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ピアノのグレート/マウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル

 ポリーニ・プロジェクトの第三弾はシューベルトの最後のピアノソナタを3曲。シューベルトの音楽の中でも極めつけに美しくて大好きな曲で、随分前から入念に予習をして(時間の許す限りだけど)、楽しみにしていた演奏会。

Maurizio Pollini (Piano)

Franz Schubert:
Piano Sonata No.19 in C minor, D.958
Piano Sonata No.20 in A major, D.959
(Interval)
Piano Sonata No.21 in B flat major, D.960

26/Feb/2011(Sat) 19:30 -
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London


 最初のハ短調のソナタは随分速めのテンポで開始。ベートーヴェンのように強い音楽。第2主題もピアノではあるけど粘らない弾き方で、ポリーニらしい実に硬派な演奏。ただ、第2主題で何度か現れる、クレッシェンドを掛けておいて突然ピアニシモに落とす部分を、ポリーニは音量を落とすだけでなく、一瞬の間をあけてからふわっと柔らかい音で弾く。これが何とも言えず美しく、急にホール全体の空気の色合いがすっと変わるような感じでぞくっとする。
 ただしその後の展開部で、暗闇の底が抜けるような不安が漂う部分は響きが濁って音の動きが明瞭に聴こえず、テンポも極めて不安定に揺れた(意図的ではなかったように思う)ので、シューベルトの意図した充分な効果があがっていないように感じた。

 第2楽章もかなり速いテンポで、繊細な和声の変化をやさしく聴かせる演奏ではなく、もっとその奥に潜む強い意志の流れに焦点を当てた演奏。これも極めてポリーニらしい。僕はケンプの弾く、静かで豊かな詩情に満ちた演奏が好きで、ずっとそればかり聴いていたので、ポリーニで聴くとこの曲はこんなに強い音楽だったのかという感じ。
 こうなると当然第3楽章、第4楽章も速い。速く弾くことによって繊細な表情は失われ、聴こえなくなるかわりに、例えば3楽章のトリオのように、ふと暗転する和声の上の旋律が非常に明瞭ですっきりした歌として浮き上がってくる部分もある。4楽章の主旋律でもリズミカルな主題を単音で弾く右手に、ふと和音が入るところなどの響きの変化は素晴らしく、この部分の和声の繊細な変化も際立ってとてもきれい。
 ただ、このソナタ全体を通してミスタッチがやや多く、ポリーニ自身の意図する音楽を少し損なっていたように思う。


 続くイ長調のソナタからは、ポリーニの調子も一気に上がってきた。相変わらずの快速テンポでぐんぐん突き進む。ハ短調のソナタで特に濁りが気になった中低音もよく響き始めて、対位法的な旋律の扱いも響きが充実してくる。中間部の鈴の鳴るような伴奏に乗って軽やかな旋律が走る部分は、ここでもやはり繊細さを聴かせるより力強い推進力に傾斜した表現。こういう演奏をするときのポリーニは調子がいい証拠。一気にこの楽章を弾き切る。
 第2楽章は言うまでもなく、シューベルトのピアノソナタの中でも特に強烈な印象を残す音楽で、初めてこの曲を聴いたときは、ぞっとするような魂の暗い深淵に言葉には表せないような衝撃を受けた。罪のない単純な舟歌から始まって、気がついたら世界がどんどん歪んでいって見るもおぞましい狂気の幻覚に叩き込まれるような、そんな音楽。

 ポリーニはこの舟歌をとてもシンプルに弾くんだけど、途中のフォルテピアノ(fp)を相当強く弾く。素朴な旋律の中でこれが際立って強く深く響くので、まるでこの先に起こることの不吉な前触れのように心に不安な引っ掛かりを残す。
 そしていよいよ中間部。ポリーニはいつものように一気に最短距離で音楽の核心部分に迫っていく。ポリーニにとっては世界が歪むとか狂気の淵とか、そういう感傷すら邪念であるらしく、心の底にある何かを表現したいと思うから、そこに向かって何の躊躇いもなく突き進むという印象だった。響きもどんどん充実してきて、ベルリンフィルがそうだったように、ピアノからフォルテまで多彩な音色で変幻自在。何かに怯える心の叫びではなく、強い意志の力で厳しく人の心理の奥底を描き切ろうとしているように僕には感じられ、その凄まじい迫力に圧倒された。

 続くスケルツォはまた速い。もう誰にも止められないような圧力でポリーニの音楽が進んでいく。続く終楽章はもう圧巻で、ピアノソナタではなく交響曲のグレートを聴いているような規模の演奏。音楽はどんどん巨大に膨らんでいき、音色のコントロールも冴え渡る。極めて厳しいけれど、一方でこの上なく豊かな歌が壮大な大伽藍となって聴くものを圧倒する。コーダのゲネラルパウゼ的な静寂の繰り返しが緊張感を高めた後、ものすごい勢いのプレストで輝かしくこの曲を弾き終えた。

 この曲からこんなに巨大な音楽を聴くことになるとは考えたこともなかった。圧倒された。


 休憩を挟んで最後のソナタ。これも速めのテンポではあるけれど、イ長調のソナタに比べると厳しさが少し減って、歌の豊かさに重点を置いた演奏だった。でもポリーニらしいのは、そこで綿々と情緒に訴える演奏をするのではなく、極めて明晰な歌になっている点。そもそもポリーニという人は音で心理や風景を具体的に描写するということをしない人で、どんな音楽でも極度に抽象的で純度の高い演奏をする。シューベルトを弾くときでもそれは変わらず、山の風景や野の花を描く訳でもなければ、それらをみて揺れ動く心象風景を描くわけでもない。明るく透き通った一本の揺るぎない歌の流れが音楽を貫いている。特に第2主題の、左手の旋律の上に右手で対旋律と和声を添える部分の透明な美しさは言葉に尽くし難い。

 2楽章は簡素ながら切実な歌で、実は弾いてみると響きのバランスの整え方がとても難しい曲。でもここでのポリーニは歌の豊かさと響きのコントロールの見事さが素晴らしい。音楽が内側から充実して、絶え間なく外側に溢れ出てくる。シューベルト以外の誰にも書けなかった、心に沁みる和声の絶妙の変化を、ポリーニは殊更に強調することなしに、しかしその魅力を余すことなく歌い切る。音楽のあまりの豊かさに自分が溶けてなくなってしまいそうになる。

 その後はあっという間に鮮やかに弾き切ったスケルツォに続いて、終楽章。もうポリーニの音楽は誰にも止められず、明るく抜け切った明晰な抽象の世界に遊ぶ。フォルテもピアノも豊かに響き、全ての音が純度の高い歌となって音楽を満たす。演奏の細部がどうだったかというのはもう僕の頭にはほとんど残らず、白くて明るい光の中に心地良く佇んで、この上なく美しい音楽に聴き惚れていたという感じ。力みもなければわざとらしい演出もなく、澄み切った歌にいつまでも浸っていた。


 今日のポリーニは本当に良かった。特にイ長調のソナタと変ロ長調のソナタは素晴らしかった。僕の個人的な好みで言えば、ベートーヴェンのような壮大で強靭な音楽作りよりも、親密で繊細な演奏の方が好みだけれど、そういう好み云々を超えて圧倒する説得力があった。
 ポリーニ本人も今日の演奏には満足だったようで、終演後の笑顔が晴れやかだったのが印象的だった。
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by voyager2art | 2011-02-27 10:00 | ピアノ

僕のだめな一日/エッシェンバッハ & ロンドンフィル

(おことわり)
 今日の記事はレビューにもなっていません。この記事を載せるかどうか迷ったけれど、自分の記録として載せることにしました。全く中身はありませんが、これを読んでも怒らないで下さい。


 先日のベルリンフィルの興奮も冷めやらぬまま、一日おいてロンドンフィルのマーラー9番。指揮はエッシェンバッハ。プログラムの前半はマーラーのさすらう若人の歌で、歌うのは先日の魔笛で一番の存在感を見せていたクリストファー・マルトマン。とても期待していた演奏会だったけど、僕の方が全くだめだった。ベルリンフィルの3公演を含む7日連続公演で体力は限界に達していて、ベルリンフィルのあとに間が一日あったとはいえ疲れは溜まる一方。しかも金曜日。音楽を聴ける状態ではなかった。


Gustav Mahler: Lieder eines fahrenden Gesellen
(Interval)
Gustav Mahler: Symphony No.9 in D

Christopher Maltman (Bariton)
Christoph Eschenbach (Conductor)
London Philharmonic Orchestra

25/Feb/2011 (Fri) 19:30-
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London

 最初のさすらう若人の歌はまだ聴けた。マルトマンの充実して深く、しかし張りのある豊かな中低音と、甘い高音で歌われるマーラーは素晴らしい。魔笛のパパゲーノでは人間味溢れる演技を見せていたのできっと素晴らしい歌を聴かせてくれるだろうと思っていたけれど、期待以上にいい歌だった。
 しかし、その次の交響曲9番になると、僕はもうだめだった。エッシェンバッハはゆっくり目のテンポで静かに歌を紡いでいく。彼は絶対に声高に雄弁に音楽を語ろうとしない。今まで聴いたマーラー9番のどんな演奏とも違っていて、何より僕の中にある、感情表現を極限まで押し拡げた音楽、というイメージとも全然違う。全てのツボで僕の中のイメージの逆を行く演奏が繰り広げられる。
 普段だったら、じゃあ彼はそうやってどんなに新しい音楽を聴かせてくれるのだろうか、と演奏者の音楽に食らいついていくところなんだけど、それをやる気力はもうなかった。
 ロンドンフィルの演奏は悪くなかったと思う。エッシェンバッハの音楽も、もっと僕が元気なときに聴いたら面白いものが発見できたに違いない。でも今日はだめ。疲れ過ぎ。

 まあ仕方ない。こういうこともある。
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by voyager2art | 2011-02-26 18:42 | オーケストラ

高い山々、天国、深い井戸、そして愛の希望/ラトル & ベルリンフィル & シュトゥッツマン

 いよいよラトルとベルリンフィルのロンドン公演の最終日。曲目はマーラーの3番。アルトはナタリー・シュトゥッツマン。連日の大曲の名曲。この演奏会のチケットは最初に取り損ねてからずっとリターンを待っていたけどなかなか取れず、ようやく一ヶ月ほど前に取れた。毎日しつこく会場のウェブサイトをチェックしていたので、リターンを見つけたときは思わず叫び声を上げた。
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Johannes Brahms: Es tönt ein voller Harfenklang, Op.17 No.1
Hugo Wolf: Elfenlied
Gustav Mahler: Symphony No.3
(No Interval)

Anke Hermann (Soprano: Brahms)
Nathalie Stutzmann (Contralt: Mahler)
Stefan Dohr (Horn: Brahms)
Marie-Pierre Langlamet (Harp: Brahms)
Tamás Velenczei (Posthorn: Mahler)
Ladies of the London Symphony Chorus
Ladies of the BBC Singers
Choir of Eltham College

Sir Simon Rattle (Conductor)
Berliner Philharmoniker

23/Feb/2011 (Wed) 19:30 -
Royal Festival Hall, South Bank Centre, London


 最初のブラームスの歌曲は、ソプラノ独唱とホルンソロとハープに、小規模な女声合唱が入る音楽。竪琴と角笛を伴った歌、と表現する方がロマンティックかも知れない。オーケストラの他のメンバーがステージには上がっていたけど演奏せずに聴いていた。とても素直な美しさの音楽で、マリー=ピエール・ラングレメとシュテファン・ドールという二人の名手の伴奏に乗って、ヘルマンの誠実な歌が心地良かった。
 続くヴォルフは名前はもちろん知っていたけど、録音・実演を通してその作品を耳にするのは初めて。マーラーと同じ年の生まれということだけど、音楽自体はマーラーに比べるともっと小ぢんまりとまとまった中にひっそりと美しさを湛えているという感じの小品だった。もっともこの歌はヴォルフが20代で書いた曲なので、後年の彼の音楽はもっと違っているだろうと思う。オーケストラも小編成ながら音色の使い方が自然で、シュレーカーなどのロマン派最後期までもうあと一歩というところまで来ているのがよく分かる。
 2曲あわせて10分ほど。ここでヘルマンは舞台袖に下がり、休憩なしにマーラーの演奏が始まった。


 冒頭の8本のホルンは勇壮そのもので、パート全体でまとまって芯の通った音色はさすが天下のベルリンフィル。このファンファーレの後半の下降音階に僅かにかけられたリタルダンドによって重みが増し、そのために峨々たる峰々のどっしりと壮麗で雄大な風景が際立つ。
 その後の演奏は殊更に深刻になることのない、実に自然な流れの音楽。小手先の技に頼ることなく、ゆったり大らかな演奏。毎日芸もなく同じ表現を繰り返すけど、音量と音色のレンジが極端に広くて、それを目一杯使いながら途切れることのない歌が延々と続く。ピアニシモもフォルティシモも技術的に本当に余裕があって、とんでもない音量(大きい方も小さい方も)で演奏していても音楽の表現はますます冴え渡る。
 この楽章は心理描写ではなく実に鮮やかで壮大な風景描写の音楽で、マーラーが弟子のブルーノ・ワルターに「この景色は全て作曲した」と語ったという風景が、まさに眼前に展開されていく思いがする。またしても繰り返すけど、オーケストラの上手さと音楽の豊かさに聴き惚れているうちに、長いはずの第1楽章があっという間に終わっていった。

 続く第2楽章。冒頭のオーボエソロを吹くのは名手アルブレヒト・マイヤー。このソロに現れる三連符のスラースタッカートの、絶妙のアーティキュレーションに心奪われる。音がつかず離れず、ではなくて、付いていて離れている。この魅力は言葉ではうまく説明できないのが本当にもどかしい。
 そのソロに続いて現れる、大輪の花が一気にひらくようなヴァイオリンの旋律は、むせ返るような官能の香りがさっと立ちのぼり、空気を余さず甘い香りで満たす。山あいの野原で気の趣くままに歩き回り、移り変わる風景を楽しむような音楽に、ここでも身を委ねる。
 この楽章の最後は、切なくなるほど美しかった。

 第3楽章はスケルツォだけど、人間同士の機知やパロディではなくて、自然の中の動きの面白さを力まずに爽やかに描いている感じ。でもこの楽章は何といってもポストホルンのソロ。舞台袖から鳴り渡るヴァレンツァイの演奏の美しさは、もうまさに天国的。この人は歴代のベルリンフィルのトランペット首席奏者の中でも際立った美音の持ち主で、優しく輝いて無駄な力の一切掛からない、完璧に澄み切った明るい音でポストホルンのソロを吹き切った。何度か演奏されるこのソロの最高音を、この上なく美しいピアニッシモで吹いたときの響きは、もう夢と現(うつつ)の境界が溶けて恍惚郷に遊ぶ心地がする。夢心地の中で時間の流れも止まり、明るくて優しい光の中に包み込まれていく。

 第4楽章は一転して、夜の帳が降りた中に見る神秘の音楽。シュトゥッツマンのソロが入ってきたとき、それが声だとはちょっと信じられなかった。透明な水を湛えた井戸を覗き込み、その水を通して見る暗い無限の深さの神秘に飲み込まれるような感じで、非常に深い豊かさと厚さ、そして潤いがある。全く声高ではないにも関わらず、空間を内側から満たし切って深く響き切る声はちょっと他に聴いたことがない。昨年のロンドンフィルの演奏会で聴いた、彼女の歌うリュッケルト歌曲集もとても良かったけれど、今日の彼女は、"O Mensch!"の一声だけで会場を圧倒した。このアルトに微かな灯を点すトロンボーンの和音もこの上なく美しい。
 4楽章のアルトの深さがあまりにも印象的だったので、続く5楽章の児童・女声合唱の明快で晴れやかな天使の歌が非常に鮮やかな対比を見せた。女声合唱はロンドンシンフォニーとBBCシンフォニーの合唱団の女性陣だったけど、とても上手。すっきりとよく伸びる歌声がロンドンのオーケストラの響きをふと思い出させる。

 この可愛らしい合唱曲が終わると、間をあけずに最終楽章を開始。ラトルはここでも感傷を排して、少し速めのテンポでとてもすっきりとした演奏をする。最初のうちは人の感情を描いたというよりも、夕闇にとけ込んでいく山の景色のような描写に感じられた。ベルリンフィルの弦楽器のピアニシモが美しい。特にヴァイオリンの高音域の音程が一糸乱れず完璧に揃うので、その透き通った響きの美しさは心に沁みる。

 次第に光が落ちてきて夜の帳が再び降りてくると、今回は神秘の内に入り込むのではなくて、ようやく人の心の繊細な動きが描かれ始める。この楽章では愛がテーマになっているのは有名な話だけど、ここで語られる愛は実に若々しい。先日のBBCシンフォニーで聴いた6番のときのように、心の底に消え難く残る過去の辛さとの苦い戦いといった重さはここにはない。この楽章の音楽自体は激しく震え、不安が吹き荒れる部分を持つけれど、これはあくまでも自分の恋愛の将来への不安であって、根本的には将来への希望に付随するある種の自己陶酔のようなものでしかなく、その不安に甘美さはあっても苦さはない。その証拠に、不安が過ぎれば希望に満ちた音楽が再び明るく立ち上がり、前回を遥かに上回る力強さで前向きに朗々と歌い上げられる。
 甘い不安を何度か楽しみながら、音楽はどんどん巨大なものにふくれあがっていく。最後はホールが振動していると感じるほどの途轍もない圧倒的なフォルティシモ。まるで全ての音が核融合のように強烈に反応し合い、それがまた別の反応を引き起こして、終いには強烈なまぶしさで輝き切るようで、全ての楽器が音量を完全に解放してこの曲を演奏し終えた。


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ラトルとソプラノのヘルマン、アルトのシュトゥッツマン。
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ポストホルンを吹いたヴァレンツァイ。
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木管楽器のトップ陣は、フルートのブラウ、オーボエのマイヤー、クラリネットのフクス、ファゴットのダミアーノ。言わずと知れたスタープレイヤーたち。
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ドール率いるホルンセクション。
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 終わってみれば今日もまた、ベルリンフィルの圧倒的な上手さとラトルの絶妙な組み立てに胸が希望と幸せでいっぱいになる演奏だった。
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by voyager2art | 2011-02-24 10:12 | オーケストラ

天国の音楽/ラトル & ベルリンフィル

 昨日に続いてラトルとベルリンフィルのロンドン公演。シューベルトの交響曲9番(グレート)をメインに、ハイドンの交響曲と細川俊夫氏の新作のホルン協奏曲。ホルンソロはもちろんシュテファン・ドール。


Joseph Haydn: Symphony No. 99 in E flat
Toshio Hosokawa: Horn Concerto - Moment of blossoming (UK premiere)
(Interval)
Franz Schubert: Symphony No.9 in C, D.944 (Great)

Stefan Dohr (Horn)
Sir Simon Rattle (Conductor)
Berliner Philharmoniker

22/Feb/2011 (Tue) 19:30 -
Barbican Centre, London


 演奏会の最初にオーケストラのメンバーが舞台に上がってきたときに、思わず目が釘付けになったのがホルン奏者のサラ・ウィリス。Youtubeの動画では何度も見たことがあったけど、本物を見たのは初めて。動画でもきれいな人だと思っていたけど、実際はそれ以上のものすごい美人で驚いた。今日の僕の席は舞台のすぐ前で、管楽器陣はほとんどみえなかったけど、たまたまサラ・ウィリスだけは角度がよくて良く見えた。ラッキー。

 最初のハイドンは、疲れが出て上手く聴けないまま、意識が少しまどろんだ。僕は実演でモーツァルトを聴くと寝てしまうことが多い(オペラは別)けど、ハイドンもどうやら同じらしい。深い眠りに落ちたという訳ではないけど、心地よい響きに身を委ねて少しうとうととした。

 続くホルン協奏曲は、"Moment of blossoming"という題がついていて、プログラムによれば、蓮の花が神秘的にひらくさまと、そこに付随する東洋の祈りの想念を描いた曲ということらしい。
 曲はほとんど聴こえないほどのヴィオラの持続音から始まる。明確な旋律を持たず、静かなというよりかすかな音響が空間の広がりを表しているよう。再び曲目解説によると、これは実際には水面の描写らしいのだけれど、僕には日本の夏の風景を思い起こさせた。炎天下の夏の空気の中で、全てのものがまどろみ、濃密で白い太陽の光の中にまぶしく溶けていく。風の音一つ聞こえず、葉ずれのささやき一つ聞こえない完全な静寂の中で、木の葉の影が、太陽に強く照らされた地面に斑な模様を描いている。そんなイメージ。
 音が動き出すと、今度は突然水に揺れるイメージに変わった。その中で独奏ホルンが、やはり旋律ではない何かを奏する。それは成長していく蓮のイメージなんだけど、オーケストラが描き出す周囲の世界の一つの要素であって、西洋式の協奏曲にあるような、管弦楽の対立項としての独奏ではない。あくまでも、世界の一つの要素としての蓮の花にフォーカスしただけという感じ。とっても東洋的な思想を明確に感じる。

 やがて音楽は大きく活発に動き始める。解説によると花と自然の間に起こる衝突("Conflict")と説明されていたけれど、このConflictという語は本当に正しい訳なのかと疑問に思った。これもやはり対立ではないように思えた。むしろこれは、花とその周囲の自然とのインタラクションinteractionではないのか。
 解説では蓮の花の擬人化、あるいは蓮の花に東洋人が込める祈りを音楽に盛り込んだ、とある。それを読み解く際に、洋の東西の根本的な発想の違いに注意する必要があると僕は思う。ヨーロッパ(キリスト教)では、人は自然と対立あるい対比するものだ。人は神が特別に創造した存在なのでそれは論理的に当然の帰結だ。一方の東洋では、人は自然の一部であって、相互に対立するものではないという発想が根底にある。東洋的、あるいはもっと絞り込んで日本的な世界観では、八百万(やおよろず)の神に象徴されるように、本質的に並列で多様なものが動的な均衡を保っているという思想があると僕は思う。その世界では、蓮の成長がもたらす周囲の自然との「衝突」は、あくまでも動的な均衡の一部をなす相互作用でしかないはずだ。

 客席にトランペットとトロンボーンが配置されていたために、四方八方から音が飛んできて、非常にダイナミックなプロセスの中に入り込んだような錯覚を覚えた。分子レベルで蓮と自然が相互に作用を及ぼし合い、その結果として蓮が成長し、染色体が複製され、細胞分裂が活発に行われる。微視的には極めて活発なそのプロセスの中に放り込まれたような感じで面白い。

 極めて印象的だったのは、その後にくる、花がひらくところの描写。西洋式の音楽であれば、この花が開く瞬間というのは何かの(=「神」の創造行為の)成果であり、誇るべき、あるいは賞賛すべき達成だ。しかしこの曲では、そういう人間側の理屈や都合には無関心に、あくまでも自然の動的な均衡の一プロセスとしての開花が淡々と描かれる。時が経てばこの花はしぼみ、枯れていく。そして年が巡ると、また同じプロセスで花がひらく。これが動的な均衡だ。その描写に人間の感傷や思惑は排除されているて、厳しく、全体的な世界の把握に再び東洋の思想を感じた。

 この音楽には非常に魅了された。僕自身が日本人であるということを極めて強く思い出せる力があって、一方でこの曲をヨーロッパの人々がどう捉えたのかという点も非常に興味深い。案外きちんとこういうことを理解しているんじゃないかなというが僕の予想。なぜなら、ドールとベルリンフィルがこの点を極めて明瞭に表現していたから。
 いずれにしても、この細川俊夫という人の音楽はもっと色々と聴いてみたい。本当に面白かった。



 休憩を挟んでいよいよメインのシューベルト。シューベルトの音楽を聴くのに理屈を語るのは野暮というものだろう。どこまでも歌に満ちていて、様々な表情を持った旋律が次から次へと繰り出される。そこに、特殊な和音は全く使わないのに、繊細であっと驚くような絶妙な和声の変化が添えられて、万華鏡のように音楽が変化していく。ひたすら流れ続ける音楽に身を浸し、溺れ、沈んでいく。究極的に美しい音楽に浸かり、純粋で豊かな歌に酔う。
 ラトルとベルリンフィルの演奏も本当にすごかった。ラトルはベルリンフィルの音色と音量のレンジを最大限に使いつつ、細心の組立てと指示でシューベルトの音楽をとても自然に歌わせる。オーケストラもそれに完璧に応え、歌とアンサンブルを究極的な水準で並立させる。厚みのある統一のとれた響きは相変わらず素晴らしく、その上にメリハリの効いた彫りの深い、そしてとても鮮やかでかつ豊かな音楽が滔々と流れ続ける。

 至福の音楽のときが流れていって、その中でも印象的だったのは、例えばスケルツォでリズムに絶妙のタメをつけて諧謔味を強調したかと思えば、中間部のトリオでは、秋のさなかに黄色く色づいた木々の葉に秋の日が柔らかく差し込み、葉が黄金色に輝き渡るような、明るくて透明な寂寥感の表現。このトリオは本当に美しくて、終わってほしくなかった。でもシューベルトの常として、美しい音楽ほどあっという間に過ぎ去る。そしてスケルツォが戻ってくると、不思議なことにまた、このスケルツォの面白さの虜になる。

 最終楽章はベートーヴェンの7番の終楽章のような興奮を持った音楽だけど、一方でシューベルト特有の歌心は決して途切れることがなく、でもラトルとベルリンフィルはその歌心をしっかりと中心に据えて保ったまま、どんどん巨大な音楽を構築していく。圧倒的な推進力とどこまでも続く歌心の希有の結合で、圧巻のフィナーレが作り上げられていった。
 この演奏はすごかったとしか表現のしようがない。この曲を聴いて短いと思ったのは初めての経験だった。こんなにあっという間に終わってほしくなかった。
 音楽の幸せに浸り切ることのできる、美しい時間だった。
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by voyager2art | 2011-02-23 09:37 | オーケストラ

天上の音楽・地上の歌/ラトル & ベルリンフィル & シェーファー

 今日から3日間続けてベルリンフィルの演奏会。昨日の記事でも書いた通り、本当は昨日からベルリンフィルの演奏会は始まっていたけど、昨日の室内楽の演奏会には行かなかった(チケットが取れなかった。でもそのおかげで五嶋みどりのすごい演奏が聴けた。)ので、今日が僕にとっての初日。今日の演目はストラヴィンスキーの「ミューズを率いるアポロ」と、マーラーの4番。


Igor Stravinsky: Apollon Musagète (1947 version)
(Interval)
Gustav Mahler: Symphony No.4 in G

Christine Schäfer (Soprano)
Sir Simon Rattle (Conductor)
Berliner Philharmoniker

21/Feb/2011 (Mon) 19:30 -
Barbican Centre, London


 最初のストラヴィンスキーは初めて聴く曲。新古典主義の様式の音楽で、弦楽合奏によるバレエ音楽。演奏が始まると、濃密に薫り立つような弦の響きにいきなり圧倒される。響きの重心の低さと音の厚みが素晴らしく、スタイリッシュで明るい響きのロンドンのオーケストラとはやっぱり全然違う(ロンドンのオーケストラも好きなんだけど)。その分厚い響きの上で、官能的と言ってもいいほどの極めつけの柔軟さで濃厚に音楽を歌い上げる。
 ストラヴィンスキーの音楽は新古典主義らしく明快な響きを持ちつつ、独特の不協和音も多用されている。この不協和音には不快感は全くなく、むしろ何とも言えない非現実感が漂ってきて、まさにこの曲の題材となった神話の世界をのぞき込むような感覚に襲われる。柔らかく明るい響きから、全く汚れのない神話世界が描き出されて、非現実の世界の物語の幕が開いた。

 それにしてもベルリンフィルの弦楽セクションの素晴らしいこと! 虹のように無限に変化する色彩と、弦楽合奏とはとても思えないダイナミックレンジの広さ。特にフォルティシモの豊かさと多彩さは圧倒的。また、各パートが非常に表情豊かに歌う上に、パート間の有機的なアンサンブルも無類の精緻さを誇り、立体的で驚くような深みのある表現が繰り出される。
 この曲にはヴァイオリンの長いソロがあって、途中には二人のヴァイオリンがソロで合奏するところもある。今日のコンサートマスターは樫本大進で、その隣にはやはりベルリンフィル第一コンマスのブラウンシュタインが座っていた。この二人のソロの合奏はちょっと他では聴けない素晴らしさで、それぞれがソロを華麗に歌いつつ、完璧としか言いようのないアンサンブルを聴かせる。すごい!

 不快な刺激というものが全く存在せず、柔らかな光に満ちた無垢の神話世界で繰り広げられるアポロとミューズの物語が、遠い過去の幻を眼前に見ているような不思議な距離感で描かれる。この演奏にのってタマラ・ロホやアリーナ・コジョカル、マリアネラ・ヌニェス達がバレエを踊ったらどんなに素晴らしい天上の世界が描き出されただろうと想像する。
 最後は模糊として広がる世界の遥か遠く、茫々たる果てに音楽と風景が移り去っていき、そのまま僕の心も永遠の果てに運ばれていった。



 休憩の後はマーラーの4番。冒頭はかなりの遅さと強い音で始まってびっくり。このフルートと鈴がインテンポで奏される中で、ぐっと弦楽器がリタルダンドを効かせて入ってくる。この部分のリズムのずれは、このブログによく来て下さるつるびねったさんが教えてくれたもので、ラトルならやってくれると思っていた。実際そうしてやってくれたんだけど、期待していたような時空が歪むような効果はあまり感じなかった。知らずに聴いたらびっくりしていただろうけど、期待して聴くとちょっと判りやすすぎると言うか、あっけらかんとテンポをずらされてウィンクされたような感じ。

 そのリタルダンドの後は、今度は打って変わって速めのテンポ。彫りの深い表情付けでぐいぐい進む。僕は最初のうち、この演奏のツボが判らずになかなかついていけなかった。
 僕はこの音楽について、箱庭のような、精密で小さくまとまった世界という印象を持っていた。ところが途中でふと波長が合って、そこで気付いたのだけれど、ラトルはこの曲をマーラーの5番のように非常にダイナミックに演奏する。今まで小さな世界と思っていたところに、自分が小人になって入ることになってその大きさにびっくり、という感じ。詩的というよりも力強く構築的な演奏。今まで聴いた、この曲のどんな演奏とも違っていて刺激的だった。

 今日の演奏を聴いていて、一つ面白かったのが、音色の頻繁な交替。ある楽器が旋律を演奏していたと思っていたら、突然別の楽器がその旋律を受け継ぐ。いわゆる音色旋律の技法が、この曲の中で執拗に用いられていて、それを鮮やかに演奏するベルリンフィルの上手さに舌を巻いた。
 彼らは一人ひとりが、自分の演奏している旋律はどの楽器から引き継がれ、どの楽器に受け渡されているのか熟知していたに違いない。その彼らが音色の無類の豊かさとアンサンブルの比類ない精緻さで、マーラーの凝りに凝ったスコアを明快に音にしていく。そのめくるめく音色の変化はたまらなく面白い。

 第2楽章は僕にはほとんどホルン協奏曲のように聴こえた。ソリスティックな第1ホルンを、天才ホルン奏者シュテファン・ドールが力強く輝かしい音で朗々と、そして縦横無尽、天衣無縫に歌い切る。まるでマーラー5番の3楽章を聴いているみたい。ベルリンフィルではかつて、ゲルト・ザイフェルトという伝説的なホルン奏者が首席を務めていたけれど、ドールもまた既に新たな伝説を打ち立てていると言っていい奏者。上手いとか何とかという水準を遥かに抜いている。
 もちろんこの楽章で活躍するのはホルンだけではなくて、特にパユの吹くフルートも音色と表現の幅広さが素晴らしい。全体的に、この楽章のスケルツォとメヌエットが混在したような独特の諧謔が楽しめる演奏だったけど、途中の美しい楽想は割とあっさり演奏されて、耽美的な音楽に浸るのは次の楽章まで待てということなのかなと思った。何といっても指揮はラトル。音楽の構成の上手さは当代一流の人なんだから。


 続いて第3楽章。最初の静かな音楽は、とても息の長い歌をゆったりと歌うのかと思っていたら、ちょっと意外なほどあっさりと演奏された。ラトルはこの楽章の重点を、中間部のドラマティックな表現に置いていたようだった。ベルリンフィルの音色と音量の圧倒的なレンジの広さを最大限に使って、まるで嵐のような強烈な表現を全力でぶつけてくる。
 ただし正直な感想をいうと、とても上手な役者が演技しているのを、演技とわかって第三者的に見ているような、心理的には少し距離感のある演奏だと感じた。先月聴いたビエロフラーヴェクとBBCシンフォニーのときのように、心に直接響いてきて自分自身がその中に引き込まれ、当事者として音楽を体験するというのとは違う。演奏の上手さ、語り口の巧みさと描写の精密さはベルリンフィルの方が圧倒的に上だけど、音楽自体の精神への影響力というのはまた別のものだ。ラトルは知的な面でも情緒の表現の面でも極めて優れた指揮者だけれど、今日の演奏は知的な方に少し偏り過ぎた気がする。

 終楽章の直前にシェーファーが舞台に登場。シェーファーは昨年のロンドンフィルの演奏会で、同じマーラーの4番を歌うのを聴いた。そのときは深みのあるいい歌だと思ったけれど、今日は少しぎこちなく、力み過ぎのように感じられた。もともと僕は、この終楽章のソプラノは天上から降ってくるような歌われ方をするのがいいなと思っているのだけれど、今日の歌唱では、地上で伝道師が一生懸命に、声高に天上の世界の素晴らしさを布教しているような印象だった。こういう人に道ばたで神の教えを説かれたら、僕は本能的に警戒する。
 ラトルはそんなシェーファーを細心の指揮でサポートし、バックのオーケストラも精密で繊細きわまりない音楽を奏でていたけれど、歌と管弦楽の乖離は覆い難い。

 ソプラノが歌い終えてから、最後はしずかにたゆたうように音楽が遠くへ去り行き、芳しい大気の中に溶け去っていく。この最後の部分の精妙な演奏は素晴らしかったけど、全体としてはちょっと気持ちが乗り切れない演奏だった。今日の演奏の価値は、知的な構成の面白さにあったと思う。まだあと二晩ある。次に期待しよう。
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by voyager2art | 2011-02-22 09:46 | オーケストラ

魂が震えた/五嶋みどり ヴァイオリンリサイタル

 今日からベルリンフィルのロンドン公演が始まった。初日の今日は室内楽公演でとっても行きたかったけど、気付いたときにはチケットは完売。ずっと手に入らず、諦めて他を色々見ていると、たまたまこの五嶋みどりの演奏会を見つけた。彼女の演奏は昨年末のロンドンシンフォニーの演奏会でブルッフの協奏曲を聴いていて、その素晴らしさに感銘を受けていたのでまた聴きたいと強く思っていたので、すぐにチケットを購入。フランクのソナタを弾くというのも嬉しい。
 会場はウィグモアホールで、今まで名前は知っていたけどきっかけがなくて来たことがない会場。いろいろと楽しみに演奏会に出かけた。


Midori (Violin)
Charles Abramovic (Piano)

Ludwig van Beethoven: Violin Sonata No.1 in D
Brett Dean: Berlin Music for violin and piano
(Interval)
Franz Schubert: Sonatina in G minor D408
César Franck: Violin Sonata in A

20/Feb/2011 (Sun) 19:30 -
Wigmore Hall, London



 最初のベートーヴェン。非常に鮮やかなリズムで奏された導入部に続き、明るく伸びやかに歌う音楽が続く。五嶋みどりのヴァイオリンは、昨年聴いたブルッフのときと同じように細くて強い芯のある音で、でも今日は会場が小さくて僕の席も舞台のすぐそばだったので、その芯の周りにとても豊かな響きもある。とくに和音を弾いたときの響きの厚さに驚いた。ヴァイオリンってこんなに鳴る楽器だったのかという感じ。

 ブルッフは非常に情念の深い演奏だったけど、今日のベートーヴェンはもっと颯爽として力強い。もちろんこの曲はベートーヴェンの初期の曲なので、古典的な装いの曲ではあるけれど、ここで彼女が演奏したのは、将来の芸術の革命家としての素質を予感させつつもまだ古典の世界に留まるベートーヴェンではなく、既に探求の一歩を踏み出して積極的に未知の世界を開拓し、自己の芸術をたくましく誇りと確信を持って打ち立てつつあるベートーヴェン。どこをとってもよく歌っていて、振幅の広い表現で奏される音楽は自信に満ちて豊かな壮大さがあり、前向きで創造の喜びに溢れている。

 最近聴いたばかりなのでどうしても比較してしまうのだけれど、先日のジャニーヌ・ヤンセンも表現力が豊かで、伸びやかによく歌うヴァイオリニストだった。ヤンセンのヴァイオリンの魅力は、音楽を通して彼女の魅力が放射されているところで、その魅力というのも彼女自身の女性としての魅力と直接につながっていると思うけれど、五嶋みどりはそれに比べると一歩下がって、献身的に音楽自体の魅力を抽き出すことに専心しているように思える。だから彼女の演奏には、女性的というよりも彼女自身の人間性の深さと豊かさが魅力となって立ち現れてくるし、その演奏から受ける感銘は一段深いものになる。
 またヴァイオリンを弾くという技術について言えば、五嶋みどりはヤンセンの遥か上を行く。そもそも五嶋みどりの演奏技術は、現代の並み居るヴァイオリニストたちのなかでも最上位に位置すると言っていいのではないかと思う。どんなに難しい楽譜でも豊かに歌い上げ、音程やリズムも全く崩れないのはすごいとしか言いようがない。
 アブラモヴィッチのピアノも非常に安定した技術の上で暖かく共感に満ちた演奏で、優しくしっかりと五嶋みどりのヴァイオリンを支えていた。


 続くディーン(と読むのかな?)の曲は英国初演。ヴァイオリンのG線を全音下げたF(ファの音)で調弦するので、最初のチューニングがいつもと違ってちょっと面白い。
 音楽自体はいわゆる無調の曲だけど書法がとてもこなれていて聴きやすい。聴きやすいけど、一方で内容は極めて緊張感のある音楽で、周囲の雑音を完全に遮断した環境で自分自身と真剣に向き合うような印象だった。厳しさと心象の豊かさが音楽全体に満ちていて、五嶋みどりとアブラモヴィッチの演奏もこの曲への共感に満ちた素晴らしいものだった。
 ベートーヴェンのときよりも遥かに多彩な技巧を駆使したこの曲を、二人は素晴らしい技術で音にするだけでなく、抽象的な緊張感も、ドラマティックな部分も、どこを取っても有機的な音楽に編み上げる。この曲は間違いなく素晴らしい内容を持つ音楽だと思ったけれど、この二人が演奏するのでなければ、これだけ面白い演奏になったかどうか。作曲家と演奏家がそれぞれに全力を出して作り上げた、見事な音楽だった。


 休憩を挟んでシューベルトのト短調のソナタ。ソナチネと呼ばれることも多い曲。ここでも五嶋みどりのヴァイオリンはよく歌う。ベートーヴェンと同じように古典的なスタイルの曲だけれど、ベートーヴェンと違ってシューベルトなので、ここではベートヴェンのときのような挑戦の気概はなく、もっと肩の力が抜けた演奏。でも仲間内での親密な演奏というのとも少し違って、コンサートピースとして音楽を伸びやかによく歌わせる。
 この曲の2楽章は素朴な歌で始まる曲だけれど、この中間部で突然音楽の表情が変わる。それまでの平和に満ち足りて美しい音楽から、急に不安な胸騒ぎが始まり、やがてぽっかりと空いた穴を覗き見るような、深い虚無感に触れる音楽に移り変わっていく。心の奥の熱くて傷つきやすい部分を直接触られるような感覚に襲われる。
 この部分が終わると、何事もなかったかのようにまた素朴な歌が繰り返される。シューベルトはこういう音楽の組み立てをすることがときどきあって、こういうときに僕はいつも自分の心が遠くへ持っていかれるような心地がする。


 最後のフランクのソナタは僕の大好きな曲。序奏のヴァイオリンがとにかくよく歌う。まるでオペラ歌手の歌を聴いているかのように、彼女のヴァイオリンは息の長い旋律を、一杯にロマンティックに歌い切る。ブルッフのときに感じた情念の深さが一気に解き放たれた感じで、ベートーヴェンとシューベルトの、表現力ゆたかに歌いつつ均整の取れた演奏から音楽が表現ががらりと変わった。五嶋みどりという人の芸術家としての精神世界の広さと奥の深さに圧倒される思いだった。静かな部分の濃厚な集中力と、大きく歌うところの精神の雄大な飛翔は桁違いに素晴らしい。

 第2楽章はその表現の烈しさにまた圧倒される。これだけ烈しい音楽でありながら、ここでも彼女の演奏は音楽が本当によく伸びてきて、聴き手の心に直接飛び込んでくる。この楽章のピアノパートは難曲で有名(そもそもこのソナタのピアノはとても難しい)だけど、アブラモヴィッチのピアノも冴え渡り、力強さと表現力の点でヴァイオリンと対等の素晴らしい演奏。二人の技術、集中力、表現力が完璧に噛み合って、烈しくも美しい巨大な音楽が構築されていった。圧巻の演奏。

 この2楽章に圧倒されているうちに始まった第3楽章。この楽章は今までこのソナタの中で一番印象が薄い楽章だったけど、五嶋みどりはこの楽章でも素晴らしい演奏を聴かせる。厳しい集中力から生み出される濃厚な表現力は凄まじく、曲からロマンティックな情念が溢れ出し、立ちこめてくる。
 特に途中から提示される、終楽章でも使われる主題の美しさは信じられないほどで、静かに演奏される旋律の優しさと憧れと慰めの入り混じったような表現から、次第に力強さをまして歌い込まれる旋律から迸り出る揺るぎない愛情まで、表現の幅の広さと真正で純粋な心の清らかさに深く心打たれる。本当に、何という豊かな音楽なんだろう!

 もうここまでで完全に圧倒されているんだけど、その先の終楽章がまたすごかった。
 冒頭のカノンはこの曲でも一番好きな部分で、さぞかし美しく弾いてくれるだろうと思っていたら、これが期待を裏切って驚くほどあっさりと弾かれる。この時点では彼らの意図が分からず僕は混乱していた。でもこの後に続く中間部が一気に白熱し始め、二人の演奏の力強さと伸びやかさと情念の深さが最高潮に達する。もう誰にも止められないような凄まじい圧力の音楽で、魂を深く揺さぶられ続ける。

 このあと、カノンが戻ってくるところで、彼らはまたカノンの主題を控え目に弾いた。でも今回は全く違って聴こえた。五嶋みどりは、この上なく美しいこのカノン主題をとても大切に弾いた。弓の圧力を減らして、音楽がとても遠くから響いてくるようだった。まるで、心から愛する美しいものが絶対に傷ついたり損なわれたりしないように、母親が我が子の幸福のために命を捨てるような覚悟で、誰の手にも、自分の手にすら届かない遠くへと自ら置いたかのような愛に満ちた演奏だった。切実だけど純粋で清らかで、こんな美しさの表現があったのかと思えるような、奇跡的な美しさ。
 その後は身悶えするような愛惜の情が再び激しく燃え上がる。遠くから響いてきた天国的に美しいカノンの直後だったので、その直接的な感情の発露が一層痛切さを増す。そのまま一気に曲が終わった。

 演奏が終わってもしばらくはぼーっとしていた。余りにも深く音楽が心に食い込んできたので、なかなか元に戻れなかった。


 その後、アンコールが2曲。どちらも初めて聴く曲だったけど、一曲目がドビュッシーの(たぶん)「美しき夕暮れ」、二曲目がクライスラーの「中国の太鼓」。ドビュッシーはむせ返るような感覚美の音楽。続くクライスラーは技巧的でとても楽しい音楽で、ようやくこれで現実の世界に戻って来れた。五嶋みどりから、気をつけて帰りなさいと促されたような気持ちだった。
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by voyager2art | 2011-02-21 10:16 | 室内楽

パッパッパッ!/デイヴィス & ロイヤルオペラ / 魔笛

 昨日に続いてロイヤルオペラハウスへ。今日は昨年末のタンホイザー以来のオペラで、楽しみにしていた魔笛。実は今日はロンドンフィルがマーラーの大地の歌を演奏する日でもあって、後から気付いたけど仕方ない。何といっても魔笛。しかも指揮はコリン・デイヴィス。

 会場に着くと出演者変更のお知らせが。夜の女王を歌うジェシカ・プラットが病気で降板し、代役にコルネリア・ゲッツが出演するとのこと。幕が開く前のアナウンスによると、何とゲッツは今日の朝の便でドイツからロンドンに飛んできたらしい。プロフィールを見ると夜の女王をメットやベルリンを含むあちこちで歌ったとあるけど、とはいえこんな急な交替で大丈夫なのかと不安もよぎる。出番は少ないけど、言わずと知れた超絶技巧アリア(だけ)を歌う役。頑張って!

 ちなみにデイヴィスもここ数回、病気での降板が続いていたらしい。短期で復帰してくれるのか心配だったけど、無事に戻ってきてくれて、結論から先に書くと、観客を目一杯幸せにしてくれる素敵な素敵な魔笛を演奏してくれた。



Wolfgang Amadeus Mozart: Die Zauberflöte

Tamino: Joseph Kaiser
Pamina: Kate Royal
Papageno: Christopher Maltman
Sarastro: Franz-Josef Selig
Queen of the night: Cornelia Götz
Papagena: Anna Devin
Monostatos: Peter Hoare


Colin Davis (Conductor)
The Royal Opera House

19/Feb/2011 (Sat), 19:30 -



 幕が開く前の序曲から、オーケストラの音が昨日と全然違う。ロイヤルオペラハウスのオーケストラはとても上手なんだけど、バレエのときは実力を出し切って演奏しないことが多い。ほぼ毎晩何かやっているので仕方ないし、もちろん力は抜いても手は抜かずにちゃんと演奏はしているんだけど、これがオペラの伴奏となると、特に難曲になればなるほど、彼らは驚くような実力を発揮する。その彼らが本気でモーツァルトを演奏すると、もう本当に素晴らしい。厚めの響きでいきいきと表情豊かに、でも今日は魔笛だから非日常の荘厳な雰囲気も出して、とても魅力的な音楽が奏でられる。

 デイヴィスの指揮もとても良かった。去年観たフィガロの結婚のときは、肉太で明快、快活な演奏だったけど、今日はもっと優しくて柔らかい音楽。話が進むにつれて様々な登場人物が現れ、色々なエピソードが展開されるけど、常に彼は懐の深い伴奏をつける。タミーノやパミーナ、ザラストロらの「善玉」もいれば夜の女王やモノスタートスもいて、一方でパパゲーノとパパゲーナがいて、そういう色々な登場人物をすべてひっくるめて人間として愛する、そういう深い慈愛に満ちた音楽。

 デイヴィスの暖かい音楽に乗って歌う歌手陣も本当に良かった。タミーノとパミーナは二人とも声量も表現力も容姿もすばらしかったし、ザラストロの威厳と賢明さを備えた存在感もとても良かった。でも誰よりも惹かれたのがパパゲーノ。僕はパパゲーノのような生き方が絶対にできない性格なので、よけいにパパゲーノを見ていると楽しくて幸せになる。パパゲーノ役のマルトマンは演技力抜群で、笑いをたくさん誘いながら、人間的にもとても魅力的なパパゲーノを演じてみせてくれた。

 心配していた夜の女王は、やはり喉の準備期間が短すぎたのだろう、他の歌手に比べて明らかに声が出ていなかった。超絶技巧のアリアでも無理やり声を出している感じ。それでもあのアリア2曲を破綻なく歌ったのはすごいことだし、特に第2幕の「復讐の炎は〜」のアリアの方は第1幕より声も自然になって、よく乗り切っていた。お客さんからも盛大に拍手とブラボーが飛んでいた。

 今日の舞台を見ていて、僕はただただひたすら幸せだった。パパゲーノとパパゲーナが、幸せ一杯に有名な「パ、パ、パ」の歌を歌うところでは、なぜだかよくわからないけど泣きそうになるくらい幸せな気持ちになった。シカネーダーの楽しい台本にモーツァルトがこの上なく美しい音楽を書き、それを役者ぞろいの歌手陣が、デイヴィス率いるロイヤルオペラのオーケストラに乗って歌う。紛れもなく至福の一時。

 今日はもう、これ以上何も書くことがない。
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by voyager2art | 2011-02-20 09:56 | オペラ

虚無は世界の半分/コジョカル & コボー & ロイヤルバレエ/ジゼル

 待ちに待ったコジョカルのジゼル。もちろん相方はコボー。タマラ・ロホ、ロベルタ・マルケスに続いて今シーズン3度目のジゼル。

Adolphe Adam: Giselle

Alina Cojocaru (Giselle)
Johan Kobborg (Albrecht)
José Martín (Hilarion)

Genesia Rosato (Berthe)
Sian Murphy (Bathilde)

Hikaru Kobayashi (Myrtha)
Yuhui Choe (Moyna)


Barry Wordsworth (Conductor)

18/2/2011 (Fri), 19:30 -

The Royal Ballet, Covent Garden, London


 第1幕、アルブレヒトに誘われて出てきたジゼルの自然な可憐さにまず魅了された。ロホの演じた絵に描いたような、やや人工的な表現とは異なり、そしてマルケスの弾けきった天真爛漫なジゼルとも異なり、余分もなければ不足もない。ああ、これがジゼルだと素直に納得せずにはいられないような、素朴さと可憐さを自然なバランスで併せ持ったジゼル。
 全体的に積極的な表現で役柄を作り出すというよりは、無駄を極限まで取り除いたミニマル的な、純化された表現だったので、アルブレヒトの積極的なアプローチに対して示す恥じらいと嬉しさの表現がとても奥床しい。もちろんアルブレヒトに心を開いていってとても幸せな気持ちもストレートに伝わってくるんだけど、一方で心臓が弱いという面の表現も絶妙。
 バティルダとのやり取りの場面では、バティルダとジゼルの身分の違いやそれによる育ちの違いの対照もとても自然に描かれる。こういう細かいところの自然な表現の積み重ねは圧倒的。

 この第1幕前半の踊りが素晴らしければ素晴らしいほど、後半の錯乱の場面への期待も高まる。そして、その場面。僕はここで、コジョカルがもっと積極的に正気を失ったジゼルの心理を演じると思っていたけれど、彼女はそれを全く別の方法で描いてみせた。
 突然の出会いからジゼルに降ってきた幸福は、思いがけなくもあっけなく崩れ去れ去った。そのあと彼女は狂気の世界に入るというよりも、たったいま目の当たりにした、彼女にとっては余りにも残酷な現実から彼女を隔離してしまう。彼女は悲しみだけでなく喜びも全て消し去ってしまったようで、だから彼女がアルブレヒトとの楽しかったひとときの思い出に浸って幻の花で花占いをやっていても、その思い出の中の幸せは空っぽの抜け殻でしかない。
 彼女が切り捨てた世界が虚無となって、彼女の背後から立ち昇ってくる。人間の意識の世界と同じだけの広さを持った空虚が、息の詰まるような存在感でのしかかってきた。

 ジゼルがアルブレヒトの剣を持って虚ろに舞台上をさまよった後、その剣を捨てて彼女はアルブレヒトの胸に飛び込む。飛び込むけど、その瞬間に、大好きなアルブレヒトに抱きかかえられる寸前に、彼女は絶命する。この場面で鮮やかという言葉を使うのが場違いであることは百も承知だけど、コジョカルの動きと表現の鮮烈さには息をのんだ。文字通り彼女はアルブレヒトの腕の中から滑り落ちた。信じ難いような体のコントロールで、その表現に衝撃を受けた。



 休憩を挟んで第2幕。最初のミルタは小林ひかるさん。怖いというより、ちょっと真面目なミルタという印象を受けた。なんだかきっちりきっちりという感じ。一方、モイナ役のチェ・ユフィさんはいつもながらの愛嬌のある優雅さが本当に素敵。ウィリーとしてはちょっと魅力的に過ぎる気もするほどで、僕の目はモイナに釘付けだった。
 やがてジゼルの亡霊が登場。ジゼルの姿は見えているのに、手で触れることのできないアルブレヒト。彼の手をすり抜けるジゼルの表現は、はっきりと分かりやすく動きで示したマルケスのときと違って、コジョカルの動きは極めて簡潔。でも、二人が別の世界に存在していることははっきりと分かる。ここでも表現はミニマル。
 やがて二人は手を携えて踊りだして、でも急にまたジゼルがアルブレヒトの手をすり抜けたりして、現(うつつ)と幻の交錯が美しい。また、この場面でのコジョカルの身体的な動きも本当にすごくて、つま先立ちで足先だけを細かく動かして移動するところなどは、まるで体が床の上を滑っていくようだし、その足先の動きも、ピアノの名人の弾く速いトリルのように美しい。一方でコボーに体を持ち上げられたときの、体に重さがないような、いつ床を離れていつ着地したのか全くわからない軽さは、いつものことだけど驚異的。観ていてため息しか出ない。

 ミルタやウィリーたちにアルブレヒトの助命を懇願するところも、やはりコジョカルはミニマルで演じ、大げさな表現を避ける。それがどういう結果になるかというと、ジゼルとアルブレヒトが、もうわざわざ言葉や態度で表現をするまでもないような、完全に信頼し合い、深い愛情を抱き合う二人として描かれることになる。
 だから、そのあと朝が来てウィリーたちが立ち去り、この二人も別れのときを迎える場面は、もう本当に切ない。永遠の別れを惜しむ二人のつらさが、観ているこちらをストレートに打つ。こんなのを見せられたら泣いちゃうじゃないか。


 アルブレヒトを演じるコボーも演技力が本当に素晴らしくて、バティルダとの関係がジゼルにばれたときの狼狽の表現も秀逸だったし、何よりもコジョカルと共に作り上げたミニマルで正確かつ克明な心理描写は、ちょっとすごい高みに到達していると思う。ロイヤルバレエの他のプリンシパルダンサーたちもすごい人たちが揃っているけど、この二人はやはり(今さら僕が言うのもなんだけど)別格。極限まで磨き上げられ、切り詰められた表現の中に無限の心理が描き出される。
 この二人が現役で踊っているときにロンドンに住んでいるって本当に幸せなことなんだとつくづく思う。今後もこのコンビは最優先で観に行かないと。
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by voyager2art | 2011-02-19 16:47 | バレエ

憧れ/ジャニーヌ・ヤンセン & ロンドン交響楽団 & ハーディング

 久しぶりに聴くロンドンシンフォニー。前に聴いたのはいつだったかと調べてみると、ちょうど一ヶ月前。もうそんなに時間が経ったのかという感じ。今日はヴァイオリンのジャニーヌ・ヤンセンがブラームスを弾く。どんな演奏をする人なのか全く知らなかったけれど、写真を見ると妖精のような美人なので顔だけはよく覚えていた。ようやく実演を聴けるとわくわくしながらバービカンセンターに向かった。

Gary Carpenter: Fred & Ginger
Johannes Brahms: Violin Concerto in D major, Op.77
(Interval)
Richard Wagner: Siegfried Idyll
Richard Strauss: Tod und Verklärung, Op.24

Janine Jansen (Violin)
Daniel Harding (Conductor)
London Symphony Orchestra

17/2/2011 (Thu) 19:30 -
Barbican Centre, London


 最初のカーペンターという人は名前も初めて聞くし、もちろん曲も初めて聴く。最初は映画音楽のような響きで始まって、でも明確な旋律は全く形成されずに、印象の断片が次々と現れてくるような音楽。決して何かのイメージを具体的に提示することはないのに、全体としてはとても明るくてちょっと雑多な雰囲気のある楽しい音楽になっているのがとても面白かった。クラシックとジャズと映画音楽の中間地点に現代音楽の書法を持ち込んだような独特のスタイルで、とても面白い音楽だった。5分ほどであっという間に終了したのがちょっと残念。もう少し聴いてみたかった。

 続くブラームスの協奏曲。舞台に現れたヤンセンを見てびっくり。最初にも書いたように、写真が妖精のような雰囲気なので、ちょっと浮世離れしたような華奢な人を勝手に想像していたのに、実際のヤンセンはとても長身。指揮者のハーディングよりだいぶ背が高くて、存在感たっぷり。でも美人だけど。

 冒頭の序奏は角の取れた、悪く言うとちょっともっさりした感じで始まった。でも弦楽器に続くオーボエのソロがものすごく鮮やかに出てきてびっくり。メンバー表をみるとノラ・シスモンディとあって、このブログにもよく来て下さるつるびねったさんの情報によるとフランス国立管弦楽団の首席なのだそう。最近ずっとロンドンシンフォニーに来て吹いているようで、一方のロンドンシンフォニーの正規の首席奏者はこのごろ全然演奏していない。
 序奏の雰囲気から、今日の演奏も以前聴いたアラベラ・シュタインバッハーのときのように優しい演奏なのかと想像してみたりしたけれど、盛り上がって終わる序奏に続いて入ってきたソロに、完全に虚を突かれた。ものすごく烈しく突っ込んでくる!

 彼女の演奏は本当に力強くて情熱的で、僕を一気に彼女の音楽の流れの中に惹き込んでしまった。リズムやフレージングを大きく伸縮させて演奏される歌の、しなやかで豊かで熱いこと! 演奏のどこをとっても歌がほとばしり出てくる。
 さらに、彼女の音も実に魅力的。太く豊かで丸みがあって、何とも言えない艶やかさが光る。そして弓を返すときや弦を移動するとき、特に高い弦から低い弦に移るときに、おそらく弦に掛かる弓の圧力の変化によるものだろう、彼女の音は切なくなるような甘い響きを帯びる。この音がもうたまらなく魅力的で、僕はこの響きに深く魅了された。

 この独特の音色も手伝って、彼女のブラームスは烈しい部分でもとても甘美な香りを伴ったものになる。一方で、ゆったりと流れる第一主題のような部分を弾くときには、心に染み通ってくるような、やはり甘くて、そしてしっとりと美しい演奏になる。もう本当にどこを取っても魅力的で、僕は完全に彼女の演奏の虜。
 また、オーケストラも彼女を見事にサポートしていて、音色も普段と少し違って艶が増しているように思った。彼女の力強い音楽にも完璧に応えて、とても充実した音楽が作られていく。

 すっかり聴き惚れてしまって、気がつくと音楽がどんどん進んでいる。そして第1楽章の最後、カデンツァが終わり、静かな音楽がゆっくりと奏される部分のソロは、今日の演奏の白眉と言ってもいいかも知れない。心の憧れるままに想像が遥か遠くへと思い渡り、茫漠とした彼方へと移り去っていく。限りなく広い世界の美しいイメージに僕自身が覆い尽くされていった。


 続く第2楽章。第1楽章の冒頭のオーボエソロと最後のヴァイオリンソロを聴けば、この楽章が素晴らしいものになるだろうと思わない訳にはいかない。そして、実際の演奏はその想像通りとなった。シスモンディのオーボエの音も、ヤンセンと同じように豊かで丸くて甘い艶があって、彼女の吹くソロもとても素晴らしかった。
 そしてその後に出てくるヤンセンのソロは、1楽章の最後と同じように素敵な音楽をしっとりと歌い上げる。彼女の演奏には、ブラームスの音楽によくある、甘美だけれどほろ苦いという感じは全くなくて、明朗に抜け切った憧れの自由な飛翔を感じる。

 そしてアタッカで切れ目なく続く終楽章。ここでも彼女のしなやかで強い音楽が冴え渡る。音色の甘さがこの楽章にも美しい彩りを添えるけど、彼女自身は全く甘ったるい音楽を演奏していないので、音楽としては非常に豊かなバランスの取れたものになっていた。ブラームスの中の恋多き人だった側面をよく表していたのではないかと思う。鋭いリズムも、ヴァイオリンソロとしては分厚い和音も素晴らしく魅力的な歌として演奏されて、この楽章でも演奏に聴き惚れているうちにあっという間に終わってしまった。この曲の実演を聴いてここまで惹き込まれたのは初めてだった。

 シュタインバッハーの演奏を聴いたときに、もしブラームスがこれを聴いていたら彼はシュタインバッハーに恋していたのではないかと思ったけれど、今日の演奏でも同じように思った。きっとブラームスは、シュタインバッハのとき以上にヤンセンに熱烈な恋心を抱いたに違いない。そして、彼女のためにヴァイオリンソナタを作曲したりするのだ。それも、偏屈でシャイなブラームスのこと、わざわざ暗くて重い音楽を書くに違いない。そしてその中にこっそりと目立たないように、彼女のヴァイオリンの特質を活かした旋律を書き入れて、それを弾く彼女だけに自分の気持ちが伝わるようなことを考えるんじゃないか。そんな想像をしてしまった。



 休憩を挟んでジークフリート牧歌。この曲の演奏としては比較的大きめの編成で、すっきりとした演奏で開始。この演奏が何とも正統派で、何の破綻もなく実に自然に流れる。弦楽器の響きの美しさも、管楽器のソロの美しさもさすがとしか言いようがない。この曲は曲想に反して結構細かい対位法が使われているけれど、アンサンブルは完璧。ワーグナーの佳品の、奇を衒わない素直な演奏だった。

 最後はシュトラウスの死と変容。この曲もとても楽しみにしていたけれど、残念ながらこの日の演奏会で一番魅力に乏しい演奏となってしまった。音楽の組立が単調になってしまい、曲の前半も後半もただクライマックスに向けて演奏して、クライマックスを頑張る、という指揮だったように思う。もちろんロンドンシンフォニーの演奏なので各ソロは本当にうまいし合奏も完璧だし、クライマックスの盛り上がりなんかは圧倒的なんだけど、そこに至る音楽に芸がなさ過ぎた。プログラム前半のブラームスが良かったのに、尻すぼみに終わった演奏会だった。
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by voyager2art | 2011-02-18 09:40 | オーケストラ

一から出直し/マウリツィオ・ポリーニ ピアノリサイタル

 先日のバッハに続いて、ポリーニによるベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタを聴いた。5回シリーズのポリーニプロジェクトの、2回目の演奏会。


Ludwig van Beethoven:
Piano Sonata No.30 in E, Op.109
Piano Sonata No.31 in A flat, Op.110
Piano Sonata No.32 in C minor, Op.111
(No Interval)

Maurizio Pollini (Piano)

15/Feb/2011 (Tue) 19:30 -
Royal Festival Hall, Southbank Centre, London


 最初の30番のソナタは、まさに滋味たっぷりという表現がぴったりくるような弾き方で始まった。静かに、誇張なく淡々と弾きつつも豊かな歌が流れる。最初の幾何学的な模様の譜面の次に来るアルペジオを伴った和音も、ぐっと深いところから響かせる。ただ、その後次第に音が増えてくるにつれて、何となく音が鳴り切っていない印象を受けた。音楽自体は無理なく優しく流れ続けていて、特に弱音への抑制の上手さはよく伝わってきたけど、前回のバッハのときとは明らかに何かが違う。少し靄がかかったような見通しの悪さを感じた。

 それがはっきり分かったのは、続くスケルツォ的なプレスティッシモの部分。明らかにフォルテが鳴っていない。昨年聴いたブラームスの前半のような感じで、ポリーニ自身は腰を浮かしてアクセントを入れても、ピアノが響かない。音が鳴り切らないので対位法もうまく決まらない感じで、ますます見通しの悪さが増す。調子のいい時のポリーニは、こういう力強い曲を弾くときに音楽がどこまでも巨大に膨れ上がっていくのだけれど、今日のこの曲の演奏ではそれが感じられなかった。

 最後の変奏曲は再び静かな歌に戻る。ここでも優しく歌っているけれど、何かが足りないという印象は変わらない。色気を出した表情付けを徹底的に拒むポリーニのスタイルが悪い方に出てしまっているような印象。途中の力強い変奏なども、指はよく回っていてミスタッチもほとんどないにも関わらず、音楽として何かを充分に表現しているという感じではない。最後に来る長いトリルの部分も、やや響きに濁りがあって、いま一つ感銘を受けきれないまま演奏が終わってしまった。


 気を取り直して31番のソナタ。この曲はベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタの中で、一番聴く頻度が低かったため、今回は一番重点的に予習して演奏会に臨んだ(といっても大したことはできてないけど)。
 第1楽章の冒頭は、30番と同様に静かに淡々と、かつ豊かに歌わせる。音は少し豊かさが増してきて、冒頭の主題に続くアルペジオはとてもきれいに響く。でも、ここでもやはり何かが足りない。もしかするとポリーニはここで、今までの彼とは全く違うアプローチでベートーヴェンに対しているのだろうかとも思った。圧倒的な力(彼の場合は、力というと腕力と精神力のことだ)で音楽を完全に征服し、巨大な構築物を作るというスタイルを捨て、力を抜いてなお残る何かを表現しようとしているのかも知れない。そういうことも考えたけれど、やはりどこか音楽の歯切れが悪いという印象が拭いきれない。

 ピアノを弾く技術自体は安定しているし、音色も30番に比べると明らかに良くなってはいた。途中のスケルツォ的な部分では、ポリーニらしいゴツゴツとした響きも聴こえてきた。だけど、音楽の内部からの圧倒的な充実が聴こえてこない。途中に2つあるフーガも、精神の深みに分け入る力強い歩みが感じ取れなかったし、2つ目のフーガの後、コーダに入る前と後で音楽の流れに断層のような深い不連続があって、コーダの音楽の流れが浮いてしまった。
 全体として、とても小さいけれど決定的に重要なピースが欠けていて、それが演奏に現れているように思えてならなかった。もどかしい!


 今日の演奏会は休憩がなく、ポリーニは一気に3曲全てを弾いた。その3曲目、32番のソナタ。ベートーヴェンの最後のピアノソナタであって、古今のピアノ音楽の一つの極致と言ってもいい音楽。今日のポリーニは調子が悪いまま終わるのか、それともこの曲で持ち直すのかと、こちらも気が気でない。

 第1楽章の最初の音を聴いて、ポリーニの調子が上向いているらしいことは分かった。それまでより遥かに充実した響きで、音に芯が通ってきたのがはっきりと分かる。やがて第1主題(今この記事を書いていて、この主題がマーラーの復活の終楽章で引用されていることに突然気付いた)が始まると、本当に力強い響きが聴こえてきた。音も技術も格段に冴えてきて、この楽章の力強さが際立ってくる。ただしここでもやはり、音楽は巨大な構築物としては現れてこない。
 この曲は非常に激しく闘争的で、一見ベートーヴェンの中期の熱情ソナタのような力強さがあるにもかかわらず、音楽としては決定的な違いがある。熱情ソナタが、ベートーヴェンの激しく純粋な抵抗であり闘争であるのに対して、この32番のソナタでは、何かと戦っていながら、同時に心の底には相手への理解と受容があるような、そういう深みを感じる。熱情ソナタの頃から比べるとベートーヴェンが通ってきた道のりは遥かに遠く、彼自身が到達した世界はずっと高くて深い。そこから得られた洞察の深さが、音楽に一回り次元の高い広がりをもたらしている。

 ポリーニの演奏も、だから力(しつこく繰り返すけど、ここでは腕力と精神力の両方を指す)に基づいた巨大な音楽作りになっていないのかも知れないと、ここでも思った。もちろん、彼はいつものように力強く弾こうとしていたけれど、それが決まり切らなかっただけだという可能性も捨てきれない。僕にはどちらが正しいのか判断できるだけの力はない。ただ、力を抜いた演奏を目指したという可能性もあると思えるだけの説得力のある演奏であることは間違いなかった。

 そして第2楽章。言うまでもなく、この32番のソナタは2つの楽章のみから構成されていて、この第2楽章の変奏曲はベートーヴェンの音楽の最高傑作の一つ。この静かな冒頭の主題を弾くときに、そしてその後の変奏でも、ポリーニはやはり絶対に誇張を避ける。そのため、音楽としては余りにも簡素に過ぎるように、最初は思えた。
 しかし変奏が進むにつれて、音楽がぐっと動き始める。そして、付点のリズムの下降アルペジオで始まる変奏の部分で、何かが進行していると確信した。

 この変奏は一つ前の変奏から比較的自然に発展してきたものだ。しかし今日の演奏においては、この変奏は決定的な変容のプロセスだった。表面的には音楽は自然に前からつながって流れているけれど、その根底では根本的な変容が進んでいた。蝶が蝶になる直前に蛹(さなぎ)として静的な、しかし本質的な変化のプロセスを経て、自身を根本から変えてしまうように、この変奏の前後で音楽が決定的に変わった。

 ここから先の音楽を正確に記述することは僕にはできない。僕自身が、この音楽をきちんと理解するだけの素地を持っていなかったから。ここで奏でられた音楽は完全に充足していて一つの瑕疵もなく、全てにおいて寸分の狂いもないバランスが保たれていて、何一つ足すべきものもなければ取り除くべきものもない。慰めとか精神の浄化といった卑俗なプロセスを超越した絶対的な清浄であり、限りなく透明で輝かしい完璧だった。
 最後に長く続くトリルも、30番のときと違って一切の濁りがない。これを聴く僕の中では、このトリルの線は物理的な音を遥かに越えた存在であって、さざ波のような振動としてすら聴こえてこない。僕がそこに聴いたのは、充足して光り輝く「場」であって、一本の線ではなく、それ自体無限の次元の広がりを持つ、自立した世界だった。まるで天の河が、夜空を貫く一本の帯として見えながら、その実体は人の認識を圧倒的に超越した広がりと厚みを持つ銀河であるように。

 繰り返すけど、僕はこの音楽の全てを理解することはできなかった。もっと正確に言うと、この音楽が何一つ理解できていないと思った。この音楽とこの演奏を理解するには、僕の今までの人生は卑小すぎる。今まで経験した苦しみも克己の努力も、質量ともに全く足りていない。今日ポリーニが弾いてみせたのは、本当の苦しみを壮絶な努力で克服した人間だけが到達し、愉しむことのできる世界だったと思う。僕にはこの世界に入る資格が何一つない。


 ベートーヴェンの晩年の音楽には、こういう人生観を変えるような力がある。かつて日本にいた頃、アルバン・ベルク四重奏団の演奏でベートーヴェンの弦楽四重奏曲の14番(嬰ハ短調)を聴いたときもそうだった。おなかの底にずしりと重い一撃を受けた。今日の演奏もそうだった。いつもここで偉そうなことばかり言って書いている僕にとって、とてつもなく重い打撃だった。
 一から出直しだ。
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by voyager2art | 2011-02-16 08:56 | ピアノ


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