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まっすぐ/五嶋みどり & ネルソンズ & バーミンガム市響/Prom21

 久々にブログを再開したら、週に二度レビューを書いただけでバテ気味。以前は2週間で10公演以上のレビューを書いたこともあったというのに。おかげで日中はぼやぼやだらだらと過ごし、夕方になって家を出た。まずはお気に入りのモロッコ料理屋へ行って腹ごしらえ。
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 そのあとはロイヤルアルバートホールへ移動して今日もプロムス。今日は以前から楽しみにしていた五嶋みどりが出る回。

Prom 21

R. Strauss: Don Juan
Walton: Violin Concerto
(Interval)
Prokofiev: Alexander-Nevsky - Cantata
R. Strauss: Salome - Dance of the Seven Veiles

Midori (Violin)
Nadezhda Serdiuk (mezzo-soprano)
CBSO Chorus
City of Birmingham Symphony Orchestra
Andris Nelsons

30th July, 2011 (Sat) 19:30 -
The Royal Albert Hall, London


 最初のドン・ファンの冒頭部分でびっくり。音の瞬発力と響きの厚みとが非常に高い次元で両立していて、とても鮮烈。このオーケストラがラトル時代に一気に評価を高めたことはもちろん知っていたけど、これほど上手いとは全く知らなかったので本当に驚いた。単に地方都市のオケとしては上手いとかいうのではなくて、完全に一流オケとしての上手さ。だからもちろん上手いのは冒頭だけではなくて、その後も自信満々の色男ドン・ファンを実に雄弁に描き出す。指揮のネルソンズも、大胆で巧みなテンポの伸び縮みを駆使して、音楽の勢いと表情の艶やかさを際立たせる。当然ながら続いて出てくる美女の描写も素晴らしく、グラマラスな金髪美女が、上品な振る舞いの中にふといたずらっぽい表情を見せたりして、どっちがどっちを誘惑しているんだか。オーケストラの音色も上質なイギリススタイルで、しっかりと厚くて芯の通った弦楽器と、素直に明るくまっすぐ伸びてくる管楽器、リズムの冴えた打楽器が絶妙に響き合う。あまりにも美女の描写が巧みで、何だかドン・ファンが美女のペースにはまっているようにさえ感じられたほどだった。
 遍歴を重ねて最後にドン・ファンのテーマが再び高らかに奏されるところでは音楽が本当に大きく盛り上がり、シュトラウスの意図やストーリーを越えて、ちょっと感動的な音楽になっていた。シュトラウスは上手いオーケストラで聴かないと面白味が半減すると思うけれど、今日の演奏は技術も内容も、なかなか滅多には聴けないような非常に立派なものだった。


 続いていよいよ五嶋みどりが登場。ちなみにウォルトンのヴァイオリン協奏曲というのは今まで一度も聴いたことがなく、直前にYoutubeで一度だけ通して聴いてみたくらい。いかにもイギリス音楽らしい、あか抜けない音楽という印象で、でも五嶋みどりが弾くならいい演奏が聴けるに違いない、という期待も大きかった。
 演奏が始まると、やはり彼女らしい素晴らしい集中力の音楽。力強さとしなやかさが冴え渡り、そこにイギリス音楽らしいくすんだメランコリーが濃厚に漂う。技術的な水準もいつもどおり驚異的に高く安定していて、音程やフレージングに乱れは一切なく、ピシッと完璧に筋の通った強い音楽。
 ただ正直な印象を言うと、やはり曲の魅力の乏しさが演奏の素晴らしさを損なっている部分が大きかったと思う。1楽章の速い中間部のほとばしるような集中力や、2楽章のシニカルな偽態とデリケートな沈鬱の交替などは見事だったけれど、かつて聴いたブルッフの協奏曲や、フランクのソナタのときのように、直接こちらの心を直撃して、そのままどこか遠くまで連れ去られてしまうような、そういう演奏ではなかった(そしてこれには、ホールが大きすぎたということも影響していると思う)。
 それでも、第3楽章の長いピアニッシモの音楽は本当に素晴らしかった。イギリスのロンドン以外を旅したことのある人なら分かると思うけれど、大都会ロンドンから電車で少し移動するだけで、その郊外には急に田園風景が広がる。むくむくとしたこぶ状の野原に羊や牛や馬が点在して、平和でのどかな風景がどこまでも広がる。でも晴れているときは美しいその風景も、雲が出て雨が降ったり霧が出たりしてくると、急に暗くて孤独と不安を感じさせるような風景に見えてくる。その後者のような音楽。
 それを弾く五嶋みどりの演奏はとても厳しいんだけれど、その厳しさは彼女自身に向けられたものであって、彼女がこちらの心の本当に奥深いところまで誠実に寄り添うための、自らを律する厳しさだった。だからその演奏には、ほの暗い憂愁の中にもとても暖かい共感と力強い励ましが込められていて、全く押し付けがましくないのに聴いているこちらには直接的にその優しさや前向きな気持ちが伝わってくる。僕はこの曲の良き理解者ではないけれど、この曲の演奏としては出色の出来であったことは間違いないと思う。彼女にはまた何度でもロンドンに来て、いろいろな曲を聴かせてほしい。
 彼女を支えるオーケストラもとても良くて、厳しく繊細なソロヴァイオリンを優しく支えるさまは、ソリストへの敬意と共感に満ちたすばらしいものだった。
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 休憩を挟んでプロコフィエフのアレクサンドル・ネフスキー。僕はこの曲を実演でも録音でも聴いたことがなく、この曲が合唱とメゾソプラノを伴ったカンタータだということも、今日会場に行って初めて知った。
 僕は元々プロコフィエフの音楽があまり得意ではなく、チューバの出番が極めて多い作曲家であるにもかかわらず好きになれなかった。それが変わったのは実は今年に入ってからで、ロイヤルバレエでシンデレラを何度も観てから、やっとその音楽の面白さを自然に理解できるようになった。今ではロメオとジュリエットの音楽も大好き。
 だからかなり期待して聴き始めたのだけれど、これが予想と全く違ってとても厳粛な音楽。もちろんカンタータだからふざけた音楽にはなりようもないんだけれど、プロコフィエフらしい飛び跳ねる旋律や大胆な和声はほとんどなく、実に深刻な表情で音楽が進んでいく。演奏も真摯かつ真っすぐで、この曲の良さを非常に真面目に誠実に描き出していっているように思えた。途中で音楽が非常に激しくなる部分もあったけれど、決して乱雑になることなく、絶対に崩れないアンサンブルと力強い音色が印象的だった。
 この日の合唱は残念ながら少し乱れが見られるところもあったけれど、メゾソプラノのナデージダ・セルデューク(と読むのかな?)の歌唱は素晴らしかった。終わりの方の一曲だけしか出番がなかったけれど、深い声と正確な音程、そして豊かな情感の三拍子揃った見事なものだった。
 初めて聴く音楽ではあったけれど、とても誠実な音楽作りにとても好感が持てた。


 ここまでで充分に一回の演奏会として成り立つボリュームだったけれど、このあと更にサロメの7枚のヴェールの踊り。今までの演奏から、この曲の演奏も素晴らしいものになることは疑わなかったけれど、予想通り伸縮自在で、力強さと豊かな歌心に満ちた演奏。ネルソンズの指揮はとても情熱的で、きれいな棒を振るというよりも、彼が自分の中にいっぱいに持っている音楽を、少しでも人に伝えようとあらん限りの手段を使って必死に表現しようとしているような振り方をする。見ていると漫画のように大げさに体を動かしながら、譜面台を乗り越えて奏者に触れんばかりに身を乗り出したり、ぐっと腰を屈めて溜めを作ったりと、客席から見ていても、そこから止めどなく表現が溢れ出てくる。
 こんな指揮をされたらオーケストラも頑張らないわけにはいかなくて、優れた技術を駆使してネルソンズの指揮を素晴らしい音に変えていく。芸術観が変わるような衝撃を持った演奏ではなかったけれど、さっきのプロコフィエフのときのように素直に楽譜に反応した素直な演奏で、これも好感が持てた。最後は一気にテンポを上げて、一気呵成に締めくくった。


 とにかく長くてボリュームたっぷりだった今日の演奏会、内容も素晴らしい演奏をたっぷりと聴かせてもらって、大満足だった。
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by voyager2art | 2011-07-31 09:53 | オーケストラ

形と中身/パユ & BBCウェールズ管 & フィッシャー/Prom 18

 今日もプロムス。ベルリンフィル首席フルート奏者のパユが現代のフルート協奏曲を吹くというので、それを楽しみに出かけた。オーケストラは、地味ながら堅実な演奏をするBBCウェールズ管。指揮はティエリー・フィッシャー。

PROM 18

Beethoven: Symphony No.1
Marc-André Dalbavie: Flute Concerto
(interval)
Elliott Carter: Flute Concerto
Beethoven: Symphony No.7

Emmanuel Pahud (Flute)
BBC National Orchestra of Wales
Thierry Fischer (Conductor)


 最初はベートーヴェンの1番から。舞台に現れたオーケストラ、トランペットは何と自然管(ナチュラルトランペット)。ティンパニも小型のものを使っていて、当然ながら演奏も古楽奏法を採り入れたもの。先日のマーラーで鮮烈な演奏を聴いたばかりだし、だからどうしても比較してしまうけど、今日のフィッシャーとBBCウェールズ響の演奏は、明らかに響きの作り方はモダンオーケストラのそれで、そこに(頑張ってはいるものの)表面的に古楽の響きも付加されている程度という感じ。同じモダンオーケストラでも、古楽の響きの導入という点ではノリントンとシュトゥットガルト放送響の方が遥かに過激で徹底していた。
 また、今日のフィッシャーはナチュラルトランペットを使わせつつホルンは現代式のものを使っていて、特にストップ奏法を模した音色の変化なども付けておらず、アカデミックな視点から見ても物足りない。これは、例えばラトルとウィーンフィルが録音したベートーヴェンの交響曲全集では、ウィンナホルンを使いつつも、ストップ奏法を模してホルンに音色の変化をつけ、素晴らしい効果を上げている。
 こうなるともう悪いところばかりが見えてきてしまって、例えばナチュラルトランペットを使うことで部分的に音程が非常に悪くなっているのも気になって仕方なかった。自然管による倍音列で作られる音程は非常に癖があるから、和声によってはどうしても無理が出る。
 曲の演奏自体は爽やかでそつなく纏まっていて、よく言えば破綻のない、でも本音で言えばこぢんまりと面白味に乏しい演奏だった。

 続くDalbavie(何と読むのか分からない)のフルート協奏曲でいよいよお目当てのパユが登場。冒頭は現代版熊ん蜂の飛行とでも言うような忙しい音楽で始まったこの曲、フルートのソロが目立つようでいて、すぐにオーケストラのフルートやその他の楽器が同じ音型でかぶさってくるので、どうにもソロフルートが浮き上がってこない。最初のうちはそれがすごくもどかしかったけど、聴き進むうちにそれが作曲者の意図だということがふと分かってきた。それが糸口となって、この曲の面白さがつかめてきた。
 この音楽では、例えばフルートソロに何かの動きが現れると、それが波紋のようにオーケストラの様々な楽器に伝わっていく。そしてまた逆に、オーケストラの中で何かの擾乱があると、それが凝縮してフルートソロに受け渡されたりする。
 音楽自体は無調で書かれているけれど、その印象は現代音楽特有の不安感に満ちたものではなく、中性的かつ客観的な抽象性を持っていたように思えた。そのため聴いている僕は、望遠鏡で夜空の星を見ているときに感じるような、人の浮世からは遠く離れて別のスケールの秩序を持った世界のような印象をこの音楽に感じた。オーケストラという広がりを持った場を舞台に、ソロフルートがその場(=オーケストラ)とインタラクティブな過程を繰り広げるのを外から興味深く観察しているような、そんな印象だった。なかなか面白い曲だった。


 休憩を挟んでもう一曲のフルート協奏曲。英国初演ということで、当然僕も初めて聴くけど、聴き始めて正直戸惑った。もちろん無調の現代音楽なんだけど、その現代音楽としての難解さに戸惑ったわけではない。英国初演というから新しい音楽のはずなのに(あとで調べてみたら、2008年の作曲だった)、むしろセリー音楽風の、現代音楽としては極めて古典的な作風がブーレーズの模倣か何かのように聴こえて、その「現代音楽としての古さ」に戸惑ったのだ。音楽としては内向的で、中間部の凝縮された純度の高い抒情はとても印象的ではあったけれど、どうにも時代錯誤的な印象は拭えなかった。今の時代にこの音楽を世に出す理由が僕には見出せなかった。
 もちろん音楽は本質的に内容が重要なのであって、語法や技術は(本質的に重要な面も持つけど)あくまでも手段であるというのは僕も承知している。でも、例えば先日、このブログを休んでいるときに聴きに行ったポリーニのピアノリサイタルでは、彼の弾くブーレーズの第2ソナタに僕は非常に興奮した。音楽の純粋な運動性自体の面白さや、抽象的で神秘的な抒情、そして何より、あの音楽に力強く底流する強靭な知の意思とでもいうべきものに圧倒されたのだった。そこには、語法の面白さと同時に、語法を越えた力強い内容の面白さが明確に見られた。そういうものは、今日のフルート協奏曲には残念ながらなかった。
 作品自体に対しては非常に辛口になってしまったけれど、パユの演奏の上手さ自体は驚異的だった。これはもう間違いない。


 最後は再びベートーヴェンに戻り、そして古楽奏法に帰ってきて、7番の交響曲。これが、僕にはどうにも我慢のならない演奏だった。フィッシャーは非常に丁寧にリハーサルを行ったに違いない。フレージングの隅々まで、彼の意思が行き渡っているように僕には聴こえた。ただ、細部にこだわるあまり、全体としてスケールの小さな音楽になっているのがはっきりと感じられたし、何よりも問題だったのが、彼が細部を積み重ねるのは、それが音楽の流れ・表現の手段として必要だからではなく、いかに演奏の効果を挙げるかということに彼が集中しているためだと感じられた点。彼自身は一所懸命に指揮棒を振っているし、音楽もときどき流れに乗りかけるのに、ここというところであざとく音量を落としてクレッシェンドを始めたり、突然何の脈絡もなく古楽奏法を強調して音楽の流れを断絶させたりして、こちらが音楽に入っていくのを彼の演奏が妨げてしまう。
 特にそれが明確に現れたのが2楽章で、この「不滅のアレグレット」の主題は古楽奏法を堪能するにはもってこいの音型なのだけれど、それが故にここでは音楽が古楽奏法の強調の手段として隷属させられているようだった。もちろんベートーヴェンの音楽は、もともと個人的な感情から出発しつつも、特定の個人の感情から脱却して普遍性の獲得を強く志向したものだし、その中で音楽自体の外面的な魅力も力強く磨き上げられてはいるけれど、それは普遍的に人の心を打つ芸術を打ち立てるという前提で行われていることであって、それを忘れて音楽の外面的な効果だけ狙っても音楽が上滑りするだけになってしまう。
 この楽章を聴いてから僕はもうフィッシャーの演奏に心を傾けることができなくなった。彼が何をやっても、単に外側だけのものとして聴こえてしまう。結局最後まで納得がいかないまま演奏が終わった。最終楽章のコーダはそれなりに盛り上がっていたので、お客さんの反応はとてもよかったけれど。


 こうやって書くと、全体に辛口なレビューばかりになってしまっているけれど、僕は今日の演目のうち、2曲のフルート協奏曲については(多少の不満を覚えつつも)しっかり楽しんだ。そして何より、お祭り気分のプロムス自体が楽しいので、いろいろ文句を言いながらも、このプロムスの場自体はやっぱり楽しい。プロムス通いは当分頻繁に続きます。
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by voyager2art | 2011-07-29 08:52 | オーケストラ

ブログの再開

 最近また少しずつ記事をポストしていますが、そろそろこのブログを再開しようと思います。当分は、以前のように行ったイベントの(ほとんど)全てについてレビューを書くということはせず、適度に間引きながらほどほどの頻度で更新していこうと思っています。また、芸術関連のイベントや情報だけでなく、旅に関連する情報も僕自身のメモを兼ねて載せていくかもしれません。

 しばらくお休みしていたせいで、いろいろインプットしてパワーアップしたというよりも、さぼり癖がついた上に酷い文章しか書けなくなっているのを一つ前の記事で痛感したのですが、記事を書き続けるうちに勘も戻ってくるはず。また気長にお付き合いのほどを宜しくお願い致します。
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by voyager2art | 2011-07-28 04:47 | その他

過激を極めた正統派/ノリントン&シュトゥットガルト放送響/Prom 14

 今日は友人と連れ立ってノリントンとシュトゥットガルト放送響のマーラーの9番の演奏会へ行った。ノリントンと言えば古楽演奏の代表格みたいな人なので、その彼がマーラーをどのように演奏するのか見当もつかなかった。古楽に関する僕のわずかな知識から想像するに、マーラーで古楽奏法を導入してしまうと、典雅でお上品で力も魂も抜けたような、マーラーとはかけ離れた音楽ができてしまうような気がしてならなかった。
 ところが実際に聴くと、これが信じられないくらい刺激的で素晴らしい演奏だった。ずっとお休みしていたこのブログだけれど、この演奏を聴いて何も書かないわけにはいかない。久々のレビューで筆が鈍っていることは百も承知だけれど、構わず書く。


PROM 14

G. Mahler: Symphony No.9

Sir Roger Norrington (Conductor)
Stuttgart Radio Symphony Orchestra

25th Sep. 2011 (Mon) 19:30 -
Royal Albert Hall, London



 第1楽章は予想通り速めのテンポ。冒頭のささやくようなチェロは音色がくぐもっていて古楽奏法を明確に聴き取ることはできなかったけれど、続く第2ヴァイオリンの旋律にはっきりと古楽奏法の特徴が現れた。極限までヴィヴラートを抑制して、音色がすっと伸びてくる。でもいわゆる古楽の響きの鄙びた印象もなくて、芯は通っていても現代ドイツのオーケストラらしい厚くて柔らかい響きが基調にあるので、音に艶と力がある。
 でも本当のことを言うと、僕の意識はその奏法や音色よりも、音楽の表現そのものに釘付けになった。古楽奏法を採り入れたマーラーという先入観から、透き通った蒸留水のような、淡白なマーラーが演奏されるのかと思っていたら全くの正反対。最初からただならぬ情念が漂う、この上なく濃厚な音楽が紡ぎ出されてきた。
 演奏全体としては本当に速いテンポで、しかも頻繁にテンポを動かしながらノリントンはここぞというところで通常とは逆に更にテンポを上げる。それでありながら音楽は、バラバラに断片化されるわけではなくて、確固たる一貫した太い流れを失わない。僕はここにドイツのオーケストラの強靭な伝統を見た気がした。どんなテンポでも、どんなスタイルでも、「音楽」そのものを表現することから決して逸脱しない。それは、そうすることが彼らにとっての存在意義そのものだからだという強固な意志に支えられた伝統なのであって、だから古楽奏法も速いテンポも、彼らにとっては「音楽」を演奏する際の方便でしかないのかも知れない。
 とは言っても誤解してほしくないのだけれど、それはオーケストラがノリントンのスタイルを軽視しているとか、あるいはスタイルにこだわるノリントンをオーケストラが内容面でサポートしているとか、そういう表層的な話ではない。ノリントンが極めて豊かで、かつ明確な音楽性を持って指揮しているからこそ、それがオーケストラと強く共鳴していたことは疑いの余地がない。


 今日の演奏で特徴的なのは古楽奏法やテンポ設定だけではなかった。もう一つ彼らの演奏を強く特徴付けていたのが、非常にコントラストの強いアーティキュレーション。アクセントやスフォルツァンドの効かせ方が大きく、それが音楽の生き生きとした生命感に直結している。だから音楽が盛り上がったところでも静かで神秘的なところでも表情が弛緩することが一切なく、どこをとっても豊かに歌い、並々ならぬ表現の豊かさをもたらす。そして更に、意識にあまり上らないとは言え、弦楽器が対位法的な動きをするところでは古楽奏法がその威力を発揮する。ぐっと音楽が複雑になるところで明瞭な音色が輝かしく浮き立ち、多声部の絡み合いの面白さを聴かせることも忘れない。

 マーラーの9番で、これほど刺激的で、しかも音楽としての説得力を持った演奏は今まで聴いたことがない。濃密な情念に満ちていながら甘ったるい感傷とも一切無縁で、知性の卓越を感じさせながらも心の奥底の何かに否応なく突き動かされるような容赦のない演奏。どんなに速いテンポで演奏したとしても20分はかかるこの楽章を聴いていて、短いと思ったことも今までなかった。
 ずっと興奮しっぱなしで、恐るべき密度の演奏に引き込まれっぱなしの第1楽章だった。


 この時点で大変な演奏を聴いたと思ったけれど、第2楽章もあっと驚く演奏だった。この2楽章はレントラー舞曲という、オーストリアの田舎の素朴な舞曲のスタイルに基づく音楽で、マーラー自身がスコアに明瞭に「レントラー」と書いている。しかし今日のノリントンの演奏は、そんな懐古趣味を吹っ飛ばすような凄まじい速さ。のどかで平和だった良き日々を回想する音楽などでは全くなくて、今までの人生で経験した出来事がものすごいスピードで次から次へと意識をかすめて流れ去って行くような、そんな印象。そこには細部を懐かしむ余裕など全くなく、ただひたすらそれまでの何十年分かの出来事が感傷なしに積み重ねられ、圧倒的な質量でのしかかってくる。
 写真に詳しい人なら、ナン・ゴールディンの大量の写真がスライドで次々に映写されてゆく中に、明確な説明が一切ないにも関わらず写真家の人生そのものがぬっと大きな存在として浮かび上がってくる感覚を思い浮かべれば、それが一番近い例かも知れない。この楽章にこれほど強烈な力があるとは考えたこともなかった。恐るべき演奏だった。

 そんな第2楽章を聴いた後だったので、続く第3楽章はどんなにすごい演奏になるのかと思ったけれど、これが予想外におとなしい。テンポも極めて標準的で、むしろ2楽章がブルレスケで、3楽章が田舎舞曲であるかのように思えてくる。そのせいで、前の二つの楽章が人生というものの個人的な側面に強く光を当てた演奏だったこともあり、この第3楽章は何か人の生一般についての、やや距離を置いた観察のように響く。
 おやおやと意外な印象で、ずっと演奏を聴き進んで行っても、中間部のトランペットソロが印象的な部分ですら内容との距離感(僕の心理と演奏との距離感ではなく、演奏自体がその表現しようとするものとの間に保っている距離感のこと)を感じさせた。
 この印象が変わってきたのは、元のブルレスケの主題が戻ってくるまでの過渡的な部分。ここでは通常、僕は人が夢から醒めて過酷な現実に嫌々ながら徐々に復帰していくような印象を持つのに、今日の演奏ではむしろ夢が深まっていくように僕には思えた。ここでようやく、一般的な人生論から個人的な内面の彷徨に音楽が移り変わっていったようで、音楽は運命に翻弄される人の描写として一気に緊迫感を高めていった。


 このブルレスケが怒濤の勢いで終わると、ひと呼吸置いていよいよ終楽章。ぐっと速いテンポで力強い序奏の後、テンポは通常の倍近い速さであるにも関わらず、ゆったりと幅と余裕のある豊かな音楽が奏でられる。弦楽器主体のこの楽章では再び古楽奏法が力強く効果を上げ、柔らかい歌に芯のある輝きと暖かくも明瞭な輪郭を与える。そして、弦楽器の上から響いてくるホルンソロは音が飽和する限界まで強い音で吹き、また各楽器のアーティキュレーションは極端なまでに大きなコントラストを与えられる。それによって、この深くて印象的な音楽が素晴らしい力強さと明確に前向きな表情を帯びることになる。
 ノリントンの演奏は、ここでも第1楽章と同様にぐっと盛り上がるべきところでテンポが上がるなど、頻繁で極端なテンポの操作がある。そして、それにも関わらず音楽の一貫した流れが途切れない点も一緒。徹頭徹尾、通常よりも極端に速いテンポ設定で演奏しながらそこに音楽としての表現が失われることは一切なく、最後の消え入るような音楽では、空間の広がりと時間の遡及とが渾然一体となりつつ、清らかですがすがしい狂気と、死の影の懐深くに抱かれた生の肯定が、深い静けさのうちに濃密に語られる。


 繰り返すけれど、今日のノリントンの演奏は、演奏様式やテンポ設定の点では過激極まりなかった。しかし、そこに込められた音楽の真性は疑うべくもなく、マーラーの音楽の魅力と深みを、肯定的な方向において、余すところなく語り尽くしていたと言ってもいいものだった。
 マーラーの演奏史を振り返るとき、ベートーヴェンやワーグナーの延長線上で1番、4番などが演奏されていた時代から、1980年代のマーラーブーム(リバイバル)以来の「楽譜に忠実な」演奏への、大きなスタイルの転換があったと思う。今日のノリントンの演奏は、さらにそこから決定的な一歩を踏み出して、さらに過激で、現代の伝統とのしがらみを断ち切った鋭さがある。そういう点で彼の演奏は本当に刺激的で、事実彼の演奏を聴いていて、どこを取っても驚きを感じないところはないと言ってもいいくらいだった。そして同時に、ノリントンの演奏は音楽の表現という点に置いて、一切の妥協なしに本質的な部分に迫るだけの圧倒的な迫力がある。本当に素晴らしい、希有と言ってもいいマーラー演奏だった。


 演奏が終わって、何度目かのカーテンコールでノリントンはマイクを持って出てきた。「マーラーの9番のあとにアンコールなんて普通はやらないんだけど、」と前置きして、マーラーと同時代に生きたエルガーが、マーラーの9番と同じ時代に作曲したエレジーを演奏すると語った。ノリントンによれば、マーラーとエルガーはお互いを知っていただけではなく、エルガーは初期のプロムスでマーラーの交響曲を採り上げたし、マーラーはニューヨークフィルとエルガーのエニグマ変奏曲を演奏したという。そういう二人だったので、エルガーのエレジーを、マーラー没後150年の追悼に演奏するのも悪くはないだろう・・・
 エルガーの曲は、マーラーを聴いた後では余りにも単純で素直な音楽だった。しかし、前向きなマーラーの9番の演奏の後では、エルガーの素直な感傷もすっとこちらの心に柔らかく染みとおってきた。
 これもいい演奏だった。
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by voyager2art | 2011-07-26 08:33 | オーケストラ

佐渡裕&ベルリンフィル

 最近話題になった、ベルリンフィルへの佐渡裕の登板。そのときの演奏会の一部がYoutubeに上がっていた。観れば分かるけど、途轍もなく熱い。佐渡さんの指揮だけでなく、ベルリンフィルの演奏も本当にすごくて、1分32秒のティンパニの打ち込み、そして最後の2:44で一気に解放されるトゥッティなど、何回観ても鳥肌が立つ。

 日本ではこの演奏会がテレビで放送されていたとか。羨ましい・・・


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by voyager2art | 2011-07-24 21:49 | オーケストラ

ロホとの対話

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 ロイヤルオペラハウスの公式ブログに、たしか今年4月頃にあった"Tamara Rojo in conversation"というイベントの録音が掲載されているのを発見。写真はその公式ブログから。このイベントは僕も直前にチケットを入手して聞きに行ったけれど、とても面白い内容だったのでここでご紹介します。

Tamara Rojo in Conversation
(音声ファイルのダウンロードも可能。)

 実際のイベントは1時間以上のものだったので、色々と内容がカットされているところもあるけれど、彼女がどういうことを考えて踊っているか、恐ろしいほどの技術を持った彼女が自身の身体的特徴(制約)をどう考え、それにどう向かい合っているか、そういったことが明瞭に語られていて、非常に興味深い内容です。当然ながら全編英語ですが、聴き手のジェニングスもロホも分かりやすい英語で話しているので、興味のある方はぜひどうぞ。
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by voyager2art | 2011-07-23 19:27 | バレエ

ロラン・バルト著「明るい部屋 - 写真についての覚え書き」

 このブログをお休みしている間、色々な本を読んだり、博物館に出かけたりということを繰り返しています。その中の一つの覚え書きとして、写真論の古典である(らしい)ロラン・バルトの「明るい部屋 ー 写真についての覚え書き」(みすず書房)のまとめをここに記録しておくことにします。これ以外にも本は読んでいるし、様々なインプットはあるのだけれど、僕にとって重要度が高いのと、内容が結構難しいので、自分自身のための要約として書きました。
 あくまでも個人の記録としての記事なので、真面目に読んで下さいというような記事ではありません。また、僕が本書を正しく理解している保証はないということについてもあらかじめおことわりしておきます。

 ちなみに、このブログの本格的な再開はたぶん8月上旬くらいになると思います。

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 バルトは写真の心理を探求するにあたって、最初は普遍的な立場からスタートせず、自分自身の個人的な体験に基づいて写真を論ずることを宣言する。
「私は若干の個人的反応から出発して、それなしでは『写真』が存在しえないような、『写真』の基本的特徴や普遍性を定式化しようとつとめるであろう。」

 次いで、バルトは自身が写真に撮られるときの心理や、写真を見るときの感情などを一通り論じつつ、自分が個々の写真に対して抱く感心・興味には以下の二つの異なる種類のものがあると気付く。


1. 自身の教養や既知の文化などを仲立ちとして、写真に写されている情景・対象に抱く関心

2. 写真から発し、写真を見る自分を刺し貫いて、心を締め付けるような衝撃


 彼はこの二つのものを、それぞれ「ストゥディウム」、「プンクトゥム」と名付けた。

 「ストゥディウム」はあくまでも一般的な関心であって、見る側の心を突き刺しはしない。それは「礼儀正しい」関心であり、従って「無責任な」関心である。
 一方の「プンクトゥム」は写真のある細部、すなわち対象の一部分であって、その細部があることによって見る側の読み取りが一変するようなものである。
 一枚の写真の中に両者が共存することもあるし、当然ながらどちらにも当てはまらず、一度見ただけですぐに忘れ去られていく写真も存在する。

 ストゥディウムとプンクトゥムを分ける一つの例として、彼は「単一な写真」というものを論じる。単一な写真とは、その写真の主題から無駄な付属物を取り除いてシンプルに主題だけを示すものである。単一な写真は、その主題が明確に一つに絞り込まれているために、既知の文脈からの興味、すなわちストゥディウムしか引き起こさない。その具体例はポルノ写真であり、「ポルノ写真とはセックスだけを見せるように構成されている」。
 これだけではピンと来ないかも知れないけれど、次の例は彼が「単一性」という言葉で何を意味しているのかを明瞭に解き明かしてくれる。
 「メイプルソープは、パンティの網目を接写することによって、セックスのクローズアップを、ポルノ的なものからエロティックなものへと変えた。その写真は、もはや単一ではない。それは私が布地の肌目(きめ)に関心を持ったからである。」
 この論点は僕にはごく自然に受け入れられるものだ。個人的な例になるけど、先日ロイヤルオペラハウスで、マスネの「サンドリヨン(シンデレラ)」のオペラを観た。このオペラの曲の中にはマクミランのバレエ「マノン」に使われているものがあり(バレエのマノンの音楽は、マスネのオペラ「マノン」以外の音楽を組み合わせたもの)、その音楽が流れてくると、僕の意識の中では舞台上のシンデレラと記憶の中のマノンが同時に流れることとなった。一つのものが複数の独立したものを意識にもたらす感覚というのは極めて刺激的だ。


 プンクトゥムとは当然ながら個人的・主観的なものであり、ある人がプンクトゥムを見出した写真が、別の人にはストゥディウムしかもたらさないこともあり得る。興味深いのは、ある写真のプンクトゥムが一体何であるか、当人にもすぐには分からないことがあるとバルトが述べている点。最初はこれがプンクトゥムだと思っていたのが、後になってみると別のものがプンクトゥムであることに気付くこともあると彼は主張する。プンクトゥムというのが極めて主観的な観念であることを考えれば、そういうこともあり得るだろうと納得できる。

 もう一つ、バルトがプンクトゥムではないとした例が僕には興味深い。彼は、不意打ち・驚きによってもたらされる衝撃はプンクトゥムではないと述べた。具体的に言えば、「珍しさ」を前面に出した写真と、技術の卓越による驚きであり、前者の例として奇形の人の写真や、火事の際にビルから飛び降りる人の写真、後者の例としては、牛乳の滴が落ちたときに王冠のような形になるのを高速シャッターで捉えた写真を、バルトは挙げている。
 前者の例などは一見すると強くプンクトゥムを感じさせそうなものだけれど、恐らくバルトの言いたかったことは、そういう珍しさを暴露することを目的として撮った写真には、ストゥディウムは感じてもそれ自体にプンクトゥムは感じないということなのだろう。音楽で言えば、例えばオーケストラの編成がかつてないほど大きいからと言って感動するわけではないとか、超絶技巧が目的化した演奏に心動かされることはないということなのだと思う。

 こうしてストゥディウムとプンクトゥムについて縦横に語った後、バルトは唐突にそれまでの論を否定する。「前言取り消し」と題した段落で、彼はそれまでの論が自身の欲望(写真の楽しみ方)の働きについては説明しているものの、そういった主観を起点とした議論が、写真そのものの本質(「写真を他のあらゆる映像から区別するもの」)を説明するものではなかったと認め、さらに論を深めていく。


 本書の後半は、彼が亡くなった母の写真を眺める話から始まる。何枚もある母の写真のどれを見ていても、彼には母の印象の断片しか浮かんでこず、まるで夢 ー その夢の中では、「それが母だと知っていても、母の顔立ちを見ることはできない」ー のように不完全な認識しかもたらさない。
 そんな折、彼は一枚の写真を発見する。それは温室で撮影されたもので、そこには子供の頃の母とその兄(それぞれ5歳と7歳)が写っていた。バルトはその写真に写った少女の頃の母の映像に「ついに母を見出した」。「この写真には、母の実体を構成するありとあらゆる属性が盛り込まれて」いて、彼はようやく母の完全な印象をその写真から認識することとなった。この体験を契機に、バルトは論を進めることとした。

 ここでバルトは、写真の本質的な特徴として、「(被写体となった)事物はかつてそこにあった」という点を挙げ、この「それは=かつて=あった」という性質を写真のノエマとして置いた。
 ちなみにこの「ノエマ」という語の意味は僕には極めて分かりにくい。「写真のノエマ」とは、写真というものについての人の認識、ということを意味しているようだけれど、哲学用語としての正確な意味が僕には分からない。また、「それは=かつて=あった」と単語の間に"="を入れるのは、西洋語としては普通でも日本語としては気持ち悪いので、ここでは素直に「それはかつてあった」と書くことにする。いずれにしても、写真とは本質的に、被写体となったものが、絵や言語とは違って実際に事実として存在したことを示すものだ、という論点は自然である。
 もちろんこの論点は、デジタル技術による画像合成が可能となった今日では成り立たなくなってはいる。バルトなら、そういう技術は写真を再び絵の世界に引き戻すだけだと言うだろう。僕自身は今のところそういうデジタル合成技術には全く興味がないので、いまはバルトの論理を素直に受け入れて先へ進む。

 バルトがこの「それはかつてあった」という写真のノエマを、温室の写真での体験から抽き出した。彼はその写真に見る母の映像に母の「真実」を発見し、その「映像の真実性から、その映像の起源にあるものの現実性を引き出した」。「私は独特な感動のうちに真実と現実を融合させたのであって、いまや私は、そこにこそ『写真』の本性ー精髄があるとしたのである。なぜなら絵に描かれた肖像は、いかに《真実》に見えようとも、どれ一つとして、その指向対象が現実に存在したという事実を私に強制しえないからである。」
 それではこの「真実」の認識をもたらすものは何か。バルトは、それは「雰囲気」であると言う。「雰囲気というもの(私は真実の表現をやむをえずこのように呼ぶ)は、自己同一性の、いわば手に負えない代理・補完物である。」つまり、写真に写ったものが真にそれそのものである(すなわち自己同一性を保っている)と感じさせる何かを、彼は「雰囲気」と呼んだ。


 これに続いて、バルトは写真の狂気にも言及する。写真を見るとき、見ているのは単なる被写体のイメージであって、実際にはその場所に存在していない。一方で、写真は被写体がかつてそこに確実に存在していたことを証明する。この二つの事実の間の断裂は、写真が「分裂した幻覚」であり、「『写真』は現実を擦り写しにした狂気の映像」であることを示す。
 そしてまた、彼は彼の心を捉えた何枚かの写真について再び思いを巡らす。それらの写真に対して抱いた感情と、この狂気とは何かがつながっていると彼は考えた。そしてその感情とは、「憐れみ」であると指摘する。「私は、そこに写っているものの非現実性を飛び越え、狂ったようにその情景、その映像の中へ入っていって、すでに死んでしまったもの、まさに死なんとしているものを腕に抱きしめたのだ。」
 ちなみに僕にはこの「憐れみ」という訳語が適切なのかどうか分からない。原著を読めないのでもどかしいのだけれど、「共感」とでも言う方がしっくりくるような気がする。

 最後にバルトは、写真の「狂気」とどう向き合うかについて述べる。社会では、写真の狂気をしずめ、飼い馴らすために二つの方法を採用する。一つは、写真を(古典的な意味での)「芸術」に仕立て上げること。もう一つは、写真を一般化・大衆化し、「普通」なものとしてしまうことである。現実の社会では、この後者が現に行われている。
 そうではなくて、写真を見る者に本質的に時間を遡るような感覚を与えるような場合(バルトはこれを「写真のエクスタシー」と呼ぶ)には、写真が本来持つ狂気が現れることになる。このどちらを選ぶかは自分次第であると述べて、バルトは本書を終える。



 このバルトの「明るい部屋」は、印象に深く残る写真がどういうものかということについては一定の答を提供してくれるけれど、どうすればそういう写真が撮れるかという問いについては、依然として写真を撮る側に全てが残されている。ここから先は僕が自分で考えないといけないことだけれど、少なくとも目指すべき目標の大まかな方向性を得ることができたという点で、得るものの大きかった本だった。
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by voyager2art | 2011-07-19 08:54 | 写真


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