することを禁じます。

ファン

記事ランキング

ブログジャンル

画像一覧